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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

昔より冤死せしものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ

昔から無実の罪で死ぬものはたくさんいる 私もこれに加わるのみだ

洪思翊の辞世の句。洪思翊(こう しよく、ホン・サイク、1889年3月4日 - 1946年9月26日)は大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争(大東亜戦争)後、戦犯としてフィリピンで処刑された。日本統治下の朝鮮出身の日本陸軍軍人としては、王公族として皇族と同等の優遇を受けた李垠中将と並び、もっとも高い階級に昇った。1889年、李氏朝鮮京畿道安城の両班の家に生まれた。本貫は南陽洪氏である。1905年の日韓保護条約締結後、大韓帝国の陸軍武官学校に入学している。1909年に陸軍武官学校廃止にともない、日本の中央幼年学校に国費留学し、首席で卒業した後、間もなく陸軍士官学校に進学した。当時、陸軍士官学校には大韓帝国からの派遣留学生が何人も在籍しており、1910年の日韓併合に衝撃を受けて抗日独立運動に身を投じた者も多数いたが、洪は現在決起するのは朝鮮の独立を回復するのに繋がらず、しばらく研鑽を積み実力を養成した後戦うべきだとして級友達と路線を分かつ。1914年に陸軍士官学校を卒業し(26期。卒業時の成績は742人中31番)、陸軍歩兵少尉に任官、第1師団第1連隊に配属された。1923年には陸軍大学校(35期)も卒業している。日本統治時代に陸軍大学校に入学した朝鮮人は李垠、桃山虔一(李鍵)、李鍝と彼だけであり、洪以外の3人は、いずれも大日本帝国で皇族同様の優遇を受けた王公族であった。1925年には陸軍参謀本部に配属され戦史編纂にあたった。1929年には陸軍少佐となり、1931年8月に陸軍歩兵学校教官を経て、1933年4月関東軍司令部に配属され、満州国軍に顧問として派遣された。奉天軍官学校(陸軍士官学校に相当)の指導に当たったほか、軍官学校の募集対象に満州国在住の朝鮮人を含めることとし、それまで日本人・満州人・延安系朝鮮人に限られていた満州国軍将校への門戸を朝鮮人移民にも開放した。1934年に陸軍歩兵中佐となり、1936年まで関東軍司令部参謀部に勤務した。洪は、旧韓国軍・日本陸軍士官学校時代からの旧友である韓国光復軍司令官池青天から、大韓民国臨時政府に加わったらどうかと誘われたが、朝鮮の独立には未だ時機が至っておらず、今立ち上がることは良策ではないとして、旧友の招聘を断った。だがその一方で、池青天を含む旧韓国軍出身の抗日活動家と秘密裏に友情を保ち、その家族を自費を以て支援したり(これは一歩間違えば洪本人にも危険が及ぶ行為であった)、創氏改名が行われた時も、最後まで改名を行わず、姓の洪をそのまま氏とした。洪は日本統治下における朝鮮人の立場を「イギリスにおけるアイルランド人のようなもの」と息子に説明していた。また、高宗皇帝が下賜した大韓帝国の軍人勅諭を、生涯身に付けていたとも言われている。洪はその卓越した能力と研鑽で昇進を遂げた。1936年に陸軍歩兵学校の教官に転勤し、翌1937年の日中戦争勃発に伴い12月に中支派遣軍司令部に配属され中国戦線に派遣された。1938年2月には中支派遣軍特務部員として上海に派遣され、3月に陸軍歩兵大佐に昇進して興亜院調査官(もとは文官のポストであったが、当時の軍の権限拡大により軍人が配属されるようになっていた)となり上海の華中連絡部に配属され、情報収集や政治工作に従事した。1940年8月に留守第1師団司令部に配属され、1941年には陸軍少将に進級、華北の河北省に駐屯する歩兵第108旅団長となり、華北の八路軍を相手に戦った。八路軍傘下には朝鮮義勇隊の華北支隊がいたが、同年12月に胡家庄の戦いで日本軍に打撃を受け、主だった隊員が戦死したり捕虜となったりした。1942年4月から1944年3月までは陸軍公主嶺学校の幹事(副校長)となっていた。1944年3月に比島俘虜収容所長としてフィリピンに赴任、同年10月陸軍中将に進級、同年12月には在比第14方面軍兵站監となって終戦を迎えた。皮肉な事に、これが長年彼が心の中で望んでいた朝鮮解放の瞬間であった。終戦後は、故郷の朝鮮で教師になり静かに暮らしたいと望んだ彼だったが、結局解放された祖国を見ることは出来なかった。連合国軍から、捕虜収容所長時代に食糧不足から捕虜に十分給養できなかった責任を問われた洪は、軍人として弁解や証言することを潔しとせず、自らについては一切沈黙を守った。(但し自身の法廷では沈黙を続けたため一切の証言記録が残っていないが、他の戦犯被告人を弁護するための証言は積極的に行ったため、洪の置かれた状況や心情は他の裁判記録によって間接的に伺い知ることができる。)韓国国内では日本の陸士同期生などを中心にマスコミで救命運動が行われたが結局流れを変えることはできなかった。その結果マニラ軍事法廷で戦犯として1946年4月18日に死刑判決を受け、同年9月26日にマニラで処刑された。

