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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

わが秋や 月一夜も 見のこさず

入江長八の辞世の句。入江 長八(いりえ ちょうはち、文化12年8月5日(1815年9月7日) - 明治22年(1889年)10月8日)は江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した名工(左官職人)、工芸家。なまこ壁、鏝絵といった漆喰細工を得意とした。文化12年(1815年)伊豆国松崎村明地(現在の静岡県賀茂郡松崎町)に貧しい農家の長男として生まれた。6歳で菩提寺の浄感寺塾に学ぶ。11歳のとき同村の左官棟梁、関仁助のもとに弟子入りする。その当時から手先の器用さで知られた。天保4年(1833年)20歳のとき江戸へ出て御用絵師である谷文晁の高弟、狩野派の喜多武清から絵を学ぶ一方、彫刻も学んだ。絵画や彫刻技法を漆喰細工に応用し、従来は建物の外観を装飾する目的で漆喰壁に鏝(こて)で模様を描いていたものを、絵具で彩色して室内観賞用の芸術品に昇華させた。26歳で江戸日本橋茅場町にあった薬師堂の御拝柱の左右に『昇り竜』と『下り竜』を造り上げて、名工「伊豆の長八」として名をはせた。弘化2年(1845年)31歳の時に弟子2人を連れて生まれ故郷の浄感寺の再建に係わり、鏝絵を作成している。天井に描いた『八方にらみの竜』は傑作とされる。(2007年現在、浄感寺の本堂は長八記念館となっている。)入江は江戸に戻り、東京都台東区の浅草寺観音堂、目黒区の祐天寺などを含む多くの場所で傑作を作り上げたと言われている。明治10年(1877年)に第1回内国勧業博覧会に出品。 晩年、明治13年(1880年)にも65歳で故郷を訪れ、岩科町役場や岩科学校などで制作作業を行っている。明治22年(1889年)10月8日、深川八名川町(現江東区深川)の自宅にて74歳で亡くなる。墓は故郷の浄感寺と浅草正定寺の二箇所に設けられている。山光荘をモデルにした、漫画家つげ義春の作品「長八の宿」によって、知名度があがった。

入江長八は貧農に生まれ左官職人から名工にまでなった人で、その作品は鑑賞に拡大鏡が必要であるほど緻密な細工をこらした作品が多くあります。残念なことに、長八の生活拠点が江戸であったため作品は東京地区に集中しており、大半が震災や戦災で焼失してしまっています。現存する約45点は、東京都港区高輪の泉岳寺、品川区東品川の寄木神社、足立区の橋戸稲荷、千葉県の成田山新勝寺などに残っています。まら、故郷の静岡県松崎町には、前述の浄感寺の「長八記念館」に約20点と、1986年に開館した「伊豆の長八美術館」に約50点が展示されており、重要文化財の岩科学校や、春城院、三島市の龍沢寺など故郷周辺に点在しています。

長八美術館蔵 ランプ掛の龍
http://green.ap.teacup.com/aoba2/img/1207032240.jpg
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

われもまた正しきを得てたふれなば 是のみなりと思ふばかりぞ

私もまた正しいを得て倒れたならば これのみですと思うばかりだ

井上通女の辞世の句。井上通女(いのうえ・つうじょ 生年:万治3.6.11(1660.7.18)~没年: 元文3.6.23(1738.8.8))は、江戸前期の歌人。名は振、玉、感通。讃岐国(香川県)丸亀生まれ。父は儒学者井上本固、母は渡辺孫左衛門の娘栄のちに栄林尼。幼少から女訓書、和歌、物語、漢学を学び、16歳で詩文「処女賦」を作る。天和1(1681)年、22歳で丸亀藩主京極高豊の母養性院に召され、江戸に下る。このとき『東海紀行』が成る。江戸では雨森芳洲、林鳳岡ら著名な学者文人と交わり、その才媛ぶりを聞いて彼女を招請しようとする諸侯も少なくなかった。なお江戸滞在中の日記に『江戸日記』がある。元禄2(1689)年、30歳のときに養性院が没し、丸亀に帰る。このとき『帰家日記』が成る。同年、同藩士三田茂左衛門宗寿と結婚する。以後弟益本の切腹で井上家断絶などの事件に遭うが、堅実な主婦生活を続ける。宝永7(1710)年、51歳のとき、夫に先立たれ隠遁、文芸に親しむ晩年を送った。

井上通女は生まれてくる時代が違えば、清少納言や紫式部と並び称されてたような人物です。幼少のころから才女として知られ、16歳で詩文「処女賦」を作り評判となりました。平安の才女が中宮の女房になったように、諸侯は彼女を招聘しようとし、彼女は江戸へ上がりました。彼女は江戸滞在中に『江戸日記』を書きましたが、やはり『紫式部日記』や『更級日記』のようなものが頭にあったのでしょう。彼女の著作には確かに、『女大学』に通じるような部分がありましたが、この時代の女性が書いたものとしては当然のことだと言えるでしょう。それよりは、彼女が堅実な生活を守り、趣味人として生きたことの方に目を向けるべきだと思います。

