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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

伊勢神宮参詣で有礼に不敬の挙動があり、式典に参列することをゆるさない

西野文太郎の遺書の一節。西野 文太郎(にしの ぶんたろう、慶応元年9月9日(1865年10月28日) - 1889年(明治22年)2月11日)は、日本の国粋主義者。森有礼の暗殺犯である。長州藩士、西野義一の長男として山口に生まれる。山口黒城塾、山口中学校(現・山口県立山口高等学校)を卒業した後、三浦梧楼を頼って上京するが職が見つからず、一旦帰郷して山口県庁に就職した。1886年(明治19年)、県庁を退職して再び上京し、山口黒城塾時代からの友人・玉井喜作が開いた私塾「東京速成学館」で総務と漢文教師を務める。しかし、東京速成学館はドイツ語を主に教える学校であり、その学生は西洋志向が強い者が多かったため、国粋主義思想が強い西野は生徒からの評判が悪く、まもなく西野は退職して内務省に務めることとなった。なお、玉井もドイツ志向が強い人物であり、西野と思想は異にしていたが、特にそれで衝突するようなことはなく二人は親友であった。1887年(明治20年)、文部大臣森有礼が伊勢神宮において不敬な態度をとった(伊勢神宮不敬事件)という報道が行なわれる。この事件については、事実ではないという説も強く真偽は不明であるが、西野はこれを信じ、森を許せないと考えるようになった。こうして西野は、1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典の出席準備をしていた森を訪ね、出刃包丁でその腹部を刺すという犯行に及ぶ。森は出血多量で翌日死亡したが、西野もまたその場で森の護衛に台所まで追い詰められ、仕込み杖により斬られて死亡した。23歳であった。暗殺の当日に所持していた斬奸状には、「天皇を頂く我が国の基礎を破壊し、我が国を亡滅に陥れようとした」などと記載されていた。

西野文太郎は森有礼の暗殺犯です。その理由というのが、当時の新聞が、「ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際、社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗き、土足厳禁の拝殿を靴のままで上った」と報じたのがきっかけでした(伊勢神宮不敬事件)。この「大臣」とは森のことではないのかと、急進的な欧化主義者であった森は人々から疑いの目が向けられたのですが、この事件事実かどうかは定かではありません。法学博士の木場貞長が後にこの事件は事実無根であると書き残しているように、根拠が非常に曖昧なのですが、これが事実だと思い込んだ西野文太郎は森有礼を刺殺してしまいました。右翼の人間の大きな問題点は、その行動が非常に独善的であるところにあると思われますが、この事件はその典型です。森有礼は日本に関心を寄せる外国人との、神道に関する議論において、「神道の中心思想は死者に対する敬虔な崇拝だ。日本の現絶対主義的政権を維持するために政府が巧みにこれを政治利用したことは実に正当だったと考えるが、日本の初期の歴史記録とされている書物は信頼に値するとは到底言えない。」という意見を述べており、この辺りも国粋主義者の癇に障ったのでしょう。何にせよ、こんな理由で問答無用で殺されたのではたまったものではありません。西野文太郎は森の護衛にその場で斬殺されましたが、これは自業自得です。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん

