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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

今までは目見へせねども主人公 八八といひし年もあきけり

今までは注目されなくても主人公 64歳という年にも飽きた

安原貞室の辞世の句。安原貞室(やすはらていしつ:1610年(慶長15年) - 1673年3月25日(延宝元年2月7日))は、江戸時代前期の俳人で、貞門七俳人の一人。名は正明(まさあきら)、通称は鎰屋(かぎや)彦左衛門、別号は腐俳子(ふはいし)・一嚢軒(いちのうけん)。京都の紙商。1625年(寛永2年)、松永貞徳に師事して俳諧を学び、42歳で点業を許された。貞門派では松江重頼と双璧をなす。貞室の「俳諧之註」を重頼が非難したが、重頼の「毛吹草」を貞室が「氷室守」で論破している。自分だけが貞門の正統派でその後継者であると主張するなど、同門、他門としばしば衝突した。作風は、貞門派の域を出たものもあり、蕉門から高い評価を受けている。句集は「玉海集」。

安原貞室は俳風は、言葉遊びの域を出なかったとされる貞門派の中で、蕉門派の人からも高い評価を受けた数少ない人です。特に芭蕉は『おくのほそ道』で、貞室が加賀の山中の人々から点料を取らなかった逸話を記したり、「これはこれはとばかり花の吉野山」という貞室の句について、『笈の小文』で「吉野の山に三日とどまりて・・・かの貞室が是は是はと打ちなぐりたるに、われはいはん言葉もなくて・・・」と褒めています。彼の本業は京都の鎰屋という紙屋で、15歳で貞徳の私塾に学び18歳のころに俳諧を始めたそうです。上記の通り、彼は野心的で自負心が強かったため、同門の人たちとも仲が悪く諸家を酷評し自己を賞揚したりもしました。またかつては自分の門人であった、北村季吟とも絶交したりもしています。さて、上記の歌ですが「八八」がなぜ64になるのかと思った人もいるかもしれませんが、これは8×8が64だからです。当時はこのような表記の方が、むしろ一般的でした。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

下手ばかり死ぬる事ぞと思ひしに 上手も死ねばくそ上手なり

森川許六の辞世の句。森川 許六(もりかわ きょりく、明暦2年8月14日(1656年10月1日) - 正徳5年8月26日(1715年9月23日))は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平と言う。五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵・如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など多くの別号がある。近江国彦根藩の藩士。(旧暦)明暦2年8月14日(1656年10月1日)、佐々木高綱を遠祖とする300石取りの彦根藩士森川與次右衛門の子として彦根城下藪下に生まれ、父親が大津御蔵役を勤めたことから7年間大津に住んだ。武士として剣術・馬術(悪馬新当流)・槍術に通じ、槍については宝蔵院流槍術鎌十文字槍の名人であった。許六は若い頃から漢詩を修め、絵は狩野探幽の弟で奥絵師の狩野安信に習い、また自著「俳諧問答」(俳諧自讃之論)の中では、延宝の始め(1670年代前半)に和歌や俳諧は初め北村季吟・田中常矩などに学んだとし、談林派の俳諧に属していた。元禄2年(1689年)頃から本格的に俳道を志し、近江蕉門の古参江左尚白の門を叩き、元禄4年(1691年)江戸下向の折に蕉門十哲の宝井其角・服部嵐雪の指導を受けた。元禄5年(1692年)江戸深川にいた芭蕉に入門し、芭蕉より六芸に通じた多芸の才人であったことから「許六」と言う号を授けられた。入門に際し、許六が詠んだ「十団子も 小粒になりぬ 秋の風」と言う句を芭蕉は激賞した。許六が芭蕉から指導を受けたのは10ヶ月に満たないが、芭蕉は許六に俳諧を教え許六は芭蕉に絵を教えたと伝えられる。元禄6年(1693年)彦根に帰る際に芭蕉から「柴門之辞」と俳諧の奥伝書を授けられた。彦根では、芭蕉遺愛の桜の木を切って芭蕉像を作り河合智月(智月尼)に贈ったと伝えられ、また芭蕉の門人で彦根西郊平田にある明照寺の住職河野李由とは、元禄15年(1702年)俳書「韻塞(いんふたぎ)」・「篇突(へんつき)」などを共同編集。また、宝永3年(1706年)「十三歌仙」、正徳2年(1712年)「蕉風彦根躰(ひこねぶり)」、聖徳5年(1715年)「歴代滑稽伝」(同五年)など選集や作法書を編んでいる。そして門人として直江木導・松居汶村・北山毛紈・寺島朱迪などを指導した。宝永7年(1710年)、井伊家を辞し家督を養子の百親に譲る。晩年は癩病を病み、(旧暦)正徳5年8月26日(1715年9月23日)に死去した。

