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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

原と萬死を期す 
復た何ぞ悲しまん
只だ恨む神兵未だ夷を掃はず
魂魄帰らず天と地とに
七たび此世に生れて 
皇基を護らん

元より万回の死を期待する
また何を悲しむだろうか
ただ天皇の兵士が野蛮人を掃討しないことを恨む
魂は天と地に帰らない
七回生まれ変わって
天皇の基を守ろう

國分新太郎の辞世の詩。國分新太郎(こくぶ しんたろう 1845-1865)幕末の武士。弘化2年生まれ。常陸水戸藩士。文久3年(1863)新徴組にはいり、江戸の警備にあたる。元治元年常陸穴戸藩主松平頼徳にしたがって水戸におもむく途中、天狗党の挙兵にくわわる。武田耕雲斎らと合流し京都へむかうが、加賀金沢藩に降伏し、元治2年2月4日敦賀で処刑された。21歳。名は信義。

國分新太郎は新徴組隊員にして、天狗党の乱に参加した人物です。新選組は知っていても、新徴組は知らない人の方が多いでしょう。新徴組は江戸時代後期の文久2年(1862年)に結成された、江戸幕府による警備組織です。江戸で浪士組結成募集が行われ、京都へ上洛した後に清河八郎に率いられて江戸に戻りましたが、4月に清河が暗殺されると幕府により新徴組として再組織され、主に江戸市中の警戒、海防警備に従事しました。屯所は江戸の本所(東京都墨田区)に設置され、取締責任者は高橋泥舟と山岡鉄太郎でした。この二人は幕臣でしたが、清河のシンパでもあったので、尊王・佐幕のどっちつかずになりました。その後佐幕派になり、薩摩藩との抗争をへて戊辰戦争では、政府軍相手に奮戦することとなりました。國分新太郎は文久3年(1863年)に、新徴組が幕臣から庄内藩預かりとなった時に、隊を見限って天狗党の乱に参加しました。元々明治維新の火付け役である清河八郎が組織した、新徴組が江戸の治安を担い佐幕派となり、さらにそこから尊王攘夷派の反乱である天狗党の乱に参加した國分新太郎のような人物がいたことは、この時代の尊皇派と佐幕派が案外近いところにいたということを表しています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

みちのくの木の間がくれの山櫻 ちりてぞ人や夫と知るらん

東北の木の間に隠れた山桜は 散ってこそ人は夫と知るだろう

川俣茂七郎(かわまた-もしちろう 1839-1864))幕末の武士。天保10年2月生まれ。出羽松山藩(山形県)藩士。桃井儀八の門にはいり、尊攘思想をいだく。文久3年(1863)脱藩し、筑波山挙兵にくわわる。のち水戸藩尊攘派とわかれ,幕府方の追撃をうけて元治元年9月8日自刃した。26歳。名は渉(わたる)。

川俣茂七郎は天狗党の乱において、特に重要な人物ではありません。ところが川俣の最期について、阿部正己という歴史家が1925年に出版した『川俣茂七郎』という本に、現地での調査を記したため、今日知られるところとなっています。以下にその刑場後について書かれた部分を引用します。
先生(川俣茂七郎)の首は当年(元治甲子)九月九日羽衣村民によって水戸に送られ、水戸佐幕党にてその首を此の地に梟すこと3日にして焼捨したり。此の地に焼捨てされたる勤王志士はすこぶる多数にしてしたがって、この草原中に埋没せる遺骨の多量なること推知するに餘りあり。余は此の畑中の白骨に対して感慨無量、あだかも生ける先生に面接するの思ひあり、依て車夫と共に骨片を拾い集めたるに一厘銭二・三個を得たり。 里人に聞くに「磔または梟首中此の前を通過する旅人は磔には八文、梟首には七文を喜捨するのに慣例して、この銭は皆中夜番人を勤める番太の収入に帰するものなり云々」
天狗党の乱は天狗党員828名のうち、352名が処刑されるという凄惨なものであり、その刑場の悲惨さが伝わってくるかと思います。これは教科書を読んだのでは決して伝わることのない、幕末の動乱の真の姿であると言えるでしょう。

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