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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Nada pode me separar do amor de Deus

Nothing can separate me from the love of God

神の愛は永久に我が身に降り注ぐ

アイルトン・セナの墓碑銘。アイルトン・セナ・ダ・シルバ(1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、ブラジル人のレーシング・ドライバー。F1世界選手権において、1988年・1990年・1991年と、計3度ワールドチャンピオンを獲得した。時代を代表するドライバーの1人とされ、特に計65度のPP獲得数は、2006年にミハエル・シューマッハに更新されるまで歴代1位だった。アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルとは、1980年代から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「四強」「ビッグ4」「F1四天王」等と纏めて呼ばれることもある。特にプロストとのライバル関係が知られ、日本では2人の争いが「セナ・プロ決戦」「セナ・プロ対決」等と呼ばれた。異名には「Genius(天才)」「マジック・セナ」などがあり、若手時代には「ハリー」の愛称でも呼ばれた。日本では、古舘伊知郎が実況中継で使用した「音速の貴公子」がよく知られている。母国ブラジルにおいては、サッカー選手のペレ、ジーコと並んで、特に偉大なスポーツ選手の1人とされている。イギリス「F1 Racing」誌においては、「史上最速のF1ドライバー」「史上最高のF1ドライバー」に共に1位で選出されたブラジル最大の都市であるサンパウロ市の地主で、農場や牧場、小規模商店、自動車修理工場などブラジル国内でも有数の多角経営者であるミルトン・ダ・シルバの長男として誕生。4歳の誕生日の際、父からレーシングカートを与えられると、たちまちそれに夢中となり、ドライビングに熱中。その才能を磨き、父の豊富な資金と環境がドライビング技術の向上を支えた。また、8歳のころに工場のスクラップ寸前のジープをクラッチを使わずに走ったという珍話もある。1983年にはイギリスF3に参戦し、開幕戦から9連勝を記録。後半戦以降マーティン・ブランドルの巻き返しを受け、一時は逆転を許すが、最終戦で再びひっくり返しチャンピオンを獲得した。最終成績は、20戦中12勝という当時の最多勝記録だった。トールマンからF1デビュー。トラブルや若手故の粗さから安定した結果は残せなかったが、第8戦デトロイトGPでの予選7位、第9戦ダラスGPでの予選6位から一時4位走行等、ドイツGPでの一時5位走行など、市街地コースを中心に速さを垣間見せることとなった。当時名門に数えられていたロータスに移籍し、通算16戦目となる第2戦ポルトガルGPで自身初のPPを獲得した。1988年、マクラーレンに移籍し、当時すでに2度のタイトルを獲得していたアラン・プロストとコンビを組むこととなる。1990年、開幕戦アメリカGPでは、予選での電気系トラブルにより5番グリッドとなるも、決勝では優勝。セナのF1キャリアにおいては、最も後方のグリッドからの優勝であり、前年にデビューしたティレルのジャン・アレジと繰り広げたバトルは、「歴史に残る名バトル」の1つとして後々まで語られることとなった。1994年、前年のチャンピオンチームであるウィリアムズ・ルノーへ、念願の移籍を果たす。しかし、前年までのウィリアムズの武器であったアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどのハイテク技術がこの年のルール変更により禁止され、新車FW16は開幕直前まで完成を待たなければならず、当時のデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの指揮の元、空力を重視したマシンは非常にナーバスなマシンに仕上がっていた。第3戦サンマリノGPはポールポジションから決勝をスタートし、1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)、直後にミハエル・シューマッハを従えて超高速・左コーナー「タンブレロ」において時速312kmで首位を走行中に、そのまま直進してコースアウトし、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km~220kmまで急減速していた)、セナが駆るマシン・FW16は大破した。車載映像には、セナがシフトダウンしステアリングを左に切るもののマシンが曲がらないままコンクリートウォールに向かう映像が残っている。また、カウンターを当てたのか一瞬マシンが右に向く場面もあって謎が謎を呼び、その後自殺説やチームオーナーのフランク・ウイリアムズが追及されたりと、さまざまな憶測も飛び交うこととなったが事故原因の確定的な結論には至らぬままだった。セナは意識不明のままヘリコプターでボローニャのマジョーレ病院に緊急搬送されたが、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分に、34歳で死亡した。