森川許六は非常に多芸な人物でした。彼は俳諧だけでなく画技に巧みで、芭蕉は俳諧を教えるかたわら絵の指導を受けたこともあったらしく、許六を絵の師と呼んでいました。許六が芭蕉から指導を受けたのは10ヶ月程度でしたが、蕉風俳諧の真髄を学びとったと確信し、自ら「蕉門二世」と称して芭蕉没後は継承者を自任し、蕉風の理念を掲げて彦根俳壇の指導者となりました。ま許六は武士であり、武芸にも熱心で槍、剣、馬にも巧みでしたが、健康には恵まれず、若いころから病気がちで、特に晩年の10年間は病床にあることが多かったようです。上記の通り許六は廃人でしたが、辞世は狂歌をのこしました。この辞世の句は、病床で大小便の始末も自分で出来なくなったことを、少々皮肉も交えて詠んだものです。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

心から 雪うつくしや 西の雲

小杉一笑の辞世の句。小杉一笑(こすぎ-いっしょう 1653-1688)江戸時代前期の俳人。承応2年生まれ。加賀金沢の茶商。高瀬梅盛の門人。『俳枕』以来、『時勢粧』『山下水』『大井川集』『名取河』『孤松』『阿羅野』などに入句。とくに近江大津で刊行され尚白撰『孤松』に一九三句入集され、上方でもその名が知られ、中でも芭蕉にもっとも注目された。貞門・談林をへて蕉門に属する。松尾芭蕉に傾倒し、貞享4年蕉門の江左尚白が編集した」に190句余が収録された。元禄元年12月6日死去。36歳。通称は茶屋新七。

小杉一笑は芭蕉の門人ですが、一般的な知名度は低い人です。彼は芭蕉の優れた弟子である十哲の中に入ってはいませんが、師の芭蕉からも好かれていたようで、『奥の細道』の 旅行中に一笑の死を知った芭蕉は、金沢で追善句会を催し、「塚も動け我が泣く声は秋の風」という哀悼の句を詠みました。一笑は貞門派や談林派の門下でしたが、言葉遊びの域を出なかったとされる貞門派にあって、古風を墨守した高瀬梅盛に師事したことからもわかるように、正統派の俳諧を目指した人でした。その一笑が、正風俳諧を大成した芭蕉に師事したことは、当然と言えます。一笑は金沢における蕉風の先駆をなし、その才能を芭蕉に注目されましたが、36歳の若さで亡くなってしまいました。