洪思翊は朝鮮の歴史から消されてしまった人です。彼は非常に優秀な人物であり、王公族ではないのに日本陸軍の中将にまでなりましたが、独立後の韓国では親日派として糾弾の対象となりました。大韓民国の民間団体・親日人名辞典編纂委員会が「日本統治時代に親日活動を行なった人物」の名簿を編纂発表した「親日人名辞典」には、彼の名前が記載されています。しかし、彼が挑戦独立の志を持っていたことは明らかであり、運動家の支援も行っていました。洪思翊は戦時中に朝鮮出身脱走兵を隣家に匿っていたことがあり、「脱走兵を匿う朝鮮人の家」と考えて洪の自宅へ捜索に訪れた憲兵は、中から陸軍少将の軍服を着用した洪が出てきたことに仰天し、そのまま逃げ帰ったというエピソードもあります。彼の最期は捕虜の虐待により、戦犯として処刑されるという非常に不名誉なものでした。上記の歌には諦めの極地のような、達観さえ感じられます。彼はこの他にも、「くよくよと思ってみても愚痴となり 敗戦罪とあきらむがよし」という潔い歌も辞世として残しています。洪思翊について詳しく知りたい方は、山本七平著『洪思翊中将の処刑』をどうぞ。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

我ゆくもまたこの土地にかへり来ん國に酬ゆることの足らねば

私はまたこの地に帰り来よう 国に報いることがたりなかったならば

東條英機の辞世の句。東條英機は1884年(明治17年)7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。陸軍大臣、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第64代)、外務大臣(第66代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第25代)、軍需大臣(初代)などを歴任した。現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任(在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。階級位階勲等功級は陸軍大将・従二位・勲一等・功二級。永田鉄山の死後、統制派の第一人者として陸軍を主導する。日本の対米英開戦時の内閣総理大臣。また権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣と参謀総長を兼任した。敗戦後に連合国によって行われた東京裁判にてA級戦犯として起訴され、1948年(昭和23年)11月12日に絞首刑の判決が言い渡され、1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。享年65(満64歳)。