アイルトン・セナは世界一有名なF1ドライバーのひとりです。その人気たるや絶大で、祖国ブラジルではセナが事故死した1994年5月1日に、サンパウロにてサッカー・サンパウロFC対パルメイラスの試合が開催されていましたが、開催者はこの試合開始直後に試合を止め、セナの死去をアナウンスし、黙祷を行いました。当日のレースのテレビ中継を担当していたブラジルのテレビ局は事故後、一日以上セナ関連の番組を放送し続け、事故を掲載した新聞、雑誌は即日完売、葬儀を放送したテレビ番組の視聴率は60%を超えたそうです。またブラジルにとっては英雄の死であったため、ブラジルは「国家をあげての葬儀」である国葬を行いました。他のブラジル国内の偉人に並んで、セナの名を冠した道路やサーキットなどが各地で生まれ偲ばれています。イギリスのF1 Racing誌(2007年2月号)は、史上最速のF1ドライバーとしてアイルトン・セナを選出するなど、現在でもその伝説的な走りの評価は下がっていません。ドライバーズタイトル3回 1988、1990、1991年と全てマクラーレン・ホンダ時代に獲得などホンダとは深い関係があり、本田宗一郎と会った際に「お前のために最高のエンジンを作ってやるよ」と言われ、「本田さんは日本での父」と感涙したというエピソードもあります。上記の墓碑銘は聖書の一節です。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Let 'er rip

ぶっぱなせ

レスリー・ニールセンの墓碑銘。レスリー・ニールセン(1926年2月11日 - 2010年11月28日)は、カナダ出身の俳優。『裸の銃を持つ男』シリーズなど、コメディ映画で知られる。カナダ勲章受章者。カナダのサスカチュワン州レジャイナ生まれ。第二次世界大戦中にカナダ空軍で銃手として訓練を受け、退役後はトロントの演劇学校で学ぶ。ラジオのDJを経てアメリカに渡り、当初はアクション映画を中心に出演する一方、シリアスな作品においても活躍していた。このころの出演作に『禁断の惑星』、『ポセイドン・アドベンチャー』などがある。1960年代以降はテレビ映画でも活躍。コメディ作品の初出演は、1980年公開の映画『Airplane!』(邦題:フライングハイ)である。これによって、ニールセンに新たな魅力が加わった。1988年に『裸の銃を持つ男』が大ヒットしてからは、もっぱらコメディ作品に出演している。『フライングハイ』では、飛行機の搭乗客の1人である『ルーマック医師』役として、ストーリー半ばから出演。冷静な表情でナンセンスなジョークを言ったり、とんちんかんな勘違いをして顔色を変える等といったコメディシーンを、見事演じきっている。『フライングハイ』制作スタッフによると、この映画への出演をニールセンに打診した際、彼は思う所があったらしく、OKともNOとも言わず、発言を保留した。そこでスタッフは、1950年代に制作・公開された『Zero Hour!』(邦題ゼロ・アワー)のビデオをニールセンに渡した。ニールセンは『ゼロ・アワー』を観終えて、自分の役回りや台本のあちらこちらに散りばめられた台詞の意味を理解し、この作品において彼ならではとも言える演技を見事に披露。これ以降、コメディ作品でのニールセンの存在が確立されたという(2003年発売の同映画DVD特典において、当時の制作スタッフが同趣旨のコメントをしている)。コメディ作品での彼は、一見銀髪の渋い紳士だが、やることなすことヘマばかりという役どころが定番。ドジを踏むときの表情がなんとも言えずおかしい。かと思えば、ニールセンの周りで大騒動が起きているのに、彼1人だけくつろいだ面持ちで飲食していたりといったシーンも見られる。日本では『裸の銃を持つ男』のイメージがあまりに強烈だったため、以降に日本で公開されたニールセン出演作品の多くに「裸の……」「……を持つ男」という邦題がつけられるようになった。日本の人気番組『加トちゃんケンちゃんごきげんTV』や『志村けんのだいじょうぶだぁ』にも登場し、加藤茶や志村けんらと競演したこともある。ゴルフ好きで、ゴルフものの作品への出演(作品名・邦題:『裸のクラブを持つ男』)や著作もあるが、内容はもちろんおふざけである。2010年11月28日、フロリダ州のフォートローダーデールの病院にて、肺炎とそれに伴う合併症の為に死去。84歳没。

