FC2ブログ
09 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

皇國の御為めと思へはたちたたぬ 勲は問はん日本魂

天皇の国のためと思えば一面に立とう 叙勲など問わない大和魂

米川米吉の辞世の句。米川米吉(よねかわ-よねきち 1845-1865)幕末の武士。弘化2年生まれ。常陸水戸藩士。元治元年天狗党の乱鎮圧のため、水戸にむかった藩主名代の松平頼徳にしたがう。藩内の実権をにぎった諸生派や幕府軍と那珂湊でたたかい、のち天狗党とともに京都をめざすが、加賀金沢藩に降伏し、元治2年2月4日敦賀で処刑された。21歳。名は和常。変名は米橋誠之進。

米川米吉は天狗党に参加した人物です。宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ下向することとなると、執政・榊原新左衛門(鎮派)らとともに江戸を出発しましたた。これを大発勢というのですが、これに諸生党により失脚させられていた武田耕雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して1000人から3000人にも膨れ上がりました。米川米吉もその中の一人です。大発勢は水戸城下に至るが、その中に尊攘派が多数含まれているのを知られ、一行は入城を拒絶された。水戸郊外で対峙した両勢力は戦闘状態に陥り、水戸近郊の那珂湊に布陣しました。筑波勢もこれに接近し、大発勢に加勢する姿勢を示した。頼徳は水戸城下の神勢館に進んで再度入城の交渉を行うがまたも拒絶され、全面衝突となりました。大発勢は善戦するが、田沼率いる幕府追討軍主力が笠間に到着して諸生党方で参戦すると、再び那珂湊へ後退しました。筑波勢の加勢を受けた大発勢は、市川らの工作もあり筑波勢と同一視され、幕府による討伐の対象とされてしまいました。大発勢内では、暴徒とされていた筑波勢と行動を共にする事に当初抵抗もありましたが、結局共に諸生党と戦うことになり、この合流によって、挙兵には反対であった武田も筑波勢と行動を共にする事になります。幕府追討軍・諸生党は那珂湊を包囲し、洋上にも幕府海軍の黒龍丸が展開して艦砲射撃を行った。頼徳の依頼を受けて市川との仲介を試みていた山野辺義芸は幕府軍・諸生党と交戦状態に陥った末に降伏、居城の助川海防城も攻撃を受けて落城しました。その後、今度は筑波勢の田中隊が助川海防城を奪還して籠城しましたが、これも幕府軍の攻撃を受けて陥落しました。米川米吉はその後も戦い続けましたが、最後は天狗党員828名は加賀藩に投降して武装解除し、最期は352名が処刑されました。さて上記の辞世の歌に、「立ち立つ」というあまり一般的ではない表現がありますが、これは「あちこちで一面に立つ、次々に飛び立つ」という意味です。有名な万葉集の歌に「国原は煙立ち立つ海原はかまめたちたつ」があります。
スポンサーサイト



Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0