東條英機は戦後の日本で最も批判された人の一人でしょう。彼の経歴と行いの全てを書き尽くすことは到底不可能なので、首相就任以後を簡単に書きます。近衛の後任首相については、対米協調派であり皇族軍人である東久邇宮稔彦を推す声が強かったのですが、木戸幸一内大臣は、独断で東條を後継首班に推挙し、天皇の承認を取り付けてしました。この木戸の行為にはいろいろな解釈がありますが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であったので、昭和天皇の意を汲んで戦争回避にもっとも有効な首班だというふうに、木戸が逆転的発想をしたととらえられることが多いようです。東條は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示されています。天皇への絶対忠信の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ちにあらため、外相に対米協調派の東郷茂徳を据え、一旦、帝国国策遂行要領を白紙に戻しました。さらに対米交渉最大の難問であった中国からの徹兵要求について、すぐにということではなく、中国国内の治安確保とともに長期的・段階的に徹兵するという趣旨の二つの妥協案(甲案・乙案)を提示する方策を採り、さらには日独伊三国同盟の形骸化の可能性も匂わせており、日本側としてはかなりの譲歩でした。この東條の態度・行動は、陸相時の見解とは全く違ったものの表れであり、昭和天皇の意思を直接告げられた忠臣・東條が天皇の意思の実現に全力を尽くそうとしたことがよく伺えます。しかし、日本側の提案はアメリカ側の強硬な姿勢によって崩れ去ってしまいました。11月末、アメリカ側はハル・ノートを提示し、日本側の新規提案は甲案・乙案ともに問題外であり、日本軍の中国からの即時全面徹兵だけでなく、満州国の存在さえも認めないという最強硬な見解を通告してきた。ハル・ノートを目の前にしたとき、対米協調をあくまで主張してきた東郷外相でさえ「これは日本への自殺の要求にひとしい」「目がくらむばかりの衝撃にうたれた」といい、東條も「これは最後通牒である」と認めざるをえませんでした。これによって東條内閣は交渉継続を最終的に断念し、対米開戦を決意するに至りました。対米開戦決定を上奏した東條は、天皇の意思を実現できなかった申し訳なさから幾度も上奏中に涙声になったといわれ、また後述のように、開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びています。1945年(昭和20年)8月15日に終戦の詔勅、9月2日には戦艦ミズーリにおいて対連合国降伏文書への調印が行われ、日本は連合国軍の占領下となると、「戦争責任者としてなら自分は一心に引き受けて国家の為に最後のご奉公をしたい。…戦争責任者は『ルーズベルト』だ。戦争責任者と云うなら承知できない。尚、自分の一身の処置については敵の出様如何に応じて考慮する。」と複雑な心中を吐露しており、1945年(昭和20年)9月11日、自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗しました。東條の国家弁護は理路整然としており、アメリカ側の対日戦争準備を緻密な資料にもとづいて指摘し、こうしたアメリカの軍事力の増大に脅威を感じた日本側が自衛を決意したと巧みに主張するなどしてキーナンはじめ検事たちをしばしばやり込めるほどであった。また開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統帥部に説得されて嫌々ながら開戦に同意しただけであると明確に証言し、この証言が天皇の免訴を最終的に確定することになった。日暮吉延によれば、他の被告の多くが自己弁護と責任のなすり合いを繰り広げる中で、東條が一切の自己弁護を捨てて国家弁護と天皇擁護に徹する姿は際立ち、自殺未遂で地に落ちた東條への評価は裁判での証言を機に劇的に持ち直したとする。東条英機は上記の歌の他に、「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」という歌も残しています。東條英機に対しては毀誉褒貶が多いですが、戦争責任という意味では一番重い人でしょう。

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今日の辞世の句 

悔いもなく怨みもなくて行く黄泉

松岡洋右の辞世の句。松岡洋右は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜 の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで勉学の末、オレゴン大学法学部に入学、1900年(明治33年)に卒業する。オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、ポーカーの名手だったともいう。卒業後も滞米し様々の職種で働いていることから、アイヴィー・リーグ等の大学(あるいは大学院)に進学することを目指していたとも考えられるが、母親の健康状態悪化などを理由に1902年(明治35年)、9年振りに帰国する。松岡はアメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と呼んでいたが、これは終生変わらなかった。第17回衆議院議員総選挙に郷里山口2区から立候補(政友会所属)、当選する。議会内では対米英協調・対中内政不干渉方針とする幣原外交を厳しく批判し、国民から喝采を浴びる事となる。松岡は連盟総会に日本首席全権として派遣される。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。「日本の主張が認められないならば国際聯盟脱退はやむをえない」は松岡全権の単独行為ではなく、あくまでも日本外務省の最後の方針であり、脱退を既定路線としてジュネーブに赴いた訳ではなく、松岡はできうる限り脱退を避ける方針で連盟総会に臨んだ。連盟総会は日本に対して厳しい雰囲気の中、開催される。到着早々の松岡は12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの大演説を総会で行う。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果的だったともいわれる。もっとも、会議場での松岡の「十字架上の日本」と題せられる演説に関しては絶賛の拍手で渦巻いた。仏国代表ボンクール陸相が握手を求めたのを皮切りに、多数の代表・随員が握手を求め、英国代表サイモン外相、陸相ヘールサム卿が松岡に賛辞の言葉を述べた。これら各国代表の賛辞は、演説の内容もさることながら、松岡の英語能力に驚嘆し「日本にもこれほど外国語が堪能な人物がいたのか」と感心した面にもよるものだった。なお、聯盟総会において、最も対日批判の急先鋒であったのは中華民国、およびヨーロッパの中小国であったことに注意すべきである(スペイン、スイス、チェコ、インドネシアに植民地である「オランダ領東インド」を有するオランダ)。日本政府は、リットン報告書が連盟総会で採択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)。2月24日、軍縮分館で行われた連盟総会で報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)の圧倒的多数で可決採択された。松岡は予め用意の宣言書を朗読して総会から退場した。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。翌日の新聞には『連盟よさらば!』(以下縦書き見出し)『連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す』の文字が一面に大きく掲載された。帰国した松岡は「言うべきことを言ってのけた」「国民の溜飲を下げさせた」初めての外交官として、国民には「ジュネーブの英雄」として、凱旋将軍のように大歓迎された。言論界でも、清沢洌など一部の識者を除けば、松岡の総会でのパフォーマンスを支持する声が大だった。もっとも本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」との意のコメントを出している。1940年(昭和15年)、近衛文麿が大命降下を受け、外相として松岡を指名した。松岡は軍部に人気があり、また彼の強い性格が軍部を押さえるであろうという近衛の目算があった。20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。1941年(昭和16年)12月6日、日米開戦の方針を知り「三国同盟は僕一生 の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし涙を流したという。敗戦後はA級戦犯容疑者としてGHQ命令により逮捕される。連盟脱退、三国同盟の主導、対ソビエト戦争の主張などから死刑判決は免れないとの予想の中、痩せ衰えながらも周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語り、巣鴨プリズンに向かった。しかし、結核悪化のため極東国際軍事裁判公判法廷には一度のみ出席となった。その一度の出席での罪状認否では無罪を全被告人中ただ一人、英語で主張している。1946年(昭和21年)6月27日、駐留アメリカ軍病院から転院を許された東大病院で病死。66歳であった。