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今日の辞世の句 

地獄なし極楽もなし我もなし ただ有るものは人と万物

山片蟠桃の辞世の句。山片 蟠桃(やまがた ばんとう、延享5年/寛延元年(1748年) - 文政4年2月28日(1821年3月31日))は、江戸時代中期の商人であり学者。名前は、升屋の番頭をしていたことからもじったもので、本名は長谷川芳秀、通称升屋小右衛門。播磨国印南郡神爪村(現兵庫県高砂市)の農家に生まれる。生家は豊かな在郷商人でもあった。13歳のとき大阪の伯父の養子となる。幼時から大阪の両替商である升屋に仕え、若くして番頭となり手腕を振るい、傾いていた経営を軌道に乗せた。大阪学問所の懐徳堂に入門し、儒学者の中井竹山と弟の中井履軒に学んだ。1771年(明和8年)、24歳の時、番頭となり、商才を発揮して桝屋を繁盛させた。。財政破綻した仙台藩に建議し、差し米(米俵内の米の品質チェックのために米を部分的に抜き取ること)をそのまま集めて利用し、無駄を浮かせて節約し、藩札を発行するなどした。藩札を発行した代わりに、従来の金貨の金を差し米の節約で捻出した資金で大阪に輸送し、それを利殖に回して巨額の利益を上げた。仙台藩の財政はこれによって再建され、彼は大名貸しの金を回収することができたと言う。その功績を讃え、升屋では彼に山片姓を与え、親類並みに遇した。その一方で学問に励み、晩年には失明という障害を乗り越え、五十半ばから著作にとりかかった主著『夢の代』を死の前年に完成させた。

山片蟠桃と富永仲基は江戸時代の日本の学者では、極めて珍しい唯物論者です。彼らは町人であり学者であり、何よりも大阪人でした。この最後の特質については、今一度注目しておきましょう。大阪とは商人のまちであり、江戸(東京)に対抗しうる都市であり、日本でアナキズムが成立する唯一の場所です。彼らはそういった反権威的で合理的な空気を吸って生きていた、稀有な思想的アナキストでした。蟠桃は懐徳堂で勉学に励む一方で、豪商升屋の別家をつぎ、本家の番頭となると、傾いていた本家を再興し、仙台藩の財政再建に手腕を発揮しました。彼の日本人らしからぬ非常に現実的な思想は、このような実践の場で試され培われていきました。学問では天文学を麻田剛立に学び、地動説を確信し、神代史や霊魂を否定するなど実学的合理思想をとなえました。失明にもめげず「夢之代」12巻をあらわしました。この本は天文、地理、神代、歴代、制度、経済、経論、雑書、異端、無鬼(上・下)、雑論の12巻よりなる、実学的合理主義の啓蒙書です。西洋文明の実証性を高く評価し、地球世界の地理を論じ、ついで日本の歴史・制度の変遷を説いています。蟠桃は上記の歌の他に、「神佛化物もなし世の中に 奇妙ふしぎのことは猶なし」という、とても唯物論的な歌も辞世として残しています。

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今日の辞世の句 

落とすなら地獄の釜を突ん抜いて 阿呆羅刹に損をさすべい

水野成之の辞世の句。水野 成之(みずの なりゆき)は、江戸時代前期の旗本。通称の十郎左衛門(じゅうろうざえもん)で知られ、旗本奴の代表的人物の一人に挙げられる。寛永7年(1630年)、旗本・水野成貞の長男として生まれる。父の成貞は備後福山藩主・水野勝成の三男で、成之は勝成の孫にあたる。慶安3年(1650年)、3,000石で小普請組に列した。旗本きっての家柄でありしかるべき役に就けるが、お役入りを辞退して自ら小普請入りを願った。慶安4年(1651年)には第4代将軍・徳川家綱に拝謁した。江戸市中で旗本奴である大小神祇組を組織、家臣4人を四天王に見立て、綱・金時・定光・季武と名乗らせ、用人頭(家老)を保昌独武者と名づけ、江戸市中を異装で闊歩し、悪行・粗暴の限りを尽くした。旗本のなかでも特に暴れ者を仲間にし、中には加賀爪直澄や坂部三十郎などの大物も混じっていた。旗本という江戸幕府施政者側の子息といった大身による行状から誰も彼らには手出しできず、行状はますますエスカレートしていき余りの無法ぶりに、同じく男伊達を競いあっていた町奴は十郎左衛門(成之)率いる旗本奴と激しく対立した。明暦3年(1657年)7月18日、十郎左衛門は町奴の大物幡随院長兵衛を殺害した。十郎左衛門はこの件に関してお咎めなしであったが、行跡怠慢で寛文4年(1664年)3月26日に母の実家・蜂須賀家にお預けとなった。翌27日に評定所へ召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬なので即日に切腹となった。享年35。2歳の嫡子・百助も誅されて家名断絶となった。なお、反骨心の強さから切腹の際ですら正式な作法に従わず、膝に刀を突き刺して切れ味を確かめてから腹を切って果てたという。家名は母とともに蜂須賀家に預けられた弟の水野忠丘が、元禄元年(1688年)に赦され、元禄14年(1701年)に旗本となったことで存続した。