レスリー・ニールセンと言えば、『裸の銃を持つ男』の主人公フランク・ドレビンのイメージが強烈でしょう。『裸の銃を持つ男』は1988年、1991年及び1994年にアメリカ合衆国で制作された次の3つのコメディ映画です。上記の通り、レスリー・ニールセンが出演した多くの作品は「裸の…」「…を持つ男」などという日本語タイトルがつけられていますが、ほとんどはこのシリーズと無関係であり、あくまでこのシリーズのヒットを受けて日本の映画会社が命名したものです。とはいえ、「単なる二番煎じ」などではなくコメディとして高く評価されているものが多いです。さて、上記の墓碑銘ですが、訳すのが難しいです。"Let 'er rip"は"let her rip"の短縮形なのですが、これは車などを全速力で走らせるといった意味です。訳は『裸の銃を持つ男』のイメージに合わせて上記のものとしました。また"rip"は欧米の墓によく刻まれる"Rest in Peace"が"R.I.P."と省略されるので、それとかけているのかもしれません。

レスリー・ニールセンの墓
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Leslie_Nielsen_Headstone.jpg

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There is but no life without Death

死なない生はない

フランク・ニッティの墓碑銘。フランク・ニッティ(1888年1月27日 - 1943年3月19日)はシチリア生まれでアメリカ・シカゴのギャングスター。アル・カポネの組織シカゴ・アウトフィットの幹部でカポネの後継者。執行人(エンフォーサー、" The Enforcer")の異名を持つ。2歳半の時にアメリカに渡る。帰化の手続きをするのは20年後の1921年3月9日。第1次世界大戦後、ニューヨークに移住。その後シカゴに移住し、理髪師となる。その後、盗品の宝石を転売するコネクションを作り、ジョニー・トーリオと知り合う。その後、シカゴ・アウトフィットに入り、アル・カポネの逮捕・収監に伴い跡を継ぐことになる。ニティをカポネ組の頭脳だと見ていた者もいたが、これは過大評価だという。しかしニティはカポネ組では重要な役割を果たしていたことに違いない。あるときレキシントン・ホテルのエレベーターで、なにかの問題でニティがカポネに「それは私がやるから、あんたは口を出さないこと」と言い切ったことがあったという。周りにいたものは少し驚いたという。彼はカポネ組のギャンブル事業の監督的立場でもあった。1930年3月23日に脱税で起訴される。姿をくらませていたが、10月にFBI捜査官によって逮捕される。そのときインディアナ州ミシガンシティ郊外でベルモントという偽名を使ってアパートで妻とひっそりと暮らしていた。1931年1月にレブンワース連邦刑務所に服役した。数ヵ月後に妻が早期釈放を求める嘆願書を仮保釈審議会に提出するが早期釈放には至らず、ニッティは服役態度良好によって軽減された刑期を務め、1年少々でシカゴへ戻る。アル・カポネが刑務所に服役していたときカポネ一味を指揮していた。この頃、2人の警察官と口論して撃たれるという事件があった。瀕死の重傷を負ったが命に別状は無かった。2人の警官はギャングたちに睨まれ、警官の職を退く羽目となった。ウィリー・バイオフ(William Morris Bioff)とジョージ・ブラウン(George Brown)の豪遊ぶりに目をつけて彼らと会合し、ハリウッドに進出しようと考える。その後、バイオフが脱税で捕まり組織のことを話したため、ニッティは逮捕されそうになった。しかし、彼は刑務所へ行くことより、死ぬ方を選んだ。ニッティは、1943年3月19日にシカゴの自宅付近で、拳銃で自分の頭を撃ちぬき自殺した。その後、バイオフは1955年11月4日、マフィアによって暗殺された。ニッティは、欧米では『アンタッチャブル』、『ロード・トゥ・パーディション』などの映画、音楽などで取り上げられている。

