FC2ブログ
09 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

今はただ何か思はむ敵あまた 討ちて死にきと人の語らば

今はただ何を思おう敵を数多く 討ち取って死んだと人が語るならば

宍戸弥四郎の辞世の句。宍戸弥四郎(ししど やしろう、天保4年1月14日(1833年3月5日) - 文久3年9月24日(1863年11月5日))は幕末の志士。諱は昌明、号は道一軒。天保4年(1833年)、刈谷藩士宍戸弥助の六男として刈谷に生まれる。天誅組三総裁の一人松本奎堂とは竹馬の友である。この二人は譜代藩出身の勤皇志士という点で異色の経歴である。江戸在番のおり山鹿流兵法を学ぶ。生来豪放磊落で、顔は疱瘡の跡が残るあばた面であったが笑うと愛嬌があり、皆から好かれる性格であった。また小柄であったが、極めて頑強な身体と脚力を持っていた。文久3年(1863年)、天誅組終焉に際して、主将中山忠光らの本隊を逃すためにおとりの決死隊の一員となり、那須信吾らとともに東吉野村鷲家口で彦根藩の軍勢の中に斬り込んだ。非常な奮戦をみせ、中山忠光の脱出を成功させたが、戦闘中に鷲家川の急流に転落。再び岩壁をよじ登りはじめたところを彦根藩銃撃隊の一斉射撃を浴び戦死した。年31。胴衣の中には埋葬代としたためて、肌付き金小判十両が縫い付けてあった。幕末の志士の中でも出色の武士道を体現した最期であった。

宍戸弥四郎は刈谷藩という、譜代の小藩出身の勤皇志士です。宍戸が学んだ山鹿流は、山鹿素行によって著された兵学の流派です。山鹿素行は朱子学を批判したで、播磨国赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行いました。赤穂藩国家老の大石良雄も門弟の一人であり、良雄が活躍した元禄赤穂事件以後、山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立ち、山鹿素行は許されて江戸へ戻ると、その後の10年間軍学を教えました。宍戸の最期は、胴衣の中に埋葬代を縫い付けておいての討ち死にという、非常に用意の良いものであり、これには敵である彦根勢もいたく感動したそうです。
スポンサーサイト



Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0