川島芳子の辞世の詩。川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日 - 1948年3月25日)とは清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女である。本名は愛新覺羅顯玗(あいしんかくら けんし玗は王へんに子)、字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もある。粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。1927年に旅順のヤマトホテルで、関東軍参謀長の斎藤恒の媒酌で蒙古族のカンジュルジャップと結婚式をあげた。 カンジュルジャップは、川島浪速の満蒙独立運動と連携して挙兵し、1916年に中華民国軍との戦いで戦死したバボージャブ将軍の次男にあたり、早稲田大学を中退後1925年「韓紹約」名で陸軍士官学校に入学していた。彼らの結婚生活は長くは続かず、3年ほどで離婚した。 その後、彼女は上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれているが(田中隆吉の回想による)、実際に諜報工作を行っていたのかなど、その実態は謎に包まれている。なお、彼女は戦後間もなく中華民国政府によって漢奸として逮捕され、銃殺刑となったが、日中双方での根強い人気を反映して現在でも生存説が流布されている。川島芳子こと愛新覺羅顯シは粛親王善耆の第十四王女として光緒33年4月12日(西暦1907年5月24日)、北京の粛親王府に生まれた。生母は粛親王の第四側妃。粛親王家は清朝太宗ホンタイジの第一子粛武親王豪格を祖とし、建国の功績により親王の位を世襲することが認められた親王家だった(一般の皇族の爵位は一代ごとに親王 →郡王 → 貝勒と降格してゆく)。字の「東珍」は、日本へ養女にだす際に、東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いをこめて粛親王がつけたもの。また漢名の金璧輝は兄金壁東からとったもので、当初は壁だったが、後に芳子本人が璧を用いるようになった。(金壁東の「壁」は「東方の防塁」となれという意味を込めて粛親王がつけたもの)。顯シの養父となる川島浪速は、信州松本藩士の子として生まれ、外国語学校支那語科で中国語を学び、1900年の義和団の乱で陸軍通訳官として従軍。日本軍の占領地域における警察機構の創設を評価され、日本軍の撤退後も清朝から雇用され、中国初の近代的警察官養成学校である北京警務学堂の総監督に就任した。 これが縁となり、川島は警察行政を管轄する工巡局管理大臣(後に民政部尚書)粛親王善耆と親交を結んでいた。当時粛親王は日本をモデルにした立憲君主制による近代化改革を目指しており、清朝を保全してロシアの南下を防ごうとする川島浪速の意見に共感した粛親王は、以後急速に川島との関係を深めていく。1911年に辛亥革命が勃発すると、清朝宮廷内部では主戦派と講和派に分かれて議論が繰り広げられたが、隆裕皇太后が講和派の主張に傾き1912年2月に皇帝退位を決断。退位に反対する粛親王善耆、恭親王溥偉ら皇族は北京を脱出して復辟運動を行った。粛親王は日本の参謀本部の保護を受けて旅順に逃れ、その後家族も川島浪速の手引きで旅順に移った。粛親王一家は旅順では関東都督府より旧ロシア軍官舎を提供され、幼い顕シも日本へ行くまでの数年間をそこで過ごした。やがて粛親王が復辟運動のために日本政府との交渉人として川島を指定すると、彼の身分を補完し両者の密接な関係を示す目的で、顯シは川島の養女とされ芳子という日本名が付けられた。1915年に来日した芳子は当初東京赤羽の川島家から豊島師範附属小学校に通い、卒業後は跡見女学校に進学した。やがて川島の転居にともない長野県松本市の浅間温泉に移住し、松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学した。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学したという。1922年に実父粛親王が死去し、葬儀参列のために長期休学したが、復学は認められず松本高女を中退した。17歳で自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになった。 断髪した直後に、女を捨てるという決意文書をしたため、それが新聞に掲載された。芳子の断髪・男装はマスコミに広く取り上げられ、本人のもとへ取材記者なども訪れるようになり、男装の麗人とまで呼ばれるようになった。芳子の端正な顔立ちや、清朝皇室出身という血筋といった属性は高い関心を呼び、芳子の真似をして断髪する女性が現れたり、ファンになった女子が押しかけてくるなど、マスコミが産んだ新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を巻き起こした。女を捨てた決意文書と断髪・男装から2年が経った1927年に、芳子は関東軍参謀総長だった斎藤恒の仲人で、旅順のヤマトホテルで蒙古族の巴布扎布(パプチャップ)将軍の二男カンジュルジャップと結婚するが、夫の親族となじめず家出し、3年ほどで離婚した。離婚後に上海に渡った芳子は、1930年に上海駐在武官の田中隆吉少佐と出会い交際するようになる。田中の回想によると、当時田中が上海で行っていた諜報活動に関わるようになったという。また、芳子は後に国民党行政院長だった孫科(孫文の長男)とダンスホールで接触し国民党内部の情報を入手し、この件で孫科は失脚したという。1931年9月に関東軍の石原莞爾が日本政府の承認を得ないまま張学良軍を独断で攻撃した満洲事変を引き起こし、11月には清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が、関東軍の要請を受けて天津から満洲へ脱出する。芳子はこの時、溥儀の皇后である婉容を天津から連れ出すことを関東軍から依頼され、婉容を天津から旅順へ護送する任務に携わった。1932年3月に、関東軍が溥儀を執政として満洲国を樹立させると、川島芳子は新京に置かれた宮廷での女官長に任命されるが、実際に就任することはなかった。同年に芳子をモデルにした村松梢風の小説である『男装の麗人』が発表され、芳子は「日本軍に協力する清朝王女」としてマスコミの注目を浴びるようになる。1933年2月になり、関東軍の熱河省進出のため熱河自警団(安国軍または定国軍と呼ばれた)が組織され、川島芳子が総司令に就任した。 このニュースは日本や満州国の新聞で大きくとりあげられ、芳子は「東洋のマタ・ハリ」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれた。断髪時のエピソードや小説の影響から既に知名度が高かった事もあり、芳子は一躍マスコミの寵児となった。1934年当時から、芳子は国内外の講演会などで関東軍の満洲国での振る舞いや、日本の対中国政策などを批判したため、軍部や警察に監視されるようになっていた。1937年7月末に天津が日本軍に占領されると、芳子は同地で料亭「東興楼」を経営し、女将になった。この時期に芳子は、国粋大衆党総裁で外務省・海軍と協力関係にあった笹川良一と交際していたと言われている。1945年8月の日本敗戦以降、各地に潜伏していた芳子は、10月になって北平で中国国民党軍に逮捕され、漢奸(中国語で「国賊」「売国奴」の意)として訴追され、1947年10月に死刑判決が下された。ちなみに川島浪速は粛親王の孫娘で芳子の姪にあたる愛新覚羅廉鋁(レンロ)を養女とし、川島廉子(1913年〜1994年)として入籍させた。 当時の国民党は、芳子の諜報活動の詳細が明らかになる事で、党内の醜聞が暴露され、急下降していた国民党への評価が決定的に傷付けられてしまう事を恐れ、また1947年時点での国共内戦の戦局は北平周囲の華北一帯が既に中共軍の攻撃にさらされるなど国民党側に不利となりつつあり、愛新覺羅家の一員である芳子を中共が利用する事を恐れ、死刑を急いだと伝えられている。日本では本多まつ江などが助命嘆願運動を展開したが間に合わず、1948年3月25日に北平第一監獄の刑場で芳子は銃殺刑に処された。川島芳子の遺骨は日本人僧侶の古川大航によって引き取られ、後に信州の浪速のもとへ届けられた。1949年に彼が死去すると、芳子の遺骨はともに松本市蟻ヶ崎の正麟寺にある川島家の墓に葬られた。