一般的にフランク・ニッティという、アメリカのギャングを知っている人は少ないと思われますが、映画『アンタッチャブル』でビリー・ドラゴがフランク・ニッティを演じているのを見た人はいるかもしれません。フランク・ニッティは映画中では死ぬことになっていますが、実際は逮捕・収監されたカポネの跡を継いでボスになり、1943年に逮捕される恐怖から自殺しています。彼が所属していたシカゴ・アウトフィットとは、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴに本拠を置くマフィア組織です。その歴史は古く、1920年代の禁酒法時代以前にまで遡り、シカゴ・アウトフィットはシカゴを単独で支配している唯一のマフィア・ファミリーです。ニッティはウィリー・バイオフが獄中で当局に寝返ったために、逮捕されそうになり自殺するのです、バイオフは出所した後、1955年11月4日の午後、車ごと爆殺されました。この事件はニッティの仲間の復讐と言われています。

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There goes the neighborhood.

近所付き合いもこれまでだね。

ロドニー・デンジャーフィールドの墓碑銘。ロドニー・デンジャーフィールド(1921年11月22日 - 2004年10月5日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州生まれのコメディアン・俳優・声優である。米国内でコメディアンの大物として知られるデンジャーフィールドは、1921年にニューヨーク州ロングアイランドのバビロンに生まれる。父親はヴォードヴィリアンだった。19歳のときに“ジャック・ロイ”という芸名でスタンダップ・コメディアンとしてキャリアをスタートさせるも、なかなか芽が開かずウェイターなども兼任。しかしあまりにうまくいかず、家族を養うためにアルミ板のセールスマンへ転身して芸能界を一時はあきらめている。しばらくはセールスマンとしての仕事を続けていたが、1960年代初頭にやはり夢を捨て切れなかった彼は、“ロドニー・デンジャーフィールド”という芸名で再び活動を再開。そんな時に出演した「エド・サリヴァン・ショー」で人気に火がつき、コメディアンとしての再挑戦は功を奏した。その後も独特なユーモアとハスキーで特徴的な声で数多くのテレビ番組などへ出演してさらに知名度と人気を上げていったデンジャーフィールドは、その後数多くのコメディアンたちに影響を与える大物にまで上り詰める。1969年にはマンハッタンにナイトクラブを買い上げて、そこに立ったコメディアンで有名になった者も少なくない。例としてジェリー・サインフェルド、ロザンヌ・バー、ジム・キャリー、ボブ・サゲットなどがいる。1981年に発売したコメディ・アルバム“No Respect”はグラミー賞においてベスト・コメディ・レコード賞を受賞した。テレビ番組のほかに、映画にも出演しており、代表作として『バック・トゥ・スクール』などがある。心臓弁手術のため入院していた病院で脳梗塞を起こし、2004年10月5日に死去。2006年にはケーブルチャンネルのコメディ・セントラルにおいて彼を追悼する「Legends: Rodney Dangerfield」というタイトルの特別番組が組まれ、アダム・サンドラー、クリス・ロック、ジェイ・レノをはじめとする大物コメディアンや司会者が彼を追悼した。これまで二度結婚をしており、最初の妻との結婚で息子と娘をそれぞれもうけた。しかしその結婚も離婚に終わり、1993年に再婚を果たした。

ロドニー・デンジャーフィールドはアメリカのコメディアンですが、日本では馴染みが薄いかもしれません。彼は40歳を過ぎてから人気が出始め、50歳で映画に初出演し60歳でグラミー賞を受賞した、遅咲きの苦労人です。映画にも出ていたのですが、代表作の『バック・トゥ・スクール』や『ボールズ・ボールズ』を知っている人は少ないかもしれません。また彼がブレイクするきっかけとなった、アメリカのバラエティ番組『エド・サリヴァン・ショー』を見たことがある人も少ないと思います。上記の墓碑銘は訳すのが難しいのですが、「あそこに隣人が行く」という意味なら普通は “There goes a neighbor.” とするので、とここでは「これで良い関係は終わり」というような意味だと思われます。

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When I am dead, I hope it may be said: His sins were scarlet, but his books were read.