松岡洋右は国際連盟から日本を勝手に脱退させた人だと思われていますが、ジュネーブ総会で日本の主張が認められないならば国際聯盟脱退は、日本外務省の最後の方針でした。 しかも脱退を既定路線としてジュネーブに赴いた訳ではなく、松岡全権はあくまでも脱退を極力避ける方針で望んだようです。松岡は外相就任当時、「独逸人ほど信用のできない人種はない」と語っており、ドイツとの同盟には反対でしたが、最終的には三国同盟の推進者となりました。松岡の構想では、三国同盟にソビエトを参加させ、四国の協力関係を作るという、非常に壮大なものでした。これは実現する見込みのないものでしたが、松岡はスターリンと会談を行い日ソ中立条約を電撃的に調印、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する外交的成果をあげています。会談ではスターリンの機嫌をよくしてから外交交渉の話に移ろうとしスターリンにお世辞を言い、最初は中立条約締結に消極的だったスターリンは喋りまくる松岡をじっと見つめて「君は約束を守りそうだな」と言い、中立条約締結を決断したそうです。スターリンは松岡のこうした饒舌をかなり好んだようで、既述のように、松岡の帰国の際は、異例中の異例ともいえる駅での見送り、抱擁をしています。このように誤解されている部分もある人ですが、総合的に見れば語学と弁舌に優れてはいましたが、自信過剰で大局観のない人物であり、戦争の責任ということでは重い人だと思います。

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うつし世を神さりましし大君の 御あと慕ひて我はゆくなり

この世を神は去りなさった大君の 御後を慕って私は行きます

乃木希典の辞世の句。乃木希典のは、日本の武士(長府藩士)、軍人。陸軍大将従二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長。乃木は、日露戦争において旅順要塞を攻略したことから、東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた。しかし、旅順要塞攻略に際して多大な犠牲を生じたことや、明治天皇が崩御した際に殉死したことなど、その功績及び行為に対する評価は様々である。例えば、司馬遼太郎は、著書『坂の上の雲』『殉死』において、福岡徹は著書『軍神 乃木希典の生涯』において乃木を愚将と評価した。他方で、司馬遼太郎らに対する反論や、乃木は名将であったとする主張など乃木を擁護する意見もある。旅順攻囲戦は日露戦争における最激戦であったから、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価され、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置もまた賞賛の対象となり、特に、水師営の会見におけるステッセリの処遇については、世界的に評価された。最期は乃木は、1912年(大正元年)9月13日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、妻とともに自刃して亡くなった。乃木夫妻の葬儀は、1912年(大正元年)9月18日に行われた。葬儀には十数万の民衆が自発的に参列した。その様子は、「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現され、また、外国人も多数参列したことから、「世界葬」とも表現された。

