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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

死不畏死 死して死を畏(おそ)れず
生不偸生 生きて生を偸(ぬす)まず
男兒大節 男児の大節は
光與日爭 光(かがやき)日と爭(あらそ)う
道之苟直 道 之(これ)苟(いやし)くも直(なお)くんば
不憚鼎烹 鼎烹(ていほう)をも憚(はばか)らず
渺然一身 渺然(びょうぜん)たる一身なれど
萬里長城 万里の長城たらん

死んでも死を恐れず
生きても命を盗まず
男の子の節義は
太陽よりも輝かしい
いやしくも道が正しいならば
刑死することも避けたりしない
果てしなく広々としたような身ではあるが
万里の長城になろう

雲井龍雄の辞世の句。雲井 龍雄(くもい たつお、天保15年3月25日(1844年5月12日) - 明治3年12月28日(1871年2月17日)は、幕末・維新期の志士。元集議院議員。本名は小島守善(もりよし)、字は居貞、号は枕月または瑚海侠徒ともいった。壮志と悲調とロマンテイシズムに溢れた詩人とも評されている。雲井龍雄という名は明治元年(1868年)頃から用いたもので生まれが辰年辰月辰日から「龍雄」とし、「龍が天に昇る」との気概をもってつけたといわれる。父・中島惣右衛門と屋代家次女・八百の2男2女の次男として米沢袋町に生まれる。幼名は豹吉、猪吉、さらに権六、熊蔵などと名前を変えた。父は米沢藩平勘定(会計)、借物蔵役(倉庫当番)等6石3人扶持であった。8歳で近所の上泉清次郎の家塾に就学。清次郎は龍雄の優れた才能と胆力を認め「孟嘗君」と呼んだ。9歳にて師・清次郎の病没により山田蠖堂の私塾に移る。相変わらず負けず嫌いで腕白少年であった。12歳の頃、郷学の中心的存在であった曾根俊臣にも師事する。俊臣は戊辰戦争に志願して百統隊を率い越後大黒の夜戦で斬込の先頭に立ち、敵弾に当たり55歳で戦死した。龍雄は14歳から藩校「興譲館」に学び、館内の「友于堂」に入学。興譲館は官費で上層藩士の子弟を寄食させて教育する場でのち自費で寄宿する寄宿生が生まれ、通学生の学舎を「友于堂」と称した。ここで龍雄は“優秀”に選抜され藩主から褒章を受け、父母に孝養の賞賜も受けている。好学の龍雄は興譲館の一部として建てられた図書館の約3000冊もの蔵書の殆どを読破、当時の学風朱子学を盲信する非を悟り陽明学に到達する。陽明学に傾倒した人傑には日本における始祖中江藤樹をはじめ熊沢蕃山、林子平、吉田松陰、橋本左内、高杉晋作、横井小楠、河井継之助、西郷隆盛などが挙げられ彼らの多くに共通するものは単なる口舌の徒ではなく自己の所信に向かい断固として進退を賭け、堅忍不抜の精神の持ち主であったことである(安藤英男『雲井龍雄研究』)。18歳のとき、約により叔父小島才助の養子となるも20歳のとき、才助他界のため小島家を継ぎ19にして丸山庄左衛門の次女・ヨシを娶る。21歳で高畠の警衛の任に就いた。慶応元年(1865年)、22歳で米沢藩の江戸藩邸に出仕、上役の許可を得て安井息軒の三計塾に入門。息軒は単なる経学者でなく昌平黌の教壇に上っていても敢て朱子学に節を曲げず、門生には自由に諸学を学ばせた。こうした学風を受け龍雄は経国済民の実学を修める。執事長(塾頭)にも選ばれ、「谷干城以来の名執事長」と息軒をして言わしめたという(若山甲蔵『安井息軒先生』)。同塾門下生には桂小五郎、広沢真臣、品川弥二郎、人見勝太郎、重野安繹ら多士済々の顔ぶれが見られる。また龍雄と息軒の次男謙助は同年であり、生涯を通じて同志的関係を結んだ出会いがここにあった。翌慶応2年(1866年)、龍雄は藩命で帰国。藩はこの時世子・上杉茂憲が兵800を率いて京都の治安に当っていた。龍雄は寧ろ京都駐兵を解き、代わって具眼の人物を上洛させ天下の形勢を探報させることが上策であるとの献言をするも保守的藩風には受け入れられなかった。しかし形勢は急テンポで動き幕府の長州再征は頓挫、将軍・徳川家茂は大阪で客死、慶喜が将軍職に就いたものの幕府実力の失墜は明白であった。ようやく上杉藩は幕府追随の不得策を知り茂憲召還に決しその帰藩と同時に国老・千坂太郎左衛門(高雅)を京都に派遣、龍雄はその先駆に指名された。千坂ら一行は清水の成就院を本陣としたが龍雄は別行動をとり一木緑、遠山翠等の変名を用いて探索活動に当ることになる。しかし同3年(1867年)10月、慶喜が大政奉還。12月、王政復古の大号令が発せられ龍雄は貢士に挙げられた。徴士と並んで全国各藩から推挙された議政官のことで龍雄の貢士就任は門閥の士を差し置いての抜擢であり、その才幹が藩内外を問わず広く知られていたことを示している。この年実父・惣右衛門病没。明けて慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに続き新政府軍の東征が東北に及ぶや龍雄は京都を発し途中薩摩藩の罪科を訴えた「討薩檄」を起草、奥羽越列藩同盟の奮起を促すも敗れ去り米沢にて禁固の身となる。改元され明治2年(1869年)、謹慎を解かれた龍雄は興譲館助教となるが2ヶ月で辞任して上京、新政府は龍雄を集議員議員に任じた。しかし新政府の内実は王朝時代の大宝令そのままに神祇官を官制の最高位と定め、官員に系図を提出させた。伊藤俊介が越智宿禰博文、山県狂介が藤原朝臣有朋、大隈八太郎が菅原朝臣重信となったのはこの時である。議員の多くも政府要人と繋がっており、龍雄は一たび議論に及べば徹底的に議論を闘わせたので周囲の忌避に遭い、ひと月足らずで追われる身になった。一方、戊辰戦争で没落したり削封された主家から見離された敗残の人々が龍雄の許に集まるようになり、龍雄は明治3年(1870年)2月、東京・芝の上行、円真両寺門前に「帰順部曲点検所」なる看板を掲げ、特に脱藩者や旧幕臣に帰順の道を与えよと4回にわたり嘆願書を政府に提出した。これは参議・佐々木高行、広沢真臣らの許可を得たものであったが、実は新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が集まっていた。これが政府転覆の陰謀とみなされ翌年4月謹慎を命ぜられる。米沢藩に幽閉ののち東京に送られ、深く取り調べも行われず罪名の根拠は政府部内の準則にすぎない「仮刑律」が適用され、同年12月26日(1871年2月15日)判決が下りたが、内容は生存者28名、牢死者22名、合計50名にも上る大獄であった。斬21名、遠流10年11名、徒3年24名など実際に暴発した萩、秋月、神風連の乱などに比べれば比較にならぬ苛酷さであった。龍雄は判決2日後、小伝馬町の獄で斬首されたのち小塚原に梟首され、その胴は大学東校に送られて解剖の授業に使用されたという。龍雄を葬った政府は威信を保つためその真蹟をのち覆滅し、龍雄の郷里・米沢でもその名を口にすることは絶えて久しくタブーとされていたという。墓は山形県米沢市城南5丁目1-23、常安寺にある。戒名:義雄院傑心常英居士。「雲井会」により命日に合わせ墓前で雲井祭が催され、その遺徳が偲ばれている。

