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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

二三百を生きやうと思ひしに 八十五にて不時の若死に

英一珪の辞世の句。英一珪(はなぶさ-いっけい 1759-1844)は、江戸時代中期-後期の画家。宝暦9年生まれ。英一川の子。高嵩谷の門人で、師命で英家を再興した。天保14年12月21日死去。85歳。享年には92歳,96歳説もある。江戸出身。名は信重。

江戸の画壇の中で英派は、狩野派や琳派と比べてすでに忘れられた感がありますが、英派は軽妙洒脱な風俗画を確立した一派でした。英派の初代は英一蝶で、そこから一舟→一川からこの一珪へと続いています。上記の辞世の歌について、特に解釈の必要はないでしょう。一珪はこの歌の他に、「百まではなんでもないと思ひしに、九十六ではあまに早死」という、これまた非常に分かりやすい歌も辞世として残しています。この二つの辞世の享年がバラバラであることについては、諸説があるようではっきりしていません。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

花清し 散ても浮む 水のうへ

桜田治助(初代)の辞世の句。桜田治助(さくらだ・じすけ 生年: 享保19(1734)~没年: 文化3.6.27(1806.8.11))は、江戸歌舞伎中興の祖と位置づけられる歌舞伎狂言作者。初名田川治助、津村治助、堀越治助。俳名左交。江戸本石町一丁目河岸の薪炭商の子。通称を笠屋善兵衛、幼名治三郎などと伝えられるが不詳。狂言作者三宅(津村)清蔵の世話で劇界に入り、25歳で狂言方見習いとなる。29歳から4年間京都で修業し、江戸に戻ってのち明和4(1767)年11月3代目市川団蔵の取り立てで立作者となる。2年後には4代目市川団十郎を中心とする「市川揃え」と呼ばれる大一座の作者に抜擢され、安永2(1773)年11月の「御摂勧進帳」の大当たりで人気作者の地位を不動にする。「天明ぶり」を代表する作風で、ことに4代目松本幸四郎に書いた顔見世狂言二番目の世話場「雪ふりの場」などは、洒落た台詞、華やかな趣向、思い付きのよい見立てなどで人気を呼び、「花の江戸の桜田」とたたえられた。52歳から3年ほど劇界を離れたが、復帰してのちは73歳で死ぬまで台本を書いた。最盛期は安永~天明期(1772~89)で、戯作者の山東京伝と共に、町人出身の作者として文壇、劇壇に新風を起こした。 根っからの芝居好きで、勘当されて預けられた上野国佐野(高崎市)でも、手習いの師匠をしながら子供たちに芝居を教えたという。また、大の吉原好きで、毎夜廓に行かねば寝られなかったともいう。芝居と遊里が生んだ作者であった。江戸の豊後節浄瑠璃の作詞もよくし、常磐津の「戻駕色相肩」、富本の「花川戸身替の段」などに、その特色がよく表されている。語り物としての浄瑠璃のなかに、局面本位の長唄の所作事の小唄尽くしの性格を取り込み、舞台面に多彩な変化を可能にした。また、浄瑠璃の詞章に漢語や俗語を入れた壕越二三治の「菜陽風」を慕い、その堅い表現を廓言葉などで和らげ洗練した。その作風は「桜田風」と呼ばれ、没後、本所柳島妙見(法性寺,墨田区業平)に治助の辞世の句「花清し散ても浮む水の上」を刻んだ浄瑠璃塚が建立された。桜田風は、門弟の福森久助、2代・3代目桜田治助らの所作事のなかに継承されていった。

桜田治助は歌舞伎作者で、4世まで継承されました。彼ははじめ市村座の狂言作者となり、上方で修業ののち江戸へ戻って三代目市川團蔵付き作者、のち四代目市川團十郎一座の立作者となりました。治助の代表作は『御摂勧進帳』(ごひいき かんじんちょう)でしょう。弁慶が番卒の首を大きな樽に放り込んで芋洗いのように棒でかき回す幕切れから、俗に「芋洗い勧進帳」と呼ばれるこの作品は、1773年(安永2)11月江戸の中村座で初演を向かえました。