「男装の麗人」こと川島芳子(中国名は長いので省略)は、清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女として生まれ、関東軍が満洲国を樹立させると日本に協力した人です。実父粛親王善耆には5人の夫人との間に38人の子女がいたのですが、粛親王家の子女は清朝復辟に望みをかける善耆の意向により、日本語教育を受け、多くが日本留学しました。辛亥革命が起こった後、清朝の関係者にとっての主な敵は、日本よりはむしろ国民党であったのでこれは仕方のないことでした。王女が女を捨てて日本のスパイになるというストーリーは、あまりにドラマチックであったので世間の耳目を集め、芳子をモデルとした小説や舞台が数多く作られました。彼女に対するイメージは、そのような中で作られたフィクションである場合が非常に多いです。芳子の最期は売国奴として処刑されるという悲劇的なものでした。芳子は孤独感に満ちた短歌を書いたりもしていますが、祖国を失った者の悲しみとははかりがたいものがあります。上記の辞世の詩は、銃殺執行後の獄衣のポケットに残されていたもので、文面の「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず」という上の二句は芳子が生前好んで揮毫していた句であり、彼女の孤独な心情を表しています。1998年、川島芳子の没後50周年に芳子が少女時代を過ごした長野県松本市の日本司法博物館内に川島芳子の書や遺品などを展示した資料室「川島芳子記念室」が開設され、芳子の女学生時代の友人や関係者が芳子のゆかりの品などを寄贈しました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

