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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

引きつれて 死出の旅路も 花ざかり

田丸稲之衛門の次女・八重の辞世の句。八重は父が水戸天狗党の乱において天狗党の首領であったため、17歳の若さで諸生党によって斬首された。

シリーズ天狗党の最後を締める人物として、田丸稲之衛門の次女・八重の辞世の句を紹介します。この見事な句を、17歳の女の子がこれから殺されるという時に詠めたことは、奇跡とさえ言えるでしょう。歴史の真実とは、栄光ある正史の中ではなく、こういった市井の人の言葉の中にあるものです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

(次男・一精に髪と抜けた歯を収めた箱を渡して)
死後若し形見のものを会津の方へ持って葬りたいという話があったら、これをやれ

飯沼貞吉の遺言。飯沼貞吉(いいぬま さだきち、嘉永7年3月25日(1854年4月22日) - 昭和6年(1931年)2月12日)は白虎隊士(士中二番隊所属)。維新後は名を貞雄と改め、逓信省通信技師となる。後に孤舟、孤虎と号した。軍人としての最終階級は陸軍大尉。栄典は正五位勲四等。年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍した。1931年(昭和6年)2月12日、77歳で生涯を終えた。戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。嘉永7年(1854年)3月25日、会津藩士・飯沼時衛一正の二男として郭内本二之丁と三之丁間、大町通りにて生まれる。時衛は物頭を務め、家禄450石、家紋はからおしきにちがい鷹羽。母文子は西郷十郎右衛門近登之の娘で、玉章(たまずさ)という雅号を持つ歌人でもあった。家族は、両親と兄の源八、妹のひろ、弟の関弥(会津松平家家宰)。他に祖父の粂之進、祖母、曾祖母、叔父、下男下女が同居していたという。会津藩家老・西郷頼母の妻千重子は父の妹[1]。山川大蔵(浩)、山川健次郎、大山捨松、山川二葉らの山川兄弟姉妹は従兄弟(母同士が姉妹)。10歳で藩校日新館に入学。二経塾一番組に編入され、15歳で止善堂に入った。学業・武術ともに優秀で、白虎隊編成時はまだ15歳だったが、長身だったせいもあり、嘉永6年生まれの16歳と年齢を1歳偽って申請し入隊できた(従兄妹の山川健次郎は同年生まれであるが、幼年白虎隊だった)。白虎士中二番隊出陣の慶応4年8月22日、父の時衛は既に白河口に出陣、兄の源八(18歳)も越後口の戦線に出ていた為、母の文子から厳かな訓戒を受けた。「いよいよ御前は君公の御為に身命を捧げる時が来ました。日頃父上よりの御訓えもあり、今日この家の門を出たならば、オメオメと生きて再び帰るような卑怯な振る舞いをしてはなりません。就いては、武士の子として目出度い今日の門出なれば、西郷のお祖母さまにも御暇乞いをして来なさい」と、母より(母方の)祖母との面会を許された。旧暦8月22日、白虎士中二番隊は戸ノ口原に出撃。翌23日の早朝四時頃、副隊長格の教導、篠田儀三郎の指揮の下に、戦ったが敗走。飯盛山に至り、炎に包まれた城下を見て、敵に生け捕られることを避けるべく一同は自刃を決意した。貞吉も、皆に遅れじと咽喉に脇差を突き立てたが死にきれずにいた。彼を救出し、介抱したのは微禄の会津藩士・印出新蔵の妻ハツと言われている。ハツには貞吉と同じ年頃の息子がおり、その子が鉄砲を持って家を出たまま帰らないので、心配して飯盛山に捜しに来たところ、まだ息のある貞吉を見つけたという。その後、医者を求めて塩川に辿り着き、近江屋という醸造業を営む深田文内宅に匿われた。翌朝町医者の三本住庵(みつもとじゅあん)が手当てしたが、夕刻には長岡藩の軍医阿部宗達、吉見雲台(吉見乾海の父)が治療し一命をとり止めた。その後、貞吉は貞雄と改名し、明治3年(1870年)静岡の林三郎の塾(静岡学問所、静岡市)に入り、後の海軍大将・出羽重遠らと共に学ぶが、翌年藤沢(志摩守)次謙(奥医師桂川甫賢の3男)の書生となり、明治5年(1872年)に工部省技術教場(東京)に入所、電信技師となり、同年10月5日には赤間関(山口県下関市)に赴任。その後、国内各地での勤務を経て、1885年(明治18年)に工部省が逓信省に変わった時には新潟に勤務。1891年(明治24年)、広島電信建築区電信建築長に就任、2年後には東京郵便電信局勤務となり、翌1894年(明治27年)には日清戦争のため、大本営付となり陸軍歩兵大尉として出征。この間、1892年(明治25年)6月18日付で戸籍訂正し、生年を真実の嘉永7年に改正している。1905年(明治38年)、札幌郵便局工務課長となり、1910年(明治43年)に仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。正五位勲四等を受章。会津会の会員でもあった。退職後も仙台に住み続けた。晩年は、會津三園會のメンバーとなり、秋月満志子に和歌の指導を受けた。1931年(昭和6年)2月12日、仙台にて永眠。墓は同市内の輪王寺にある。