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今日の辞世の句 

空蝉は もとの裸に 戻りけり

立羽不角の辞世の句。立羽不角(たちば ふかく、寛文2年(1662年) - 宝暦3年(1753年)7月21日)は江戸時代中期の俳諧師。旧姓は橘。通称は定之助、平八。別号に遠山、千翁、松月堂、虚無斎、虚雲斎、南々舎、生風斎、温故知新斎。松永貞徳の流れを汲む岡本不卜門下で、貞門派を一歩進めてより通俗的な句風を志向した。自らは温故知新流を標榜したが、他派からは化鳥風と揶揄された。寛文2年(1662年)生まれる。両親の名や家業は不明。出生当初は産声もなく、全身蒼白だったため、死産と思われ小袖に包み放置されていたが、日暮れに漸く声を発したため、医者遊左好卜に助けられたという。当初遠山と号する。延宝2年(1674年)、松永貞徳の流れを引く貞門派の俳諧師岡村不卜に入門し、「牙有る物角無し」の心を以って不角と改号した。天和3年(1683年)5月岸本調和編『俳諧題林一句』に「糭頸青蠅蕀に止ッてけり」が現在確認できる最初の発句である。貞享4年(1687年)8月には浮世草子第一作『色の染衣』を刊行した。元禄4年(1691年)4月9日、師不卜を看取る。元禄3年(1690年)1月27日に前句付興行を開始、元禄6年(1693年)9月19日には月次発句興行を始め、以降間を開けず精力的に開催し、句集に纏めた。この時期には日本橋平松町南側(東京都中央区日本橋二丁目7番地付近)で書肆を営んでいる。不角の周りには主に地方出身の武家が集い、教養を織り込みながらも通俗的な句を趣向する独自の一派が形成された。元禄末年、夢枕に柿本人麻呂が現れて橘姓の下一字を略すよう促され、立羽姓を名乗った。元禄16年(1703年)4月9日、先師不卜の十三回忌に当たり、髪が薄く髷を結えなくなったこともあり剃髪した。大名など高位の武士との交流も繁くなった不角は、それに見合った肩書を嘱望するようになった。元禄16年(1703年)5月8日、備角の号で俳諧を嗜み交流があった備前岡山藩主池田綱政の参勤交代に伴い上京し、公家社会に顔が利いた綱政の後援により、7月23日遂に法橋の地位を賜った。道中の俳諧は『蠅帒』に纏められた。宝永頃には不角の高点付興行に句が集まらないようになった。代わって連句集や俳諧撰集を手懸けて自派の勢力の存続を図るとともに、自派を『籰纑輪前集』序巻で「温故知新流」と標榜し、『つげのまくら』において対抗勢力宝井其角一派の洒落風を批判するなど、自派の正当性の主張に重きを置くようになった。本書は同年談林派浮生『滑稽弁惑原俳論』によって批判を受け、宝永6年(1709年)松丁子『一言俳談』では「頭は猿の化鳥風」と揶揄されるなど、他派と激しく応酬した。享保初年にも『正風集』を編じて自らの「正風」を主張し、享保5年(1720年)蟠竜『俳諧とんと』によって批判されている。正徳5年(1715年)には兄弟子岸本調和を亡くし、自派を一人で負って立つこととなった。享保4年(1719年)2月14日、大火により自家版の版木を焼失した。享保後年には専ら歳旦集を手がけるようになる。享保12年(1727年)『享保十二丁未歳旦』では、門弟数千人に及んだとして、千翁と号した。享保15年(1730年)5月15日京に向け出発、中仙道を通り6月3日到着、28日法眼の位を賜った。この旅は『木曽の麻衣』『有磯海』に纏められた。享保末年からは息子等も独立し、自ら句集を出して、不角派の普及に務めた。宝暦3年(1753年)5月、体調を崩した。6月20日死を覚悟、翌日午刻死去した。辞世は「空蝉はもとの裸に戻りけり」他。築地本願寺内成勝寺に葬られた。現在の墓所は江戸川区東小岩万福寺。

江戸時代の俳諧の隆盛に伴って、各派閥間での激しい勢力争いが繰り広げられていました。形式ばった文学史だけをみていては、このような闘争の内実を知ることはありませんが、実際の文芸は過酷な生存競争の上に成り立っているものです。不角はすでに落ち度となっていた貞門派の中にあって、通俗的な句風を推し進めることにより、その命脈を保とうとしました。彼は連句集や俳諧撰集を企画したり、宝井其角一派の洒落風を批判するなど、世間の耳目を集めるのに奮闘し、其角没後その洒落風を継承したとされる沾徳派とならんで江戸の俳壇に重きをなしました。最終的に平明な浮世調の作風は広く受け入れられ、門弟は数千人を数えたそうです。とはいえ、彼のそういった取り組みも現在ではほとんど忘れられ、芭蕉や蕪村のような名声を今に伝えることはできませんでした。上記の句にある「空蝉」とは、もちろん蝉の抜け殻のことですが、元々の意味は古語の「現人(うつしおみ)」が訛ったもので、この世に生きている人間もしくは現世のことです。正に辞世の句の通り、彼も彼の奮闘も全ては無常の理の中に消えていったようです。