雲井龍雄は大変優秀な人物でしたが、残念ながら最後は歴史から消されてしまった人物です。彼の伝説的な向学心には、いくつものエピソードがありますが、例えば三計塾にいる頃、龍雄は息軒の命を受けて毛布を購入するため横浜の商館に赴いたがその資金で「万国公法」を買ってしまい、しかも却って息軒からその正しさを激賞されたというのはその一つです。また、友于堂に入学した龍雄はある日、学友の佐藤志郎の訪問を受けたのですが、佐藤が勉強部屋に入ると、一尺程の棒がありました。不思議に思って尋ねると龍雄は「これは勉強棒というものだ」と答えました。さらにその訳を佐藤が尋ねると「僕の頭の瘤を見たまえ。夜勉強していて眠くなると、これで頭を殴るのだ。始めは水で顔を洗ったが駄目なので、薄荷を目蓋に付けてみた。すると目がヒリヒリして仕方がない。唐椒を舐めてみたら辛くて本を読むどころではなかった。この棒で殴るのが一番よい。この間春秋左氏伝を読んだときもこれで殴りながら読んだのだよ」と言ったそうです。雲井龍雄は優秀すぎる上に妥協することをしなかったため、議員としての身分を追われ、最期は政府転覆の陰謀の嫌疑をかけられ、処刑されてしまいました。雲井龍雄の漢詩は、明治初期には広く読まれ、特に自由民権運動の志士たちに好まれていました。若き日の西田幾多郎も雲井龍雄の墓を訪れ、「去る二十日、雲井龍雄に天王寺(谷中の墓地)に謁し、その天地を動かす独立の精神を見て、感慕の情に堪えず、(中略)予、龍雄の苦学を見て慚愧に堪えず。然れども遅牛、尚千里の遠きに達す。学、之を一時に求むべからず。要は、進んで止まざるあるのみ。」と記しています(明治二十四年、山本良吉宛書簡)。さて、上記の辞世の詩についてですが、「鼎烹をも憚らず」とは、『史記』主父偃伝の「五鼎に食わずんば死して五鼎に烹られん」(立身出世ができないのなら、いっそ思いのままに生き、大罪を犯して刑死しよう。)から来ており、「鼎烹」とは要するに石川五右衛門のように釜茹にされるということです。残念ながら、漢詩が徐々に一般的に読まれなくなった頃から、雲井の記憶は一般的には薄れていったようです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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