乃木希典は一般的に戦下手だったと思われていますが、最終的に旅順を攻略したことからも分かる通り、天才的な軍略家ではなかったものの、全くの無能だったというわけでもありませんでした。旅順攻囲戦では、満州軍司令部や大本営に度々砲弾を要求したが、十分な補給がおこなわれる事がなかったなど、苦しい条件で機関砲を配備した永久要塞を攻略する極めて困難な戦いでした。彼への評価は戦功だけでなく、殉死というその死に様も日本人に大きな影響を与えました。殉死直後から日本国内の新聞の多くはこれを肯定的に捉え、乃木の行為を好意的に受け止める空気が一般的であり、新渡戸稲造は「日本道徳の積極的表現」、三宅雪嶺は「権威ある死」と論じ、徳冨蘆花や京都帝国大学教授・西田幾多郎は、乃木の自刃に感動を覚えました。他にも夏目漱石や森鴎外が作品に書いています。三島由紀夫もその影響を受けた人でしょう。乃木は軍人でありながら、優れた文化人であり、多くの和歌や漢詩を残しています。彼は上記の歌の他に「神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる」という歌も辞世として残しています。

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今日の辞世の句 

天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く

天も地も人も恨まず一筋に 恐れを抱かないことを願って安らかに死ぬ

松井石根の辞世の句。松井石根は中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、ハルピン特務機関長、陸軍大将。正三位勲一等功一級。ポツダム宣言受諾 後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(BC級戦犯)を受け、処刑された。愛知県出身。旧尾張藩士松井武国、ひさの 六男として生まれた。成城学校から陸軍士官学校(9期次席)、陸軍大学校(18期首席)を卒業。陸大在学中に日露戦争に従軍した。中国駐在中は孫文の大ア ジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。中国国民党の袁世凱打倒に協力。昭和8年(1933年)に大亜細亜協会の設立発起人となり(後に会長に就任)、同 年8月には台湾亜細亜協会を設立した。また日本に留学した蒋介石とも親交があり、蒋が政治的に困難な際に時の日本の首相田中義一との会談を取り持ち事態を 打開させたのも松井である。日中戦争(支那事変)勃発前は予備役であったが、第二次上海事変が勃発すると軍務に復帰、上海派遣軍司令官として上海に派遣さ れた。参謀本部と政府は上海事件の不拡大を望んでいたが、松井は上海近辺に限定されていた権限を逸脱して、当時の首都南京を攻撃・占領した。その際に南京 攻略戦前に当時の中国の首都であった“南京攻略要綱”を兵士に徹底していたつもりであったが、南京戦後に、一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の 報を聞いたとき、彼は「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。しかし、後の東京裁判における宣誓口述書では「一部の」兵士による軍規違 反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している。軍籍を離れた松井は「大亜細亜協会」会頭として、アジア主義運動を展開し、国内各所 での講演活動を行っていた。1945年8月15日、松井は終戦の玉音放送を熱海の自宅で聞いた。10月19日、松井は戦犯指定を受けた。1946年3月5 日、松井は巣鴨プリズンに出頭。収監されてからも毎朝、観音経をあげるのが習慣だった。また、重光葵によると、人の依頼に応じて揮毫する文字は決まって 「殺身為仁」であり、獄中では常に国民服姿だったという。昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨プリズン内で処刑(絞首刑)が執行された。

松井石根はいわゆる「南京虐殺」の責任を問われて死刑になった人です。松井は孫文と親交あり、かなり親中派な人物でした。彼は当時の首相である田中義一と蒋介石の会談を実現させ、蒋を援助する代わりに満蒙の特殊権益と開発を大幅に承認させようとしましたが、張作霖爆殺事件により松井の意図は完全に崩れ去りました。その後西安事件により、捕えられた蒋介石は国共合作により抗日へと方針を180度転換し、1937年7月7日の支那事変(盧溝橋事件)勃発により日中戦争が始まりました。松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示し、中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めました。彼は後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定しています。彼は和平交渉を進めようとしていましたが、1938年1月16日に近衛文麿首相が「蒋介石を対手とせず」宣言(近衛声明)するに至ってその努力は無に帰しました。松井は軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され帰国し、予備役となりました。松井は巣鴨プリズンに収容される前夜、近親者たちを招いて宴を催し、盃を交わしながら「乃公はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないナァ」と語ったそうです。最期は戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴され、司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受け、1948年12月23日に巣鴨プリズン内で処刑(絞首刑)が執行されました。昭和53年(1978年)年、他のA級戦犯と共に靖国神社へ合祀されています。松井は上記の歌の他にも 「いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば」 「世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等誠の心」という歌も残しています。中国共産党では松井を南京事件の責任者、日本軍による非道の象徴的人物と位置づけています。また、国家中枢にあったとされる他のA級戦犯と同格の人物とみなされているようです。「南京事件」については不明な点も多く、立命館大学の北村稔先生の『「南京事件」の探究』 では「一般市民を対象とした虐殺はなかったとの結論に達する」としています。

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