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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

よきことをきはめつくしてよきにいま 帰るうれしきけふのくれかな

国姫の辞世の句。国姫(くにひめ、1636年 - 寛文11年(1671年))は、江戸時代前期の越前松平家の女性。松平光通の正室で、松平光長の娘。母は土佐(毛利秀就の娘)。高田藩の越前松平家から、同じく越前松平家の福井藩主松平光通のもとへ嫁いだ。京都の公家からも賞賛されるほどの和歌の達人で、光通との仲は良かった。ところが光通との間には女児2人しか生まれず、男児が出来なかった。しかし、光通は別の女性との間に権蔵(後の松平直堅)という男児を儲けていた。光通は国姫を憚って権蔵を認めようとしなかった。ところが、このことを耳にした国姫の祖母の高田殿は激怒した。高田殿は光通に対して、福井藩の跡継ぎは国姫との間に生まれた男児にするように強要し、ついには起請文を取るまでに至った。このことから光通との仲は一気に悪化し、国姫は男児を生めないことを苦にして自殺した。法名は清池院殿法譽性龍大禅定尼。後に光通も自殺し、このことが福井藩の跡目争いや減封の原因となった。

国姫は江戸時代を代表する才女でありながら、悲劇的な最期を遂げた人です。男児が生まれなかった為に、政権争いに敗れてしまった一条帝の中宮定子のように、昔の女性にとって後継者を生むことは死活問題でした。国姫の悲劇は祖母の高田様こと天崇院が、嫡子問題に介入したことが直接の原因でした。天崇院は徳川秀忠の三女で、大変気の強い女性であった上に、心を病んだ夫・忠直に切り殺されそうになったこともあるという、不幸な人でもありました。天崇院は跡継ぎ問題に対し、「妾腹の男児に家督を継がせるなどとんでもない」と猛反対し、光通に対して福井藩の跡継ぎを国姫との間に生まれるはずの男児にするように強要しました。遂には起請文まで取るに至ったため、仲の良かった光通と国姫の関係は急速に悪化し、35歳にもなった国姫は寛文11年(1671年)に、もはや男児を産めないことを苦にし、祖母や父の期待に添えないことを侘びて自殺してしまいました。光通は親族からの圧力、妻の死や息子の出奔など、家庭的・政治的に苦難が続き、遂に精神的に耐えられなくなり延宝2年(1674年)3月24日、庶弟の松平昌親に家督を譲るようにとの遺書を残して自殺しました。この事件は、後の福井藩に減封・改易などにも影響をもたらしました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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