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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Oh no!

J・D・サリンジャーの最期の言葉。ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(Jerome David Salinger, 1919年1月1日 - 2010年1月27日)は、アメリカ合衆国の小説家。ニューヨーク市マンハッタン生まれ。小説『ライ麦畑でつかまえて』で知られている。父はポーランド系ユダヤ人、母はスコットランド=アイルランド系だがユダヤ教に改宗した。サリンジャーは、シーモア、ゾーイーなど7人兄弟と両親からなるグラース家にまつわる物語の連作を書き続けると発言していたが、1965年に『ハプワース16、1924年』を発表して以降は完全に沈黙し、晩年はアメリカ、ニューハンプシャー州に隠遁して40年以上作品を発表することはなかった。生涯に発表した作品の多くもグラース家やホールデン・コールフィールドにまつわるものが多い。自らの作品『コネティカットのひょこひょこおじさん』に基づくハリウッド映画『愚かなり我が心』 (1949年) の出来映えに失望したことから映画嫌いになった。そのため、『ライ麦畑でつかまえて』の映像化を許さなかった。公に姿を現すことは滅多に無く、作品の発表も晩年は無いに等しく、謎や伝説に包まれた人物である。『フラニーとゾーイー』頃から作品の中には東洋思想、禅の影響が色濃く、またサリンジャー自身もヨーガやホメオパシーに傾倒するなど全体的に神秘主義的傾向が強まった。そのため後期の作品では読者層が絞られていく一方、おりしもベトナム戦争などの時局も相俟ってヒッピーなどカウンターカルチャー寄りの人々の支持も少なからず集めるに至った。1919年1月1日、ニューヨークで生まれる。父はポーランド系ユダヤ人の実業家・ソロモン、母はスコットランド=アイルランド系のカトリック教徒の娘マリー(彼女は結婚後夫と同じユダヤ教に改宗、名もユダヤ風にミリアムと改めている)。また8歳上の姉ドリスがいる。父は食肉やチーズを販売する貿易会社の経営をしており、一家は裕福だったといわれる。1932年にマークバーニ校(ボーディングスクール)に入学。この頃は演劇に関心を持っており、入学面接では「(興味があるのは)演劇と熱帯魚」と答えている。しかし、学業不振を理由に1年で退学処分となってしまう。その後ペンシルベニア州のヴァリー・フォージ・ミリタリー・アカデミーに入学し卒業まで過ごす。この学校は「ろくでもない子供を叩き直す」という厳しい教育方針だった。また田舎の保守的な学校であり、ユダヤ人に対する差別意識があったようだが、卒業まで無事過ごす。卒業後、家業を継ぐため親戚のいるヨーロッパに渡る。帰国後は様々な大学を転々とするが、1939年にコロンビア大学の聴講生となり、ホイット・バーネット(トルーマン・カポーティやジョゼフ・ヘラー、ノーマン・メイラーなど数々の新人作家の作品を自らが創刊した文芸誌『ストーリー』で最初に掲載し世に紹介したことで知られる)の創作講座に参加する。バーネットの授業に参加して大きな影響を受けたようで、処女作『若者たち』 (The Young Folks) が初めて掲載された雑誌は『ストーリー』 (1940年3-4月号) である。わずか25ドルではあったが生まれて初めての原稿料を受け取った。また、これがきっかけで小説が他の文芸紙にも掲載されるようになる。1941年に『マディソン街のはずれの小さな反抗』 (Slight Rebelion off Madison) が『ザ・ニューヨーカー』に掲載が決まる。12月中に掲載される予定となったが太平洋戦争の開戦による影響で作品の掲載は無期延期となってしまう(結局5年後の1946年に掲載される)。ちなみにこの短編は、作家の分身とでもいうべきホールデン・コールフィールドが初めて登場した作品である。1941年から、劇作家ユージン・オニールの娘ウーナ・オニールと交際しており、軍務に就いてからも文通していたが、ウーナは1943年に突如チャールズ・チャップリンと結婚してしまう。1942年、太平洋戦争の勃発を機に自ら志願して入隊する。2年間の駐屯地での訓練を経て1944年3月英国に派遣され6月にノルマンディー上陸作戦に一兵士として参加し激戦地の一つユタ・ビーチに上陸する。フランスでは情報部隊に所属する。8月、パリの解放後新聞特派員としてパリを訪れたアーネスト・ヘミングウェイを訪問する。『最後の休暇の最後の日』 (The Last Day of the Furlough) を読んだヘミングウェイはその才能を認めて賞賛したという。