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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

蜩(ひぐらし)や 地獄をめぐる 油皿

山田浅右衛門吉寛(4代)の辞世の句。山田浅右衛門吉寛(やまだ あさえもん よしひろ 1736年 - 1786年)は、江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の四代目当主。俳号を鉄丸舎寛子。晩年は病弱で御用差し支え、弟子の須藤五太夫睦済(伊予今治藩士)が幕府の許可を得て「手代」(代役)を務めた。享年四十九歳。清徳院鉄巌宗心居士。

山田浅右衛門吉寛は晩年は体が弱っていたのに、刀剣の試し斬り役を務めていた人です。試し斬りの技術は「据物」(すえもの)と呼ばれ、据物斬りは将軍の佩刀などのために、腰物奉行らの立会いの元、特に厳粛な儀式として執り行われました。本来、こうした御用は、斬首と同様に町奉行所同心の役目とされていましたが、実際には江戸時代中期以後、斬首・据物斬りを特定の者が行う慣例が成立し、徳川吉宗の時代以後、山田浅右衛門家の役目とされました。なお、山田朝右衛門が斬首を行う際には、大名・旗本などから試し斬りの依頼を受け、その刀を用いて斬首することがありました。その方法は、地面に竹の杭を数本打ち立て、その間に死体をはさんで動かないようにして斬るというものでした。この時、僧侶、婦女、賎民、廃疾者などの死体は用いなかったそうです。上記の辞世の句は、非常におどろおどろしいものを感じさせる不気味な歌です。晩年体調が悪かったからか、それとも罪人のとはいえ人体を切断することを生業としてきたことへの悔悟の念からか、この辞世の句にはえも言われぬ恐ろしさがあります。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

一振りの 枕刀や 時雨鳥

山田浅右衛門吉継(三代目)の辞世の句。山田 浅右衛門(やまだ あさえもん)は、江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名称。ただし、歴代当主には「朝右衛門」を名乗った人物もいる。死刑執行人も兼ね、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。御様御用の役目自体は、腰物奉行の支配下にあったれっきとした幕府の役目であったが、山田浅右衛門家は旗本や御家人ではない、浪人の立場であった。浅右衛門家は浪人の身であり、幕府からの決まった知行を受け取ることはなかった。しかし様々な収入源があり、たいへん裕福であった。1843年(天保14年)の将軍の日光参詣の際には幕府に300両を献金している。一説には3万石から4万石の大名に匹敵するほどであったという。公儀御様御用の際には、幕府から金銀を拝領していた。また幕府だけでなく、大名家などで処刑を行う際にも役目を代行して収入を得ていた。これはさほどの収入ではなかった。最大の収入源は「死体」であった。処刑された罪人の死体は、山田浅右衛門家が拝領することを許された。これら死体は、主に刀の試し斬りとして用いられた。当時の日本では、刀の切れ味を試すには人間で試すのが一番であるという常識があった。戦国時代はともかく平和な江戸時代においては、江戸市中においての試し斬りの手段としては、浅右衛門に依頼するのが唯一の手段であった。罪人の数が、試し斬りの依頼のあった刀の本数にはとうてい追いつかないため、斬った死体を何度も縫い直して、1人の死体で何振りもの刀の試し斬りを行った。浅右衛門自身による試し斬りに限らず、自ら試し斬りを行う武士に対して、死体を売却することもあった。試し斬りの経験を生かし、刀剣の鑑定も行っている。5代吉睦の「懐宝剣尺」を代表とする、刀剣の位列も作成している。諸家から鑑定を依頼され、手数料を受け取っていたが、後には礼金へと性質が変化し、諸侯・旗本・庶民の富豪愛刀家から大きな収入を得た。出入りする酒井雅楽頭家や立花家といった大名家から、毎年歳暮として米や鰹節を拝領していた。また、こうした人脈を利用して刀剣購入の世話をすることもあった。さらに副収入として、山田浅右衛門家は人間の肝臓や脳や胆嚢や胆汁等を原料とし、労咳に効くといわれる丸薬を製造していた。これらは山田丸・浅右衛門丸・人胆丸・仁胆・浅山丸の名で販売され、山田浅右衛門家は莫大な収入を得ていた。また、遊女の約束用として死体の小指を売却することもあったという。山田浅右衛門は、その金を死んでいった者達の供養に惜しみなく使った。東京都池袋の祥雲寺には、6代山田朝右衛門吉昌が建立した髻塚(毛塚)と呼ばれる慰霊塔が残っている。また、罪人の今際の際の辞世を理解するために、3代以降は俳諧を学び、俳号を所持している。

山田浅右衛門は、刀剣の試し斬り役を代々していた一族です。江戸時代以前には人体が試し斬りの対象として用いられており、その試し斬りの技術は「据物」(すえもの)と呼ばれ、俗には確かに忌み嫌われていた面もありますが、武士として名誉のあることでもありました。試し斬りの際には、一度に胴体をいくつ斬り落とせるかが争われたりもしており、例えば3体の死体なら「三ツ胴」と称しました。記録としては「七ツ胴」程度までは史実として残っています。浅右衛門の家では、首を斬る者が何人いると聞くと、その人数だけ蝋燭を上げて出役し、一つ首を落とすとその蝋燭の火が一つ消え、全ての蝋燭が消えると御役目が済んだと言った、などと言われたこともあります。1938年(昭和13年)には浅右衛門の研究者達が、7代山田朝右衛門吉利の孫娘の援助を受け、祥雲寺に「浅右衛門之碑」を建立しました。碑の裏面には3代以降の戒名と没年月日、辞世が刻まれています。