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」とは、『葉隠』の有名な一節ですが、白虎隊で自決に失敗した飯沼貞吉はそれを思わせる人でした。白虎隊は会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊したが、最終的に一命を取り留めた飯沼貞吉を除く19名が自決しました。飯沼は白虎隊のことを、一部の史家以外にはほとんど話さず、その重い口を開いたのも晩年のことで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わりました。彼は日清戦争に従軍中に、危険だからとピストルを持参するよう促した者に、「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」と言って笑ったそうです。飯沼の母は白虎隊での初陣の時に、彼に「梓弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ武士の道」(弓矢の先がいかに多くても武人の道を引き返すな)という歌を詠んだ短冊を渡したそうですが、彼がその通りに自決していたら良かったとは思えません。しかし、どうも彼には一人だけ生き残ってしまったことへの、非難と負い目があったようで、彼には故郷へと帰りたいという思いと帰れないという思いがあったようです。上記の遺言はそういった思いによるものでしょう。飯沼の墓が飯盛山の仲間たちの傍らに建てられたのは、貞吉が没してから実に26年も経ってからのことでした。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

皇國の御為めと思へはたちたたぬ 勲は問はん日本魂

天皇の国のためと思えば一面に立とう 叙勲など問わない大和魂

米川米吉の辞世の句。米川米吉(よねかわ-よねきち 1845-1865)幕末の武士。弘化2年生まれ。常陸水戸藩士。元治元年天狗党の乱鎮圧のため、水戸にむかった藩主名代の松平頼徳にしたがう。藩内の実権をにぎった諸生派や幕府軍と那珂湊でたたかい、のち天狗党とともに京都をめざすが、加賀金沢藩に降伏し、元治2年2月4日敦賀で処刑された。21歳。名は和常。変名は米橋誠之進。