しかしヘミングウェイのタフな精神とは相容れなかったようである(『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンの台詞を参照)。しかしドイツとの激しい戦闘によって精神的に追い込まれていき、ドイツ降伏後は神経衰弱と診断され、ニュルンベルクの陸軍総合病院に入院する。入院中にドイツ人女性医師シルヴィア・ヴェルターと知り合い結婚。1945年11月除隊。12月に『ライ麦畑でつかまえて』の原型となる作品『僕は狂ってる』 (I'm Crazy) が雑誌『コリアーズ』に掲載される。1946年、シルヴィアとの結婚生活は終わりを迎え生活も大きく変化した。ヤッピーのような生活を送り、またニューヨークのボヘミアンとも多く交流を持つようになる。1949年頃、コネチカット州ウェストポートに家を借り執筆生活に専念、『ライ麦畑でつかまえて』の執筆を開始した。1950年1月、『コネチカットのひょこひょこおじさん』 (Uncle Wiggily in Conecticut, ナイン・ストーリーズ収録作品) を元に作られた映画愚かなり我が心 (My Foolish Heart) をハリウッドのサミュエル・ゴールドウィンが全米公開するが映画の評判は芳しくなく、サリンジャーもこの映画を見て激怒する(それ以来自分の作品の映画化を許可することはなかった)。1950年秋『ライ麦畑でつかまえて』が完成する。当初ハーコードプレスから作品は出版される予定だったが、「狂人を主人公にした作品は出版しない」と出版を拒否。結局作品はリトル・ブラウン社から刊行、大きな反響(詳しくはライ麦畑でつかまえてを参照)を呼んだ。文壇からは賛否両論があり、また保守層やピューリタン的な道徳的思想を持った人からは激しい非難を受けた。しかしホールデンと同世代の若者からは圧倒的な人気を誇り、2007年までに全世界で6000万部以上の売り上げを記録。現在でも毎年50万部が売れているという。しかしこの成功によって、ニューヨークで静かな生活を送ることは次第に難しくなっていった。結果、ニューハンプシャー州はコネチカット河のほとり、コーニッシュの土地を購入、原始的な生活を送り(家にはライフラインがなかったらしい)、地元の高校生達と親しくなり、交流を深めることになる。しかし、その関係も長くは続かず、親しくしていた少女の1人が高校生向け記事を書くことを条件にしたインタビューの内容をスクープとして地元の新聞に載せてしまう。このことに激怒し、社会から孤立した生活を送るようになり、高校生達との縁を切ってしまう。1955年にラドクリフ大学に在学中のクレア・ダグラスと結婚。一男一女を儲けるが、1967年に離婚。次第に発表する作品数を減らしていく。1953年に『バナナフィッシュにうってつけの日』をはじめとする短編集『ナイン・ストーリーズ』を、1961年には『フラニーとゾーイー』を、1965年に『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を発表するが、1965年に『ハプワース16、1924年』を発表したのを最後に1冊の新刊も発表することはなかった。1972年、当時18歳だったジョイス・メイナードと短期間同棲。1990年頃からは約50歳年下の看護婦と結婚生活を送っていたという。晩年は滅多に人前に出ることもなく、2メートルの塀で屋敷の回りを囲ませその中で生活をしていた。サリンジャーには世捨て人のイメージがつきまとうようになり、一度小説を書き始めると何時間も仕事に没頭し続けており、何冊もの作品を書き上げている、など様々な噂がなされた。実際にはサリンジャーは、町で「ジェリー」と呼ばれて親しまれ、子供たちとも話をし、毎週土曜に教会の夕食会に参加するなど、地域に溶け込んで暮らしていたという。住民の間では私生活を口外しないことが暗黙の了解だった。1985年、作家・評論家のイアン・ハミルトンが、テキサス大学でサリンジャーの書簡多数を発見し、これを元に伝記を書いたが、校正刷りの段階でサリンジャーがこれに異議を申し立て、ハミルトンは二度書き直したものの、サリンジャーはニューヨークの法廷に姿を現し、一審でハミルトン側が勝ったが、二審で覆り、ハミルトンはサリンジャーの書簡を引用しない版(『サリンジャーをつかまえて』海保眞夫訳)を刊行した(サリンジャー事件)。『ライ麦畑でつかまえて』の続編であるという『60 Years Later: Coming Through the Rye』がスウェーデンの出版社Nicotextから出版されると知り、その著者であるJ・D・カリフォルニアなる人物と Nicotext とを相手取り、2009年6月1日に著作権侵害で提訴した。訴状は「続編はパロディではないし、原作に論評を加えたり、批評したりするものでもない。ただ不当な作品にすぎない」として、出版の差し止めを求めた。2010年1月27日、ニューハンプシャー州コーニッシュにある自宅にて老衰のため死去。