あらあらし空にこみとり大楠の 大御心を誰ぞ知るらん

江藤小三郎の辞世の句。江藤 小三郎(えとう こさぶろう、1945年(昭和20年)? - 1969年(昭和44年)2月11日)は、日本の思想家、社会運動家、陸上自衛官。陸上自衛隊生徒(7期)修了。1969年(昭和44年)2月11日の建国記念の日に、国会議事堂前にてガソリンをかぶって焼身自決した行為が、翌年の三島由紀夫の自決の決意に少なからず影響を与え[1]、のちの新右翼・民族派運動にも影響を及ぼした。1945年(昭和20年)、明治維新の功臣・江藤新平の曾孫として神奈川県横浜市金沢区六浦に生まれる。父は江藤新平の孫で衆議院議員の江藤夏雄。祖父は江藤新平の二男の江藤新作。祖父は、衆議院議員・犬養毅の側近だった。1969年(昭和44年)2月11日の建国記念の日、国会議事堂前 (憲政記念館脇、井伊掃部頭邸跡の碑南) で遺書「覚醒書」を残して世を警め同胞の覚醒を促すとしてガソリンをかぶって焼身自決する。行年23歳。その行為は後の新右翼・民族派運動に多大な影響を及ぼし、翌年の三島由紀夫の自決の決意に繋がったと云われる。
覚醒書
混沌たる世界、暗雲立籠む皇国。自然科学におかされ地獄道に落ちし民族。
これを救う道、一事に極む。これ大自然に沿いし無私の心なり。無私の心、真我に通ず。真我集へば破るる事なし。国の大事、すべて無私より始まる。
ここに気付き行えばあとは康し。
一皇万民、天皇の許に真我が集う時、皇国毅然として興る。皇子皇民、一丸となり熱鉄玉を呑む勢いにて行えば世界万民を救う道をなすこと難くなし。我、神命により不生不滅の生を得む。ここに肉体を放棄し永遠の生命を得む。
我「建国の日」に魂魄となりて、民族の危機にあたるものなり。
昭和四十四年二月十一日

江藤小三郎は社会運動家でしたが、当時では珍しい右派の人物です。彼自身よりは、彼の死が新右翼や三島由紀夫に与えた影響の方がよく知られているかと思われます。新右翼とは反共主義・親米・権威主義・国家主義的な要素が強い既製右翼より、反戦後民主主義・反体制・民族主義的な要素を多く持っている右翼団体で、既成右翼の「反共」路線に飽き足らず、「維新」や「民族」に大きなこだわりを持ち、より理念的であろうとしました。江藤小三郎の焼身自殺は三島由紀夫を大感動させ、その自決について次のように述べています。「二月十一日の建国記念日に、一人の青年がテレビの前でもなく、観客の前でもなく、暗い工事場の陰で焼身自殺した。そこには、実に厳粛なファクトがあり、責任があつた。芸術がどうしても及ばないものは、この焼身自殺のやうな政治行為であつて、またここに至らない政治行為であるならば、芸術はどこまでも自分の自立性と権威を誇つてゐることができるのである。私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である。」(『若きサムラヒのために』)。上記の「覚醒書」を読みますと、なるほど彼が日本の未来に漠然とした不安を感じていたことが分かりますが、では建国記念日に焼身自殺することが何の役に立つかは分からないというのが正直な感想でしょうか。江藤小三郎は上記の辞世の歌の他に、「かくすれば かくなるものと知りつつも やむにやまれぬ 大和魂」という歌も辞世として残していますが、これは吉田松陰の歌です。死を前にして尊敬する人物の歌を、自身の心境を想い辞世として残したのでしょう。