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今日の辞世の句 

朝霜や 杖でえがきし ふじの山

松木淡々の辞世の句。松木淡々(まつき・たんたん 生年: 延宝2(1674)
没年: 宝暦11.11.2(1761.11.27))は、江戸中期の俳人。幼名熊之助、のちに伝七。初号因角,のち渭北。別号半時庵。大坂西横堀阿波屋の子として生まれる。初め椎本才麿門。元禄13(1700)年江戸に出て立羽不角に師事し、やがて榎本其角を師とするに至る。宝永1(1704)年奥州に行脚,『安達太郎根』を編み、同3年3月に万句興行をして判者となる。翌年に其角が没してすぐ淡々と改号。同5年『其角一周忌』を編み、秋に京都へ移住した。正徳5(1715)年『六芸』を編み、夏には東下、その折の俳筵の記録『十友館』を帰京後刊行し、俳活動は活発化する。翌享保1(1716)年、洛東鷲峰山の中腹に半時庵を営み、翌2年に『にはくなぶり』の恋百韻を独吟し、京俳壇における地位を確立した。 神沢杜口の随筆『翁草』が、「そもそも洛の俳諧を中興せしも淡々、邪にせしも淡々なり」と評するように、連句において付合を無視して一句のたくみをもっぱらにする「一句立」を導入、世に迎えられた。同11年の『春秋関』を始めとする高点付句集は、前句はすべて省略され、付句のみを収めたものである。天明期に三宅嘯山の一派が批判するまで、淡々らの高点付句集は大衆の支持を得ることになる。同18年,江戸に下って、五色墨連中と交流し『紀行俳談二十歌仙』を編み、翌年、故郷大坂に門戸を張り、その門流は代々八千坊(房)を名乗り、「浪花ぶり」と称された。享保の上方俳壇に君臨した淡々は、経営の才があり、生活も豪奢を極め、性格ははなはだ俗臭を帯びていたといわれる。その俳風は、晦渋で、高踏を装って人を弄するところがあり、詩としての価値は認められない。代表句は「口癖のよし野も春の行衛哉」など。

松木淡々は俳諧を中興させた人であり、同時に世俗化させた人でもあります。元々俳諧は連歌の発句を独立させたものなのですが、中世に興隆した連歌は非常に厳しい規則を持つ、厳格に洗練された知的な文芸でした。その流れを汲む俳諧も、一巻の連句において同季・同字、または同種・類似の語が頻出しないように設けられた去嫌などの、厳しい格式を持ちましたが、淡々はそういった規則を取り払ってしまい、これにより誰でも簡単に俳諧を詠めるようになり、世間に広く流行するようになりました。しかし、これにより俳諧という文芸が世俗化してしまい、文学としての格調高さが失われたという評価も受けました。恐らく、淡々が俳人として芭蕉のように高く評価されることはないでしょうが、彼は蕪村やさらには一茶のように世俗なものをも取り込んで、独自の文学を作り上げた俳人を生み出す土台を作った一人であるとは言えるかもしれません。上記の句は「『浪華百事談』に、「此句は何にても我が辞世なりと云おかれしが、果して霜月二日に寂せられき〟」として載せられており、死ぬ間際に詠んだ句ではありませんが、彼の会心のできだったらしく、当人が辞世の句だといっているので取り上げました。

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今日の辞世の句 

七十や あやめの中の 枯尾花

児島大梅の辞世の句。児島大梅(こじま-だいばい 1772-1841)は、江戸時代後期の詩人、俳人。安永元年生まれ。市河寛斎らに師事,梅外と号して大窪詩仏らとならび称される詩人となる。のち鈴木道彦に俳諧をまなび、名をあげた。天保12年5月29日死去。70歳。七回忌に門人の小森卓朗が「大梅居家集」を刊行。江戸出身。名は筠。字は克従。通称は小島屋酉之助。別号に大梅居など。

児島大梅は、初め市河寛斎という漢詩人に師事し、漢詩で名を上げました。その後、化政期江戸俳壇において最大の勢力を誇った、鈴木道彦の門に入り俳人となりました。浅草寺の修善院に葬られました。大梅が活躍したのは江戸の末期で、彼の死後28年後に明治維新が起こる時代の人でした。明治に入ると俳諧は、近代俳句へと大きく変貌していくことになりました。辞世の句は若い弟子たちに囲まれて死に逝く、自分を詠んだのでしょう。

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