サリンジャーは世界的な人気を得ていましたが、極めて寡作な作家でした。『ライ麦畑でつかまえて』で成功を収めた後、ニューハンプシャー州に隠遁して、40年以上作品を発表することはありませんでした。サリンジャーは無垢なもの(イノセンス)に対する憧れが強い人であると言われていますが、彼の作品の主人公達の多くは10代後半から20代の微妙な世代であり、その年頃の精神的な葛藤を巧みに描くことのできる作家であると評価されています。いかにも都会的なはにかみと、ソフィスティケーションに彩られた繊細巧緻な描写により、人間の弱さやエゴを扱った作品を書きました。彼の作品の中で特に有名なのは『ライ麦畑でつかまえて』ですが、この作品は主人公のホールデン・コールフィールドが3校目に当たるボーディングスクールを成績不振で退学させられたことをきっかけに寮を飛び出し、実家に帰るまでニューヨークを放浪する3日間の話です。欺瞞に満ちた大人たちを非難し、制度社会を揶揄する主人公に共感する若者が多かった一方で、攻撃的な言動、アルコールやタバコの乱用、セックスに対する多数の言及、売春の描写などのため、まだピューリタン的道徳感の根強い発表当時は一部で発禁処分を受けました。このような若者の熱狂的な支持と体制側の規制は、アメリカの「暗部」の象徴としての役割を負うことになり、ジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンや、レーガン元大統領を狙撃したジョン・ヒンクリーも愛読していたことでも知られています。サリンジャーがどうして小説を書くことを止めてしまったのかについては、諸説がありはっきりしたことは自身が死去されたこともあり分かりません。最期に『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』で引用された、『ライ麦畑でつかまえて』からの引用と、実際の作品の一部をを紹介しておきましょう。「I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes(僕は耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になろうと考えた)」と「You know what I'd like to be? I mean if I had my goddamn choice, I'd just be the catcher in the rye and all.(僕が何になりたいか知ってるよね? 僕の馬鹿げた選択は、ただライ麦畑で子供達を捕まえる人になりたい、それだけなんだ)」

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 笑い男 4:50ごろにサリンジャーについて言及あり
https://www.youtube.com/watch?v=0YovvLr02d0
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

(死の床にて誰かに質問すると、その人から
"Now you ask ? its not time of knowing"
「ねえ、君は聞くのかい? 今は知る時じゃないよ」と言われ)

It is better to know and die or dont know, and die?.
死ぬのか知らないのか知っておいた方が良いだろ、で死ぬの?

(その男は"When I coming out Biruni home, yet I was closed door i heard mourning of his family. ".
「ビールーニーの家に来た時、まだ閉まっていない扉から、彼の家族が嘆き声が聞こえた」と答えた。)