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もろもろの 憐れも消ゆる 雪の風  

和田久太郎の辞世の句。和田 久太郎(わだ きゅうたろう、1893年2月6日 - 1928年2月20日)は、日本の無政府主義者、労働運動家、俳人である。温厚な人柄で「久さん」あるいは「久太」の愛称で親しまれた。福田大将狙撃事件で逮捕され、無期懲役。獄中で俳句等の著述をしたが、しばらく後に自殺した。俳号は酔蜂(すいほう)で、和田酔蜂とも称す。兵庫県明石市材木町に生まれた。父は生魚問屋に勤めていたが、貧乏子だくさんで経済的に貧窮。久太郎は角膜の病気で小学校もあまり行けず、11歳から大阪北浜の株屋に丁稚奉公に出た。その後、仕事のかたわら実業補習学校に通って、長じて質屋の番頭となり、人足に転じ、抗夫、車夫を経て、労働運動に身を投じるようになった。また15歳のころから俳句をたしなんだ。売文社に入社して、堺利彦や大杉栄らと親交を結んた。サンディカリスムを熱心に研究し、久板卯之助と共に、日蔭茶屋事件で人望を失った後の大杉栄の両腕と呼ばれるようになった。淀橋町柏木の大杉家の二階に寄宿し、和田と久板、村木源次郎は同宿同飯の仲であった。社会の底辺の人々を愛し、無政府主義伝道と称して全国を流浪して体を壊したために、1923年2月頃から5月まで栃木県那須温泉の旅館小松屋新館で湯治。そこで浅草十二階の娼婦堀口直江と恋に落ちて、性病に感染したが、東京に戻ってからも交際を続けた。1923年9月、関東大震災の直後に親友の大杉栄が殺害された甘粕事件では大きな衝撃を受け、右翼団体に葬儀の際に遺骨を盗まれる(大杉栄遺骨奪取事件)至って激憤。彼の仇を討つという名目で、前年まで戒厳司令官の地位にあった陸軍大将福田雅太郎の暗殺を、ギロチン社の古田大次郎や村木ら4名と計画。和田らは福田大将が甘粕事件の命令者と考えていた。初めは爆弾テロを計画して、爆弾を試作して下谷区谷中清水町の公衆便所や青山墓地で実験するも不発。ピストルでの襲撃に切り替えた。1924年9月1日、震災の一周年忌に、東京本郷三丁目のフランス料理店・燕楽軒で福田大将を待ち伏せした。しかし初弾は安全のために空砲が装填されていたことを和田は知らず、至近距離からの発砲であったが失敗。大将の同行者であった石浦謙二郞大佐にその場で取り押さえられ、ほとんど怪我すらさせられずに逮捕された。1925年、上記罪状の併合罪にて無期懲役判決。余りに重い量刑に、弁護士の山崎今朝弥は「地震憲兵火事巡査。甘粕は三人殺しで仮出獄? 久さん未遂で無期懲役!」と憤慨した。ただし翌年の大正天皇の崩御により恩赦があり、懲役20年に減刑された。最初、網走刑務所に入れられ、秋田刑務所に移送。俳句などを多く作って手紙などにしたため、獄中から友人に送った。著作『獄窓から』は1927年に出版された。その俳句は芥川龍之介の絶賛を受けた。しかし和田は長く肺病を患っており、古田の刑死、村木の病死を知って悲観し、1928年2月20日午後7時頃、看守の目を盗んで自殺した。和田の遺骸は、労働社の近藤憲二らが秋田県まで行ってもらいうけて荼毘に付し、都営青山霊園の古田大次郎の墓側に葬られた。

和田久太郎は労働運動家であり、福田大将狙撃事件の主犯です。この事件は大杉栄が殺害された甘粕事件が、陸軍大将福田雅太郎の命令によってなされたと考えてのものでした。久太郎は大杉栄の片腕であっただけに、その恨みが強かったようです。ただ、福田雅太郎は甘粕事件での不手際を問われて司令官を更迭されており、本当に大杉栄殺害の命令者であったのか疑問もあります。甘粕事件は闇が深いようで、誰が計画者で誰が実行犯だったのか、いまだにはっきりしていません。温厚な人柄で親しまれた久太郎が暗殺を実行するほどですから、よほどの恨みだったのでしょうが、この計画が成功していたとしても、日本の社会を覆う闇が晴れたようには思われません。久太郎は獄中から俳句を作ったりしていましたが、仲間である古田の刑死、村木の病死を知り、最期は1928年2月20日午後7時頃、看守の目を盗んで自殺してしまいました。