私が死んだとき、こう言われるかもしれないと望む。彼の罪は深紅であったが、彼の本は読まれた。

ヒレア・ベロックの墓碑銘。ジョゼフ・ヒレア・ピエール・ルネ・ベロック(1870年7月27日 - 1953年7月16日)はフランス系イギリス人の作家、歴史家、社会評論家。父はフランス人の弁護士、母はイギリス人でジョゼフ・プリーストリーの孫。1902年にイギリスに帰化した。チェスタートン兄弟との協力関係が有名。パリ近郊のラ・セル=サン=クルーで生まれる。エッジバストン(Edgbaston)とバーミンガムで、ジョン・ヘンリー・ニューマンが主宰するオラトリオ会の学校で教育を受けた。1891年にフランス市民としてトゥールの砲兵大隊で兵役を務め、その後ベリオール・カレッジに入学し、歴史を専攻する。1895年にオックスフォード大学を最優秀の成績で卒業し、政界へ進む。1906年からサルフォード・サウス(Salford South)出身の自由党下院議員として活動するが、議会政治に幻滅して1910年からは著述に専念する。一時期『Eye-Witness』『Land and Water』などの雑誌を編集したこともある。オックスフォード運動を推進したJ・H・ニューマンは富の生産、利益の追求、享楽の手段の蓄積などに反対していたが、ベロックはそれらの主張を発展させ、個人主義と自由主義経済を断罪する。彼の攻撃は政治上の民主主義にもおよぶ。1910年代の初期にフランスではサンジカリズムが勢力を強め、議会制民主主義は腐敗堕落の温床であり、ドイツ人・ユダヤ人・プロテスタントは連合を組んでフランスを滅ぼそうとしている、と考えていた。ベロックはフランス文学への素養とともに、このサンジカリズムの思想を採用し、カトリックへの信仰とともにチェスタートン兄弟に伝えた。ベロックの政治経済論として最も知られているのは『奴隷の国家 The Servile State』である。その中で彼はヨーロッパやイギリスの現状を次のように概観した。
古代の奴隷制が中世のキリスト教が支配した時代に解消し、財産が広範囲に分配されている社会がつくられた。
封建社会が崩壊することにより資本主義が成立し、生産手段を所有する少数者と圧倒的多数の労働者に分裂する。
資本主義社会は本質的に不安定なので、法と社会慣習が人間性と一致し、経済的な充足と安全がかなうような解決策が求められるようになる。
ベロックが提示する解決策とは次の3つである。
生産手段を共同体の政治的役職者にゆだねる、「集産主義」
一般市民がそれぞれ財産や生産手段を所有していた「分配型体制」を再建すること
生産手段を持たない者が持つ者のために働くことを法的に強制され、それと引き替えに生計の安全を保障される「奴隷国家」
ベロックは、一番望ましいのは2つめの「分配社会」だが、実際には3つめの「奴隷国家」ができつつあり、社会主義者が提出する様々な解決策は、理想的な集産国家を造りあげることを目指しており、それはプロレタリアートにとって我慢できる程度の「奴隷国家」をつくることに他ならない、と説く。

ヒレア・ベロックは、資本主義・社会主義双方を排撃し、配分主義を提唱した人物です。彼が採用したサンディカリスムは資本家や国家主導の経済運営ではなく、集産主義的な労働組合の連合により経済を運営するという思想です。集産主義(コレクティビズム、英語: collectivism)とは、一般的に、社会における自由放任の状態に対して、公共の福祉のために中央集権的な統制の必要を強調する信念や方法などをさします。個人的な権利よりも集団の権利に優先順位を与えるため、集産主義は、ソ連型社会主義、ファシズム、ナチズムなどの全体主義政権下で採用されました。しかし、サンディカリスムは経済を運営している労働組合は政治を行う政府とは独立して存在しており、政府による計画経済などを必要とはしないという点で全体主義とは異なります。ベロックは自由主義の伝統に立った人物であり、理想としていたのは個人の経済的な自立でした。

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