米川米吉は天狗党に参加した人物です。宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ下向することとなると、執政・榊原新左衛門(鎮派)らとともに江戸を出発しましたた。これを大発勢というのですが、これに諸生党により失脚させられていた武田耕雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して1000人から3000人にも膨れ上がりました。米川米吉もその中の一人です。大発勢は水戸城下に至るが、その中に尊攘派が多数含まれているのを知られ、一行は入城を拒絶された。水戸郊外で対峙した両勢力は戦闘状態に陥り、水戸近郊の那珂湊に布陣しました。筑波勢もこれに接近し、大発勢に加勢する姿勢を示した。頼徳は水戸城下の神勢館に進んで再度入城の交渉を行うがまたも拒絶され、全面衝突となりました。大発勢は善戦するが、田沼率いる幕府追討軍主力が笠間に到着して諸生党方で参戦すると、再び那珂湊へ後退しました。筑波勢の加勢を受けた大発勢は、市川らの工作もあり筑波勢と同一視され、幕府による討伐の対象とされてしまいました。大発勢内では、暴徒とされていた筑波勢と行動を共にする事に当初抵抗もありましたが、結局共に諸生党と戦うことになり、この合流によって、挙兵には反対であった武田も筑波勢と行動を共にする事になります。幕府追討軍・諸生党は那珂湊を包囲し、洋上にも幕府海軍の黒龍丸が展開して艦砲射撃を行った。頼徳の依頼を受けて市川との仲介を試みていた山野辺義芸は幕府軍・諸生党と交戦状態に陥った末に降伏、居城の助川海防城も攻撃を受けて落城しました。その後、今度は筑波勢の田中隊が助川海防城を奪還して籠城しましたが、これも幕府軍の攻撃を受けて陥落しました。米川米吉はその後も戦い続けましたが、最後は天狗党員828名は加賀藩に投降して武装解除し、最期は352名が処刑されました。さて上記の辞世の歌に、「立ち立つ」というあまり一般的ではない表現がありますが、これは「あちこちで一面に立つ、次々に飛び立つ」という意味です。有名な万葉集の歌に「国原は煙立ち立つ海原はかまめたちたつ」があります。

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今日の辞世の句 

転びても 弓矢はすてぬ 案山子哉

昌木晴雄の辞世の句。昌木晴雄(まさき-はるお 1821-1864)幕末の医師、尊攘運動家。文政4年生まれ。下総結城(茨城県)の神職杉山友継の次男。鈴木千里の門でまなび、下野(栃木県)佐野で開業。元治元年天狗党の乱にくわわって捕らえられ、同年9月17日水戸で処刑された。44歳。号は宗仙。

昌木晴雄は杉山崇仙といい、杉山家は代々結城・須賀神社(現・健田須賀神社)の神官でした。彼は尊皇攘夷運動にのめり込むと、一族に累が及ぶことを避け、「杉」の国字「椙」を分解し、変名「昌木」と名乗りました。乱が始まると、彼は天狗党本隊を離れ、「横浜征伐」の途に上りましたが、最期は小川(小美玉市)で捕縛され、吉田村境橋刑場(旧水戸街道沿い)で磔刑に処されました。昭和六年(1931)に昌木晴雄の殉難碑が水戸市に建てられ、現在は神應寺にあるそうです。昌木晴雄は日本史上珍しい過激派の神官でした。明治以前の日本は神道と仏教の境界が曖昧でしたが、尊皇運動とその後の明治維新により、日本独自の宗教というものが意識され、その過程でこのような過激な人も見られるようになりました。尊皇思想の始まりは、史学においては水戸学であり、文学においては国学であって、これらは元々は過激な革命思想ではありませんでしたが、その後の諸外国との関係に伴う国難によって、尊皇思想は過激化していくこtになりました。

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今日の辞世の句 

義を論して未だ死と生とを論せず
磨き成す報國尽忠の誠
平生記し識す尊親の誡め
芳名を留取するは此行に在り

正義について論じてまだ生と死については論じない
国に報いて忠誠を尽くす誠実さを磨き成す
いつも書き記した両親を尊ぶ戒め
名誉を得る秘訣はここにある

藤田秀五郎の辞世の詩。藤田秀五郎 水戸藩家老 山野辺主水正の家士 藤田蔵之進自好の長男。田丸稲之衛門に随い天狗党として西上、慶応元年(1865年)2月15日、越前敦賀で斬首される。享年24。靖国神社合祀。

あまり知られていないし別に知る必要もないことですが、天狗党の乱に参加した人の中に、藤田という姓の人はたくさんいました。これは水戸藩に、水戸学中興の祖である藤田幽谷(一正)にはじまる藤田氏がおり、その子孫が尊皇攘夷派であったからです。中でも最も有名なのは、幽谷の子藤田東湖です。藤田秀五郎は歴史的には全く無名の人物なので、幽谷と血縁関係についてはよく分かりませんでした。何にせよ偉い人の家系に生まれると、辞世の詩に書かれているように、肩肘張らなくてはならず苦労するようです。

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