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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

消安し 都の土ぞ 春の雪

図司呂丸の辞世の句。図司呂丸(ずし ろがん ?-1693)は、江戸時代前期の俳人。出羽羽黒手向の山伏法衣の染物師。松尾芭蕉の「おくのほそ道」の旅に,出羽三山を案内。元禄5年伊勢詣での途中、江戸深川に芭蕉をたずね、「三日月日記」の草稿をおくられた。元禄6年2月2日京都の各務支考宅で死去。通称は左吉。別号に啁栢堂、栢堂。著作に「聞書七日草」。

図司呂丸は本業は山伏法衣の染物師でしたが、俳人としては羽黒俳壇の第一人者でした。芭蕉が「奥の細道」の旅の途中羽黒に滞在した折、最初に訪ねたのがこの呂丸宅であり、彼はすでに名の通った俳人でした。呂丸は芭蕉との出会いに感激し、羽黒山滞留の間、会覚阿闍梨の意を受けて丁重に接待しました。その後、芭蕉の「存命のうちにもう一度お目にかかりたい」の言葉に応じて、同年8月に江戸に出向き、芭蕉と3年ぶりの再会を果たしました。彼はさらに、美濃、伊勢と西国を旅し、元禄6年に京都に去来を尋ねましたが、その後すぐに病に倒れ、当所で客死しました。烏崎稲荷神社境内には、呂丸百回忌の寛政5年(1794年)2月に建立された、呂丸追善句碑があります。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

行時は 月にならひて 水の友

水田正秀の辞世の句。水田 正秀(みずた まさひで、明暦3年(1657年) - 享保8年8月3日(1723年9月2日))は、江戸時代前期から中期にかけての俳人。近江蕉門の一人、菅沼曲水の伯父と伝えられる。通称を利右衛門、別に竹青堂・節青堂・清庵などと号す。明暦3年(1657年)、近江国膳所に生まれ、代々正秀を名乗った。遠藤曰人が記した「蕉門諸生全傳」において「正秀は膳所の町人伊勢屋孫右衛門」と伝えているが、中村光久が編んだ「俳林小傳」では「膳所藩中物頭、曲翠の伯父なり」とある。正秀死去後編された正秀追悼集「水の友」の序文より考えれば、膳所藩内で相当重い地位を占めていたと考えられる。正秀は若い頃竹内三段位に和歌を習い、後に初期近江蕉門の一人江左尚白に師事した。元禄元年(1688年)、自分の蔵が類焼した際正秀が「蔵焼けて さはるものなき 月見哉」と詠み平然としていたことを松尾芭蕉が聞き、「是こそ風雅の魂なれ」「その者ゆかし」と言い、便りを行き来することになり、師弟の契りが結ばれた。元禄3年(1690年)7月に芭蕉の正秀宛の書簡には「又々色々御取揃え芳慮にかけられかたじけなく」と記され、同年9月の書簡では「貴境旧里のごとく(ここ(膳所)こそ故郷ごとく思われ‥」「立帰り立帰り御やつかひに(何度でも戻ってきてご厄介になる)」と書き、正秀が金銭面などで芭蕉を支援していたことがわかる。また、元禄4年(1691年)1月の書簡では「粟津草庵(後の無名庵)のこと、先づは御深切の至り、かたじけなく存じ候。とかく拙者浮雲無住の境界大望ゆゑ、かくのごとく漂泊致し候あひだ、その心にかなひ候やうに御取り持ち頼み奉り候。必ずとこれにつながれ、心を移し過ぎざるやうのことならば、いかやうとも御指図かたじけなかるべく候。しばらく足のとどまる所は、蜘蛛の網の風の間と存じ候へば、足駄蔵も蔵ならず候。さすがの御仁に申すもくどく候へば、うちまかせ候」と建築中の草庵(無名庵)を簡素にするよう正秀に依頼しており、義仲寺内にあった「無名庵」は正秀が中心となり支援し建てたものであることがわかる。元禄4年(1691年)仲秋に舟を湖上に浮かべて月光を愛でた時、芭蕉は「月見の譜」の中で「琵琶湖に月見んとて、しばらく木曽寺(義仲寺)に旅寝して膳所松本の人々を催す」と記し、無名庵で遊ぶ姿を伝えている。元禄7年10月12日(1694年11月28日)に芭蕉が死去し、三回忌が過ぎた元禄10年(1697年)頃正秀は公務を辞し、山城伏見の里に隠棲した。膳所に戻った後、元禄15年(1702年)濱田洒堂(珍夕)と共に句集「白馬集」を編む。享保8年(1723年)8月、窪田松琵等の正秀門下を集め「行時は 月にならひて 水の友」と辞世を残し、3日死去した。墓所は竜が丘俳人墓地。なお、一時大津の松本に住し、医を業としたとの話もある。筑前の松尾芭蕉門人荒巻助然がお伊勢参りの道すがら、膳所に正秀を訪れた際の逸話、「ある茶店に腰うちかけて湖上の月に時を過ごしてゐる折から、酒に酔ひて声高に罵りつつ行過ぐるを「その男こそ正秀よ」と教えられて名乗りかけ、打ちつれて正秀の茅屋に寝した」が残され、また丈草の書簡には正秀が毎日酔いつぶれているような記述がある。正秀は酒を好み風流を愛する人であった。