アブー・ライハーン・アル・ビールーニーの最期の言葉。アブー・ライハーン・ビールーニー[1] ペルシア語: ابوریحان محمد بن احمد بیرونی خوارزمی (アラビア語:アブー・ライハーン・アル=ビールーニー ابو ريحان محمد ابن احمد البيروني الخوارزمي Abū Rayḥān Muḥammad ibn Aḥmad al-Bīrūnī al-Khwārizmī, 973年 - 1048年)は、ホラズム出身の著述家、数学者、天文学者、旅行家、哲学者、薬学者、占星学者。さらに歴史学、言語学にも言及しており、彼の学問分野は広範である。 イスラーム世界を代表する 11世紀の知識人である。アル=ビルニ、アル=ビールーニー(Al-Biruni)とも表記される。973年、ホラズム(今日のウズベキスタン領内)地方の首府カース Kāth 近郊で生まれた。彼の出身名(ニスバ)である「ビールーニー」(bīrūnī)とは、ペルシア語で「郊外」を意味するビールーン(bīrūn)という普通名詞に由来すると言われている。アブー・ナスル・マンスールの下で数学を学び、イラン、中央アジアの各地を遊歴した。イブン・スィーナー(アウィケンナ)とも交流を持った。サーマーン朝の君主マンスール2世やホラズム・シャーのマアムーンなどに仕えたが、ガズナ朝がマーワラーアンナフルを征服するとこれに仕えるようになった。1000年頃、後にゾロアスター教の重要な資料となる『古代諸民族年代記』を執筆した。1017年から1030年にかけて、ガズナ朝のスルタン・マフムードに仕えた。マフムードの十数回に及ぶインド遠征にたびたび随行し、インドの民俗、歴史、法律および言語をまとめた『インド誌』を1030年に完成させた。同年、天文学書『マスウード宝典』をまとめあげた。この本の中で、地球の自転を説き、地球の半径を約6,339.6kmと計算している。現在の観測による数値(赤道面での半径)は6,378kmであり、極めて正確であったといえる。他に薬学全集『サイダナの書』(『薬学の書』)、鉱物事典『宝石の書』を執筆した。著書の数は120を超える。著書は主にアラビア語で執筆されている。『ヨーガ・スートラ』のアラビア語訳などインド関連の著作を20編ほどあり、プトレマイオスの『アルマゲスト』をサンスクリットに翻訳することを試みたが、この翻訳が成功したことを示す証拠は今のところ見つかっていない。ユネスコから世界の記憶(世界記憶遺産)登録を受けた。ちなみに『シャー・ナーメ』の著者フェルドウスィーとも同時代人である。

ビールーニーはイスラム版アリストテレスです。中世イスラム世界の最大の学者の一人である彼の研究は、あまりに広範囲に渡るため、一概に記述するのが難しいのですが、科学において特に有名なのは、地球の自転を説き、地球の半径を約6,339.6kmとかなり正確に計算したことです。彼は数学、天文学、医学などの自然科学だけではなく、地理学、歴史学、言語学などにも秀いで、後にゾロアスター教の重要な資料となる『古代諸民族年代記』や当時のインドの様子を今に伝える『インド誌』を書きました。さて、ビールーニーはイスラム世界を代表する学者ですが、シーア派に属しており、彼の反アラブ的感情は終生変わりませんでした。彼はまず故郷で教育を受け、998年頃ジュルジャーンにおもむき、数学者アブー・アルワファーの弟子について数学を学び、ジヤール朝のカーブースに仕えました。天文学・医学を修めた後、再び故郷に帰ったのですが、ガズナ朝の君主マフムードが来攻した時に捕らえられて彼に仕え、インド征服にも同伴してこの地に長くとどまり、最期はガズナに帰って没しました。彼の旺盛な知的好奇心と鋭い批判的精神とは,中世を通じて並ぶ者がいないのですが、その学術的業績の多くにアリストテレスやアルキメデスらギリシア文明の影響が色濃く見えます。彼が占星術を研究して古代諸民族の暦法・年代を編纂し、地球の自転を説き、宝石・金属の比重を測定した辺りは、その真骨頂です。

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今日の辞世の句 

Curtain! Fast music! Light! Ready for the last finale! Great! The show looks good, the show looks good!

カーテンを! 早く音楽を! 照明を! 最後の偉大なショウをお待ちください! これは見ものだ!