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今日の辞世の句 

革命万歳

難波大助の絞首台の上で最期の言葉。難波 大助(なんば だいすけ、明治32年(1899年)11月7日 - 大正13年(1924年)11月15日)は、日本の共産主義者で、虎ノ門事件で摂政宮を暗殺しようとした単独の極左テロリストである。襲撃は失敗したが、大審院でも天皇制否定の主張を曲げずに、大逆罪で死刑に処された。大正期の反逆的な社会運動家。山口県熊毛郡周防村立野宮河内(現光市立野宮河内)の名家に生まれた。父作之進は庚申倶楽部所属の衆議院議員であった。母はロク。徳山中学(山口県立徳山高等学校の前身)時代は父親の影響を強く受けた皇室中心主義者であり、『大阪朝日新聞』の非買運動を行うなどしていたが、中学5年生の時、田中義一陸軍大臣が山口に帰省した際に強制的に沿道に整列させられたことに憤慨し、思想的な変化が芽生えたという。鴻城中学でも学ぶが、中退した。1919年に予備校に通うため上京し、四谷に居住することになる。貧民窟として知られる鮫ヶ橋(鮫河橋とも。現東京都新宿区若葉)の側ということもあり、それらの実情を目の当たりにしたことや河上肇の『断片』などを読み、次第に社会に対しての私憤を募らせていった。大逆事件に関する裁判記事なども読み漁っていたという。この頃に参加した社会主義同盟の講演会において、警官の横暴を目撃したことがテロリストになる転機となった。1922年に早稲田第一高等学院に入学したが1年で退学。日雇労働者として生活していく中で、労働運動や社会主義運動にも触れ、共産主義の暴力革命に染まっていった。一時は個人的テロよりも労働者の団結を重視しはじめたが、関東大震災において、大杉栄などの社会主義者などが殺された甘粕事件や、労働者運動を弾圧した亀戸事件などに衝撃を受け、その憤慨をプロレタリアの皇室崇拝の念を打破するための皇室へのテロという形で発散させることを思い立つ。テロの目標は脳病で執務能力を失った大正天皇より、摂政宮の裕仁親王がよいと考えるようになった。難波は関東大震災を前後し、しばしば山口へ帰省している。父のすすめで始めた狩猟をきっかけとして仕込み型のステッキ散弾銃を入手し、これで皇室に対するテロの実行を決意した。なお、このステッキ銃は伊藤博文がロンドンで購入したものが人を介する形で難波の父に渡ったものと言われている。実行に際し狂人扱いされることを避けるため、新聞社などにテロ決行と共産主義者であることを伝える趣意書を送付し、友人には累が及ばないように絶交状を送付した。1923年12月27日、虎ノ門で裕仁親王を近接狙撃するが失敗、「革命万歳」と叫び逃走を図ったが、激昂した周囲の群衆の暴行を受け、警備の警官に現行犯逮捕された。内閣は責任を取り総辞職、関係諸官は処罰された。その中には警視庁警務部長正力松太郎もいた。この当時、大逆罪は初めから大審院で審理された。難波を精神病患者とすることは不可能であったため、政府や検察は「自己の行為が誤りであったと陳述させ、裁判長は難波の改悛の情を認めたうえで死刑の判決を下すが、摂政の計らいにより死一等を減じ無期懲役とする」ことが天皇の権威を回復するための最も良い手段であると判断し、そのように動いた。予審は長引いたが、難波が反省陳述することをようやく認めたため、1924年10月1日に傍聴禁止の措置が取られた上での公判が開かれた。しかし難波はこの審理の最終陳述で反省陳述を行わず、次のように述べた。「私の行為はあくまで正しいもので、私は社会主義の先駆者として誇るべき権利を持つ。しかし社会が家族や友人に加える迫害を予知できたのならば、行為は決行しなかったであろう。皇太子には気の毒の意を表する。私の行為で、他の共産主義者が暴力主義を採用すると誤解しない事を希望する。皇室は共産主義者の真正面の敵ではない。皇室を敵とするのは、支配階級が無産者を圧迫する道具に皇室を使った場合に限る。皇室の安泰は支配階級の共産主義者に対する態度にかかっている。」これを受けて大審院は11月13日、難波に死刑を宣告せざるを得なくなった。その際、難波は「日本無産労働者、日本共産党万歳、ロシア社会主義ソビエト共和国万歳、共産党インターナショナル万歳」と三唱して周囲を狼狽させた。難波の処刑は15日に執行された。25歳没。父の作之進が遺体の引き取りを拒んだため、無縁仏として埋葬された。その際、難波の遺体を引き取りに出向いた自然児連盟の山田作松、横山楳太郎、荒木秀雄らアナキストが検挙された。作之進は、事件当日に衆議院議員を辞職。息子の死刑執行後は山口の自邸の門に青竹を打ち、すべての戸を針金でくくり閉門蟄居して断食し、半年後に餓死した。難波の生家は今も光市立野に存在する。屋敷の中にある土蔵の「向山文庫」は山口県初の図書館として光市指定文化財に指定されているが、整備はされておらず、荒廃が進んでいる。