水田正秀は出自がはっきりせず、藩士または町人であったと伝えられています。後年は医業についたようですが、俳人としても非常に活躍しました。上記の通り、義仲寺内にあった「無名庵」は正秀が中心となって建てたものですが、芭蕉はこの寺と湖南の人たちを愛し、たびたび滞在して句会も盛んに行いました。大坂で亡くなった芭蕉は、「骸は木曽塚に送るべし」との遺志を残し、義仲墓の横に葬られました。さて、上記の句の解釈ですが、無手でこれを行うのは非常に難しいです。正秀は風流を愛した人ですが、この句は彼が住んだ膳所の琵琶湖に、月が映った情景を詠んだものだと思われます。死にゆく時に水に映った月を友として、その姿に習っているのだと思われます。

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今日の辞世の句 

一葉散る 咄ひとはちる 風の上

服部嵐雪の辞世の句。服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日))は、江戸時代前期の俳諧師。幼名は久馬之助または久米之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、寒蓼庵、玄峯堂、黄落庵など。淡路国三原郡小榎並村生まれ。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。服部家は淡路出身の武家で、父服部喜太夫高治も常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士で、長男である嵐雪も一時、常陸笠間藩主の井上正利に仕えたことがある。若い頃は相当な不良青年で悪所(遊里や芝居町)通いは日常茶飯事であった。延宝元年(1673年)、松尾芭蕉に入門、蕉門で最古参の一人となる。延宝6年(1678年)、不卜編『俳諧江戸広小路』に付句が2句入集したのが作品の初見である。延宝8年(1680年)には同門宝井其角の『田舎之句合』に序を草し、『桃青門弟独吟廿歌仙』に入集、以後『虚栗(みなしぐり)』、『続虚栗』などに作品を採用された。元禄元年1688年には『若水』を刊行し、同年立机して宗匠となり、同3年(1690年)には『其帒(そのふくろ)』を刊行して俳名を高めた。元禄7年(1694年)、『露払』の斤にからんで深川蕉門との対立を生じ、代えて『或時集(あるときしゆう)』を刊行。また翌年には芭蕉の一周忌追善集『若菜集』を刊行した。作風は柔和な温雅さを特徴とする。芭蕉は嵐雪の才能を高く評価し、元禄5年(1692年)3月3日の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称えたが、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど、師弟関係に軋みが発生していた。元禄7年(1694年)10月22日、江戸で芭蕉の訃報を聞く。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開き、桃隣と一緒に芭蕉が葬られた膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下に かくねむるらん 雪仏 」であった。其角と実力は拮抗し、芭蕉をして「両の手に桃と桜や草の蛭」と詠んだ程であったが、芭蕉没後は江戸俳壇を其角と二分する趣があった。宝永4年(1707年)10月13日没。享年54。追善集に百里斤『風の上』など。その門流は、雪門として特に中興期以後一派を形成した。