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今日の辞世の句 

春に我 乞食やめても 筑紫かな

春になったら私は乞食をやめてでも筑紫に行きたいな

河合曾良の辞世の句。河合 曾良(かわい そら 慶安2年(1649年) - 宝永7年5月22日(1710年6月18日))(だがこの日に曾良が没した記録が、巡遣使随員の日誌に無いため、没した正確な月日は判明していない)は、江戸時代中期の俳諧師。松尾芭蕉の『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行した弟子。蕉門十哲の一人とされる。信濃国下桑原村(現長野県諏訪市)の高野七兵衛の長男として生まれる。幼名は与左衛門。その後、両親が亡くなったため伯母の養子となり、岩波庄右衛門正字と名乗る。12歳の時、養父母が亡くなったため伊勢国長島の親戚の元に引き取られる。寛文8年(1668年)頃より長島藩主松平康尚に仕え、河合惣五郎を名乗る。天和元年(1681年)頃に致仕。江戸の吉川惟足に吉川神道を学ぶ。元禄2年(1689年)、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅に同行し、「曾良旅日記」(天理大学附属天理図書館所蔵、重要文化財)を残した。宝永6年(1709年)に幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、翌年、壱岐国可須村風本(現長崎県壱岐市勝本浦)で巡見の途上に病没した。享年62。戒名は賢翁宗臣居士。墓所は壱岐島の能満寺。元文5年(1740年)、没後30年を経て故郷・諏訪の正願寺にも墓標が建てられた。平成6年(1994年)5月24日に旧勝本町と諏訪市が河合曾良の終焉の地と生誕の地としての縁で友好都市提携を結び、旧勝本町が旧壱岐郡3町と合併(平成の大合併)後も壱岐市に受け継がれた。

曾良は松尾芭蕉の『奥の細道』の旅に同行したことで有名です。彼の旅日記である『曾良旅日記』は、存在が古くから一部には知られていましたが、山本安三郎が再発見して1943年(昭和18年)に出版するまで、実在するのか分からない資料でした。『曾良旅日記』の全貌が明らかになったことで、『おくのほそ道』本文における虚構、発句の初案、推敲の過程など、芭蕉の制作意識が分かるようになりました。上記の句は一般的に辞世の句だとされていますが、上記の通り曾良は旅の途中で亡くなった上に記録が残っていないため、本当にこの句が辞世の句だったのかはっきりしていません。句にある通り、彼は生き甲斐である乞食を辞めてでも行きたいほど、九州が好きでした。その地で亡くなったのだから、彼も幸せだったことでしょう。

長崎県壱岐市勝本浦にある河合曾良の墓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:The_tomb_of_Sora_Kawai.JPG

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

若水や ふゆは薬に むすびしを

志太野坡の辞世の句。志太野坡(しだ やば、寛文2年1月3日(1662年2月21日) - 元文5年1月3日(1740年1月31日))は、江戸時代前期の俳諧師。別号に野馬、樗木社。蕉門十哲の一人とされ、「軽み」の俳風では随一ともいわれた。元々は両替商の三井越後屋に奉公し、番頭にまで登りつめた。宝井其角に俳諧を学んだがのちに松尾芭蕉に入門する。 「炭俵」を編集した。芭蕉没後、大阪に移り、俳諧に専念した。門人は西国四国中国に1000人を越えるほどだったという。代表的な門人に後継者でもあり保護者でもあった湖白亭浮雲、広島地方で活動した多賀庵風律がいる。湖白亭浮雲の妻は諸九尼といい、おくのほそみちを追体験した「秋かぜの記」を著した。

志太野坡は松尾芭蕉の『炭俵』を編集した人です。『炭俵』は俳諧七部集の一つで、蕉風三変論における芭蕉のかるみのよく表れたものとされています。これで評判を取った彼は、職業的俳諧師として立ち、現在の大阪市中央区農人橋の近くに住みました。彼は芭蕉に習って、中国・九州地方を行脚し、西国におおくの門弟を擁しました。その後1724年(享保9年)大火に遭い、無一文になり、高津に庵を結び、以後、生涯をここで過ごしました。経済的には不遇でしたが、蕉風の発展と門人の育成に功がありました。さて、上記の句は『三日之庵』に収録された最後の句です。なので厳密に言うと、これが辞世の句として作られたのかは分かりません。これを辞世の句として紹介している人もいますが、ここでは彼の晩年の心境を伝える句として取り上げました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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