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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

四方八方に薫りや充たん下野の 太平山の山櫻かな

四方八方に香りが満るだろう下野の国の 大平山の山桜だな

朝倉三四郎の辞世の句。朝倉三四郎(1847-1865)幕末の武士。弘化4年生まれ。常陸水戸藩士朝倉源太郎の弟。元治元年の天狗党の乱では、松平頼徳にしたがって那珂湊で諸生党の軍とたたかう。兄とともに武田耕雲斎の隊と合流して京都にむかう途中、越前で加賀金沢藩に降伏、元治2年2月23日敦賀で処刑された。19歳。名は景敏。

朝倉三四郎は朝倉源太郎の弟であり、兄と共に天狗党の乱に参加した人です。天狗党の乱は鎮圧された後、天狗党員828名のうち352名が処刑されるという凄惨な処罰がなされ、朝倉三四郎も19歳の若さで処刑されてしまいました。天狗党の処刑の際には、彦根藩士が志願して首斬り役を務め、桜田門外の変で殺された主君の無念を晴らしたそうです。しかし、後に戊辰戦争が勃発すると、天狗党の残党は朝廷から諸生党追討を命じる勅諚を取り付け、水戸藩庁を掌握して報復を開始し、今度は諸生党の家族らがことごとく処刑されるという、悲劇の連鎖を行いました。このように、この時代の血生臭い事件は連鎖的になされたもので、尊皇と佐幕とどちらが正義であるということを判じることは難しいです。さて、辞世の歌についてですが、太平山は栃木市にある小さいながらも歴史のある山です。太平山で最も有名なのは謙信平という、上杉謙信が騎馬隊をここで練習させたことにちなむ史跡でしょう。天狗党は当初下野国日光(栃木県日光市)の徳川家康を祀った聖地である日光東照宮を占拠して、攘夷の軍事行動に踏みきる予定でしたが、隣各藩の兵が出動したため、日光から大平山へと移動し、しばらくそこに滞在していました。朝倉三四郎はその時のことを想って、上記の辞世の歌を詠んだようです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

赤き我が心はたれも白露の 消にし後ぞ人や知るらん

私の忠誠心は誰も白露の 消えた後には人の知るところとなるだろう

朝倉源太郎の辞世の句。朝倉源太郎(あさくらげんたろう、天保7年(1836年) - 慶應元年2月4日(1865年3月1日))は幕末の志士。本姓は日下部氏。家系は戦国大名・朝倉氏の末裔を称し代々、水戸藩士。諱は景行。仮名は源太郎、後に源太衛門と名乗るが初名に復す。父は朝倉源七郎広政、母は山田吉忠の姉。尊皇志士として国事に奔走するが、水戸天狗党の乱で幕府軍に捕縛され、刑死した。墓所は福井県敦賀市松原。位階は贈正五位。安政4年(1857年)、床机廻に抜擢され、文久3年(1863年)2月に藩主・徳川慶篤が上洛すると、これに扈従し、孝明天皇の賀茂神社行幸、石清水八幡宮行幸に随行。同年4月に江戸に帰府した。元治元年(1864年)1月、歩行目付に任ぜられる。同年6月、源太郎は水戸藩内の親幕府勢力である諸生党を排除せんとして、有志とともに大挙して江戸にのぼり、小金に同志とともに集結する。同年8月、水戸藩主名代として支藩の宍戸藩主・松平頼徳が水戸藩内の騒乱沈静化のために下向すると、これに随って頼徳の命を受けられない諸生党と戦った。しかし、幕府は親幕府勢力である諸生党に味方し、藩主名代である頼徳はおろか尊皇攘夷派を賊軍とみなし、討伐の対象とされる。10月23日、天狗党主力部隊の大将である榊原新左衛門が幕府に降伏する中、源太郎は潮来勢を率いて、なおも戦い続ける武田耕雲斎、田丸稲之衛門、藤田小四郎らと合流し、天狗党として志士たちと運命をともにした。しかし、天狗党は越前国敦賀において加賀藩に降伏する。慶應元年2月、朝倉源三郎は志士300余名とともに処刑された。敦賀で処刑された志士たちは多くは故郷・水戸に墓が建立されたが、朝倉源太郎は祖先とされた朝倉氏所縁の越前国敦賀の地に墓所がある。

徳川御三家でありながら、尊王攘夷思想発祥の地でもあった水戸藩は、幕末に微妙な位置に立たされました。そのような中、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した、水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱が、天狗党の乱です。元々この反乱は藤田小四郎(藤田東湖の四男)が、幕府に横浜港の即時鎖港を要求するためにおこしたもので、倒幕運動ではありませんでした。京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けましたが、天狗党が頼みの綱とした水戸藩出身の一橋慶喜が、自ら朝廷に願い出て加賀藩・会津藩などの兵を従えて天狗党の討伐に向うこととなりました。また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下で、これ以上の進軍は無理と判断し降伏し一連の争乱は鎮圧されました。この時捕らえれた天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首されました。天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑するという陰惨な結末を迎えました。朝倉源太郎は水戸藩主名代であった支藩の宍戸藩主・松平頼徳の命を受けて戦ったというのに、処刑されてしまうという悲惨な最期でした。松平頼徳も天狗党の乱の鎮圧に失敗すると、天狗党に同情的な部分があったため、幕府より責任を追及され、「賊魁」という汚名を着せられた上に、最期は切腹させられました。この反乱はいまではほとんど忘れられてしまった、幕末の悲劇の一つです。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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