服部嵐雪は蕉門十哲の中でも、中心人物となった人です。嵐雪は若い頃からかなりの不良だったようで、元服後約30年の間転々と主を替えて奉公したり、芭蕉の説く「かるみ」の風体に共鳴せず、晩年の芭蕉とはほとんど一座しなかったりと、なかなか一筋縄で行かないところのある人物でした。しかし、芭蕉の訃報に接し西上して義仲寺の墓前にひざまずき、一周忌には『芭蕉一周忌』を編んで追悼の意を表すなど、師に対する敬慕の念は厚かったようで、晩年は青壮年期の放蕩生活を悔いたのか、俳諧に対して不即不離の態度を保ちつつ、もっぱら禅を修めました。さて、上記の句についてですが、「咄」(とつ)とは元来の意味は舌打ちの音のことで、事の意外さに驚き怪しむときに発する語のことです。死を前にした彼が落ち葉の散るのを見て、何に驚いたのでしょうか?

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今日の辞世の句 

書いてみたり けしたり果ては けしの花

書いてみたり消したりした果ては消しの花のような人生だった

立花北枝の辞世の句。立花北枝(たちばなほくし 生年不詳~享保3.5.12(1718.6.10) )は、江戸前期の俳人。通称は研屋源四郎。金沢に住み、刀の研師を業とするかたわら俳諧に親しむ。元禄2(1689)年、松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途中で金沢を訪れた際に入門し、越前丸岡まで行動をともにした。以後加賀蕉門の中心人物として活躍したが、無欲な性格で俳壇的な野心はなかった。自分の家が丸焼けになったとき「焼にけりされども花はちりすまし」と詠み、芭蕉の称賛を得たエピソードは有名で、世俗を離れて風雅に遊ぼうとする姿勢がうかがえる。

立花北枝は蕉門十哲の一人ですが、本業は刀の研師でした。北枝に限らず、当時の俳人の多くは市井の人であり、特権的な階級の人たちではありませんでした。彼は欲の少ない人物だったようで、そのためか芭蕉の他の門人に比べても知名度が低いような気がしますが、当人にはあまりそういった野心はなかったようです。上記の句について、俳句は言葉の数自体が少ないために解釈するのが難しく、彼が自分の人生についてどのような態度でこの句を詠んだのか、完全に推測するのは難しいです。

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今日の辞世の句 

痩がほに 団扇をかざし 絶しいき

杉山杉風の辞世の句。杉山杉風(すぎやま さんぷう 正保4(1647)~享保17.6.13(1732.8.3)) は、江戸時代の俳人。通称、藤左衛門または市兵衛。別号に採荼庵、荼舎、蓑翁、蓑杖など。隠居して一元と号した。江戸日本橋本小田原町に住んで、幕府に魚類を納める納屋を営む。屋号を鯉屋といった。俳諧は、父仙風と共に松尾芭蕉門。東下後の芭蕉に親しみ、延宝期には江戸蕉門の中心人物となる。『桃青門弟独吟二十歌仙』(1680)の巻頭をつとめ、その実績をもとに『常盤屋句合』を刊行。貞享期(1684~88)になると、榎本其角、服部嵐雪の活動がはなやかになり、杉風の影はうすくなるが、詩的才能の限界とともに、家業の多忙が災いしたか。元禄6、7(1693・94)年になると、芭蕉の「軽み」によく従い、『別座鋪』の編集に関与。晩年には『冬かつら』『木曾の谷』の刊行もあったが、かつてほどの精彩はなかった。芭蕉のパトロン的存在であり、その真摯な性格により信頼を得た。没後、家蔵の芭蕉真蹟は鯉屋ものとしてよく知られている。

杉山杉風は芭蕉十哲の一人ですが、本業は魚屋でした。豊かな経済力で芭蕉の生活を支え、延宝8年(1680年)に芭蕉が江戸市中から移り住んだ第一次芭蕉庵は、杉風所有の生簀の番小屋でした。『おくのほそ道』の旅を終えてからの第三次芭蕉庵も、杉風が同門の枳風とともに出る費して築いたもので、芭蕉は遺書の中で、「杉風へ申し候。ひさびさ厚志、死後まで忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御いとまごひ致さざる段、互に存念、是非なきことに存じ候。いよいよ俳諧御つとめ候て、老後の御楽しみになさるべく候。」と、感謝の言葉を残しています。

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