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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

怠らぬ 日ごろ見えけり 大矢数

山田朝右衛門吉昌(6代目)の辞世の句。山田朝右衛門吉昌(やまだ あさえもん よしまさ 1787年 - 1852年)は、江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主。俳名は亀峰館屋松。五代目は最初、奥州盛岡藩士小松原甚兵衛の子清五郎を養子に迎えたが、のちに離縁。山田氏記録「覚帳」によれば、寛政四年(1792)八月十九日、千住で加賀藩主前田家から依頼された刀・脇差の試し斬りを行った際に、清五郎は「立なからくわへきせるにて見候」(煙管をくわえながら試し斬りの様子を見ていた)という大変な不行儀を働いたとある。離縁の原因であろう。代わって清五郎の弟の権之助が養子に入ったが、文化九年(1812)に病没。次いで門人の中から但馬豊岡藩士青木彦右衛門の次男(吉寧)を養子にし、名を源五郎と改めさせたが、これも文政三年(1820)に病死。あとに幸という女子(五代目にとっては孫娘)が残された。四人目に養子となった源六吉貞は、素性経歴は定かではないが、山田家の後継者として立派に家業を務めた。しかし離縁になったため(理由は不明)、六代目に数えていない。そして”五人目の正直”となったのが、五代目と同じく三輪源八の子(養子)の源八郎吉昌である。吉昌の実父は下級幕臣で紅葉山御霊屋掃除役を務めていた遠藤次郎兵衛という者。六代目も山田家の門人で試し斬りの修行を積んでいた。後を継ぐと朝右衛門と称し、嘉永元年(1848)七月十八日、六十二歳の誕生日に剃髪して松翁と改めた。新宿区須賀町の勝興寺には、このとき松翁が寄進した一対の大きな水桶が現存する。川路聖謨と親交があったのは、この朝右衛門(松翁)である。享年六十六歳。万昌院輪山松翁居士。

山田浅右衛門家は、その金を死んでいった者達の供養に惜しみなく使いました。東京都池袋の祥雲寺には、6代山田朝右衛門吉昌が建立した髻塚(毛塚)と呼ばれる慰霊塔が残っています。山田浅右衛門家は人間の肝臓や脳や胆嚢や胆汁等を原料とし、労咳に効くといわれる丸薬を製造していました。これらは山田丸・浅右衛門丸・人胆丸・仁胆・浅山丸の名で販売され、山田浅右衛門家は莫大な収入を得ていたそうです。吉昌と親交のあった川路聖謨なども、この薬を親類に与えて「とても効き目があった」と 述べています。「浅右衛門 肝をつぶして 銭をとり」や「泥坊の 肝玉で喰う 浅右衛門」という川柳も残っているように、山田浅右衛門家は民主からもあまり良く思われていなかったようです。また、遊女の約束用として死体の小指を売却することもありました。このように山田浅右衛門家が非常に裕福であったことは、吉昌が小竜景光(備前長船景光)を買ったという逸話からも伺えます。この刀は鎌倉期のもので、楠木正成が佩刀していたとされる大変貴重なものでした。ちなみに、この刀は後に山田家から宮内省に献上され、刀好きの明治天皇が大変気に入って腰に差していたそうです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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