水野成之は江戸時代を代表するアウトローです。普通アウトローになるような人物は社会から疎外されているような身分の人なのですが、成之は旗本の中でも良家の生まれでした。父の水野成貞は徳川家光の小姓となり、最終的に3000石を領し、小姓から寄合となったほどの人でしたが、も全ては息子の成之がぶち壊しにしてしまいました。上記の通り成之は家名が良いことを笠に着て、悪行・粗暴の限りを尽くしました。成之は旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領であった幡随院長兵衛を、若い者の揉め事の手打ちを口実にして呼び出し殺害しました。この事件は、『極付幡随長兵衛』など歌舞伎や講談の題材となり、後には坂本九主演の映画『九ちゃん刀を抜いて』、同じく阪東妻三郎・市川右太衛門主演の『大江戸五人男』などの題材となりました。上記の辞世の歌は、典型的な六方詞で詠まれており、地獄の鬼に損をさせてやろうという、非常に彼らしい反骨の精神を表しています。

水野十郎左衛門(初代 市川左團次、『極付幡随長兵衛』部分、豊原国周、1884年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC%E5%A5%B4#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Mizuno_Jurozaemon-Ichikawa_Sadanji_I-Kunichika_Toyohara.jpeg

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今日の辞世の句 

わんざくれ踏んぞるべいか今日ばかり 翌日は烏が掻ッ咬じるべい

どうにでもなれ今日ばっかりは行儀良くしておいてやる 明日は烏が引っかくんだからな

山中源左衛門の辞世の句。山中源左衛門(やまなか げんざえもん、生年不詳 - 1645年12月25日)は、江戸時代前期(17世紀)に実在した日本の武士、旗本である。本名重之。生年月日・生地ともに不詳であるが、『寛政重修諸家譜』(1812年)にも『徳川実紀』(1849年)にもその名が記述されている、実在の人物である。『寛政重修諸家譜』によれば、1622年(元和8年)に初めて、第2代征夷大将軍の徳川秀忠に拝謁し、200俵を賜る大御番旗本となったという。その後、小普請奉行に任命される。嫌がらせが好きな性分で、人の嫌がることをしては悦に入ったという。大田南畝によれば、500石の大御番旗本から、旗本奴に転じた人物である。前歯が欠けており、銀製の義歯をしていたとされる。1645年12月(正保2年11月)、病気と称して任務を果たさず、江戸市中で無頼の行為を行っていることが発覚した。杉浦内蔵允正友(杉浦正友)に預けられたが、切腹を申し付けられ、同年同月25日(同年同月8日)、麹町の真法寺で切腹によって死去した。辞世の句は「わんざくれ 踏んぞるべいか 今日ばかり 翌日は烏が 掻ッ咬じるべい」というもので、べらんめえ調の「六方詞」で詠まれた。のちに塚原渋柿園が描いた『山中源左衛門』では、享年21(満20歳)とされているが、『寛政重修諸家譜』の記述からすれば、それよりも年長であるとみられる。

このような記事を書いているといつも思うことですが、人は死ぬ間際にはとても立派なことを言うものです。上記のようなべらんめい調で暴言を吐いて死ぬ人は、滅多にいません。山中源左衛門は、堅苦しい規則で縛られていた江戸時代の武士には珍しい無頼漢でした。源左衛門は生まれも育ちもよく分からない人物で、まず大御番旗本となり、その後小普請奉行となりました。大御番とは常備兵力として旗本を編制した部隊で、将軍の親衛隊のような性格を持っている組織でした。小普請奉行は江戸城をはじめとして、徳川家の菩提寺である寛永寺、増上寺などの建築・修繕などを掌った役職で、家禄が三千石以下の旗本、御家人が無職の場合に就くそうです。なので源左衛門は結構な家の生まれであったはずなのですが、最終的に旗本奴となりました。旗本奴とは、旗本の青年武士やその奉公人、およびその集団のことですが、かぶき者であり派手な異装をして徒党を組んで無頼をはたらきました。旗本奴の異装・異風はファッション面だけでなく、旗本奴が好んで使用した粗野な言葉・言葉遣いである独特の「六方詞」を生み、そのことばで詠む「六方俳諧」という文化を生みだしました。上記の辞世の歌は、正にその「六方詞」で詠まれています。歌に使われている「わんざくれ」とは六方詞で、退屈しのぎの戯れのことですが、やけになること、自暴自棄も意味します。「かっかじる」とは、これまた六方詞で引っかくという意味です。源左衛門は全く尊敬できる所のない人物でしたが、最期は自業自得というか、仮病を使って職務を怠けて無頼をはたらいていたのがバレて、切腹させられるというもの凄い死に方でした。

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