難波大助は虎ノ門事件で摂政宮(後の昭和天皇)を暗殺しようとした人です。虎ノ門事件は大正時代、関東大震災後に頻発したテロ事件の一つで、復興を進めていた第2次山本内閣は引責による総辞職を余儀なくされました。迷惑な話です。新渡戸稲造は「わが国を滅ぼすものは共産党と軍閥である。」と述べましたが、日本を滅ぼすものは今も昔も右翼と左翼だと言えるでしょう。この事件の詳細は、1923年12月27日、摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、自動車で貴族院へ向かっていた皇太子の御召自動車に、虎ノ門外(虎ノ門公園側)で群衆の中にいた難波大助が接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃しました。銃弾は皇太子には命中しませんでしたが、車の窓ガラスを破って同乗していた侍従長・入江為守(入江相政の父)が軽傷を負いました。この事件の背景には、関東大震災後の社会不安や、大杉事件・亀戸事件・王希天事件などの労働運動弾圧に対する社会主義者達の反発がありましたが、だからと言って要人暗殺をして良いという理屈にはなりません。難波大助がいまだに左翼過激派のヒーローとなっているのは、彼の行動だけでなく最終陳述による部分も大きいと思われます。難波は最終陳述でも天皇制否定の主張を曲げず、「速やかに私を絞首せよ! 私は、七度生まれかわって大逆をくりかえすであろう」とまで言いました。難波大助は新聞配達などの労働や木賃宿での底辺生活も経験していましたが、父の作之進は実業家であり、事件当時は庚申倶楽部に所属する衆議院議員でした。4男である大助が共産主義思想へ激しく傾倒するにつれて、度々激しい論争していたそうです。事件が起こると作之進は即日衆議院議員の辞表を提出し、地元へ帰り蟄居しましたが、世間の目は冷たく、周防村の村民は、難波家を見れば目が汚れると周りに高い土手を築いたそうです。大助が死刑を執行されると作之進は遺体の引き取りを拒み、自邸の門に青竹を打ちすべての戸を針金でくくって、三畳間に閉じこもり食を断ち、その約半年後に餓死しました。実兄の吉田義人も大助とは全く正反対の人物で、事件当時、三菱本社に勤務していましたが、その後は立身出世し、戦後にGHQの指令で三菱重工業が23社に細分されかけた時、高官に接近して贈賄し、東日本・中日本・西日本の3社にとどまらせ、最後は新三菱重工業社長となりました。名家に生まれた異常な過激派という意味では難波大助は、ウサーマ・ビン・ラーディンのような人でした。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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