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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

悔いもなく怨みもなくて行く黄泉

松岡洋右の辞世の句。松岡洋右は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜 の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで勉学の末、オレゴン大学法学部に入学、1900年(明治33年)に卒業する。オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、ポーカーの名手だったともいう。卒業後も滞米し様々の職種で働いていることから、アイヴィー・リーグ等の大学(あるいは大学院)に進学することを目指していたとも考えられるが、母親の健康状態悪化などを理由に1902年(明治35年)、9年振りに帰国する。松岡はアメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と呼んでいたが、これは終生変わらなかった。第17回衆議院議員総選挙に郷里山口2区から立候補(政友会所属)、当選する。議会内では対米英協調・対中内政不干渉方針とする幣原外交を厳しく批判し、国民から喝采を浴びる事となる。松岡は連盟総会に日本首席全権として派遣される。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。「日本の主張が認められないならば国際聯盟脱退はやむをえない」は松岡全権の単独行為ではなく、あくまでも日本外務省の最後の方針であり、脱退を既定路線としてジュネーブに赴いた訳ではなく、松岡はできうる限り脱退を避ける方針で連盟総会に臨んだ。連盟総会は日本に対して厳しい雰囲気の中、開催される。到着早々の松岡は12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの大演説を総会で行う。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果的だったともいわれる。もっとも、会議場での松岡の「十字架上の日本」と題せられる演説に関しては絶賛の拍手で渦巻いた。仏国代表ボンクール陸相が握手を求めたのを皮切りに、多数の代表・随員が握手を求め、英国代表サイモン外相、陸相ヘールサム卿が松岡に賛辞の言葉を述べた。これら各国代表の賛辞は、演説の内容もさることながら、松岡の英語能力に驚嘆し「日本にもこれほど外国語が堪能な人物がいたのか」と感心した面にもよるものだった。なお、聯盟総会において、最も対日批判の急先鋒であったのは中華民国、およびヨーロッパの中小国であったことに注意すべきである(スペイン、スイス、チェコ、インドネシアに植民地である「オランダ領東インド」を有するオランダ)。日本政府は、リットン報告書が連盟総会で採択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)。2月24日、軍縮分館で行われた連盟総会で報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)の圧倒的多数で可決採択された。松岡は予め用意の宣言書を朗読して総会から退場した。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。翌日の新聞には『連盟よさらば!』(以下縦書き見出し)『連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す』の文字が一面に大きく掲載された。帰国した松岡は「言うべきことを言ってのけた」「国民の溜飲を下げさせた」初めての外交官として、国民には「ジュネーブの英雄」として、凱旋将軍のように大歓迎された。言論界でも、清沢洌など一部の識者を除けば、松岡の総会でのパフォーマンスを支持する声が大だった。もっとも本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」との意のコメントを出している。1940年(昭和15年)、近衛文麿が大命降下を受け、外相として松岡を指名した。松岡は軍部に人気があり、また彼の強い性格が軍部を押さえるであろうという近衛の目算があった。20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。1941年(昭和16年)12月6日、日米開戦の方針を知り「三国同盟は僕一生 の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし涙を流したという。敗戦後はA級戦犯容疑者としてGHQ命令により逮捕される。連盟脱退、三国同盟の主導、対ソビエト戦争の主張などから死刑判決は免れないとの予想の中、痩せ衰えながらも周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語り、巣鴨プリズンに向かった。しかし、結核悪化のため極東国際軍事裁判公判法廷には一度のみ出席となった。その一度の出席での罪状認否では無罪を全被告人中ただ一人、英語で主張している。1946年(昭和21年)6月27日、駐留アメリカ軍病院から転院を許された東大病院で病死。66歳であった。

松岡洋右は国際連盟から日本を勝手に脱退させた人だと思われていますが、ジュネーブ総会で日本の主張が認められないならば国際聯盟脱退は、日本外務省の最後の方針でした。 しかも脱退を既定路線としてジュネーブに赴いた訳ではなく、松岡全権はあくまでも脱退を極力避ける方針で望んだようです。松岡は外相就任当時、「独逸人ほど信用のできない人種はない」と語っており、ドイツとの同盟には反対でしたが、最終的には三国同盟の推進者となりました。松岡の構想では、三国同盟にソビエトを参加させ、四国の協力関係を作るという、非常に壮大なものでした。これは実現する見込みのないものでしたが、松岡はスターリンと会談を行い日ソ中立条約を電撃的に調印、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する外交的成果をあげています。会談ではスターリンの機嫌をよくしてから外交交渉の話に移ろうとしスターリンにお世辞を言い、最初は中立条約締結に消極的だったスターリンは喋りまくる松岡をじっと見つめて「君は約束を守りそうだな」と言い、中立条約締結を決断したそうです。スターリンは松岡のこうした饒舌をかなり好んだようで、既述のように、松岡の帰国の際は、異例中の異例ともいえる駅での見送り、抱擁をしています。このように誤解されている部分もある人ですが、総合的に見れば語学と弁舌に優れてはいましたが、自信過剰で大局観のない人物であり、戦争の責任ということでは重い人だと思います。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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