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今日の辞世の句 

つゆをだにいとふ大和の女郎花 ふるあめりかに袖はぬらさじ

岩亀楼亀遊の辞世の句。岩亀楼亀遊(がんきろう きゆう 生年: 弘化3? (1846)~没年: 万延1? (1860))は、幕末の遊女。江戸深川の町医大田正庵の娘など諸説ある。『温古見聞彙纂』によれば8歳で吉原に売られ、15歳で遊女として出たが,のち品川岩槻屋をへて横浜港崎遊郭の岩亀楼へ移る。ここでアメリカ商人イルウスに見染められるが異国人に抱かれることを嫌い「つゆをだにいとふ大和の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ」の辞世を残して自害して果てたという。尊皇攘夷派の学者大橋訥庵(一説に弟子椋木京太郎)の創作という説もあり、実在人物かどうか疑わしいが、当時の人々がその話を美談として受け入れたのは事実である。

亀遊は実在したのか疑わしい人物ですが、彼女が自害する物語は、対外排斥主義的なナショナリズムと結びついて世間に受け入れられました。当時の日本には羅紗緬と呼ばれる、外国人を相手に取っていた遊女、あるいは外国人の妾となった女性が数多くいました。文久2年(1862年)神奈川奉行所の調べでは、羅紗緬鑑札の所持者は500人おり、文久2年から慶応2年頃までには異人館通いの羅紗緬が2400〜2500人にも増えたそうです。亀遊がいたとされる岩亀楼という遊郭は、幕末期に横浜開港に伴い、開港場を横浜村とすることに反対する外国人を引き付けるため、また、オランダ公使から遊女町開設の要請により、外国奉行は開港場に近い関内の太田屋新田(現在の横浜公園)に建設されました。岩亀楼内は日本人用と外国人用に分かれており、外国人は羅紗緬しか選ぶことができませんでした。亀遊の物語は、1970年に婦人公論で発表された有吉佐和子による短篇「亀遊の死」と、吉が自身で戯曲化した『ふるあめりかに袖はぬらさじ』により有名となりました。この戯曲は2007年に坂東玉三郎 (5代目)の手によって歌舞伎として上演されています。

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我死なば焼くな埋むな野に捨てて 飢えたる犬の腹をこやせよ

地獄太夫の辞世の句。地獄太夫(じごくたゆう、生没年不詳)は、室町時代の遊女。梅津嘉門景春のむすめで幼名を乙星という。如意山中で賊にとらわれたが、あまりの美貌のため遊女に売られ、泉州堺高須町珠名長者にかかえられた。現世の不幸は前世の戒行がつたないゆえであるとして、みずから地獄とよび、ころもには地獄変相の図を繍り、こころには仏名をとなえつつ、口には風流のうたをうたったという。一休宗純が堺におもむいたとき、「聞きしより見て美しき地獄かな」と歎賞すると、武家の生まれで歌のやり取りにも秀でていた太夫は「生き来る人の落ちざらめやも」と見事に返し、これを機に2人は師弟関係を結んだという。有名な狂歌「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」は、一休が太夫に贈ったものとする説もある。地獄太夫は「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 飢えたる犬の腹をこやせよ」という辞世の句を残して若くして亡くなったが、最期を看取った一休は、泉州八木郷の久米田寺に塚を建てて供養したといわれる。山東京伝の「本朝酔菩提」に描かれており、江戸時代から明治時代にかけては数々の絵師により絵画の題材にもなっている。

地獄太夫は山賊に襲われて遊女として売られるという、大変な不幸に見舞われた女性でした。上記の通り彼女は一休宗純と師弟関係にありました。一休は男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行ったことで有名な風変わりな僧侶でしたが、地獄太夫が「出家して仏に仕えることができれば救いもあるものを」と嘆くと、一休は「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」と言って慰めたそうです。彼女は信心厚く、自らを地獄と呼んで地獄変相図を描いた衣をまとい、自らに施すところなく悟りの境地で仕事に励んだそうです。

月岡芳年『新形三十六怪撰』より「地獄太夫悟道の図」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%8D%84%E5%A4%AA%E5%A4%AB#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Yoshitoshi_The_Enlightenment.jpg

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寒風に もろくも落つる 紅葉かな

高尾(妙心高尾)の辞世の句。高尾(妙心高尾)(たかお(みょうしんたかお)?-?)は、江戸時代前期の遊女。初代,または2代とされる。隠退後尼となって妙心と称し,江戸日本堤の西方寺にすむ。「寒風にもろくも落つる紅葉かな」の辞世の句をのこして万治(まんじ)3年1月25日没したともいわれる。

高尾太夫(たかおだゆう)は、吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名で、吉原でその名にふさわしい女性が現れると代々襲名された名前です。吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれ、三浦屋に伝わる大名跡でした。何代目まで続いたかは、諸説があって判然としていませんが、6代説・7代説・9代説・11代説の4説があります。上記の辞世の句は、『燕石十種』という江戸時代の風俗、人情、奇事異聞に関する記事を集めた随筆集に書かれています。太夫とは美貌と教養を兼ね備えた、最高位の遊女に与えられる最高位の位階で、主に公家、大名、旗本ら上流階級を相手にしていました。『洞房語園』によると、妙心高尾は上客の落魄に心を痛め、自前でその男を接待し妊娠・出産して、生みの児を乳母に抱かせて廓内を道中したので、子持高尾と呼ばれたそうです。このようなことが許されたということは、彼女の地位がそれだけ高かったということであり、当時の遊女にとっては異例中の異例のことでした。

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