フローレンツ・ジーグフェルド・ジュニアの最期の言葉。フローレンツ・ジーグフェルド・ジュニア(Florenz Ziegfeld, Jr.、1867年3月21日 - 1932年7月22日)はアメリカ合衆国の舞台演出家、プロデューサー。米国レヴュー界の第1人者であり、1907年から1931年まで、ブロードウェイで「ジーグフェルド・フォーリーズ」と呼ばれる豪華なレヴューを興行するなど、スペクタクル性を重視した米国風レヴューを確立し、また数々のスターを発掘したことで知られる。1867年3月21日(15日とする資料もある)にシカゴで生まれる。ドイツ移民である父親は音楽学校の経営で成功しており、比較的裕福な環境で育つ。また、幼い頃から広告や宣伝に関心を持つ。1893年にシカゴ万国博覧会の客を見込んで父親がナイトクラブを開くものの経営に失敗、その窮地を救うため、後に「近代ボディビルの父」と呼ばれるようになるユージン・サンドウを起用し、サンドウの肉体美を使った宣伝活動を積極的に行なった結果、父親のナイトクラブに客が集まるようになる。その後、サンドウによる怪力ショーで巡業を始め、各地で成功を収めるが、2年後にサンドウとは円満な形で別れる。次にジーグフェルドは舞台の興行に乗り出し、1896年にはポーランド生まれのフランス人女優アンナ・ヘルドを牛乳風呂などの宣伝文句を使ってスターにすることに成功、メディアを使った「スターメイキング」の仕組みを確立する。1907年には初のレヴューとなる「ジーグフェルド・フォーリーズ」をプロデュース、その後1931年まで毎年公演を行う。この「フォーリーズ」はパリのフォリー・ベルジェールをモデルにしている。ジーグフェルドのショーに出演したことで名声を得たスターにはマリリン・ミラー、ウィル・ロジャース、レオン・エロル、バート・ウィリアムズ、ファニー・ブライス、エディ・カンターなどがいる。1929年に起きた世界恐慌をきっかけに財産の多くを失う。1932年、かつて成功した公演をリバイバルするが、大不況の中、充分な収益を上げられず、同年の7月に胸膜炎で亡くなる。ジーグフェルドが残した借金を返すため、未亡人となったビリー・バークはその後20年以上に渡り、休みなく働くことになる。

フローレンツ・ジーグフェルド・ジュニアは、アメリカのレヴュー(大衆娯楽演芸)の第一人者です。レヴューはアメリカでは19世紀末にイギリスから輸入された形態が次第にアメリカ化し、後のミュージカルの母体となりました。ジーグフェルドは"フォーリーズ"と銘打った豪華なレヴューを興行し、ウィル・ロジャースやエディ・カンターらが彼の下で名を上げました。現在でもラスベガスなどのショー性の強いミュージカルには、レヴューの雰囲気が濃厚に残っています。上記の通りジーグフェルドは、人々の耳目を集めるのに天才的な才能を発揮し、メディアを使った「スターメイキング」の仕組みを確立しました。ジーグフェルドの演出の特徴は、当時としてはかなり露骨に性表現をしたことにあるのですが、例えばフォリーズ・ガールズと呼ばれた、若く美しい女性の集団は、肌に密着しときに透けて見える衣装や装飾性の高い奇抜な衣装を身にまとい、舞台全体を覆う諸々のイメージの構成要素としてオブジェと化しポーズを決め、あるいは集団でダンスを踊り、観客を魅了しました。このレヴュー形式のミュージカルの基本的なイメージを、直接的ないし間接的に模倣した、多数のミュージカル映画が作られました。彼の私生活はハリウッドでの成功者らしく、女優のアンナ・ヘルドと1897年から事実婚状態にありましたが、ヘルドが既婚者だったこともあり、正式に結婚しないまま1913年に別れました。その翌年1914年に女優のビリー・バークと結婚、1女をもうけたのですが、晩年のジーグフェルドが世界恐慌により多額の借金を残したため、楽な生活ではなかったようです。

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今日の辞世の句 

死んでゆくのに羽織はいらない

野口雨情の最期の言葉。野口雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日、本名・英吉)は、詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明)の長男として茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれる。父・量平、母・てる。4年制小学校・4年制高等小学校を終了後上京。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、坪内逍遥に師事するが、1年余りで中退、詩作を始める。このとき1901年、英吉19歳。父の事業失敗と死により、1904年、故郷に帰り、家督を継ぐ。このとき、家の没落をふせぐために、家族(つまり亡父や親族)から、栃木県の資産家の娘との政略結婚をお膳立てされており、英吉は同い年(23歳)の高塩ひろと結婚するが、もともと気の進まない話で、後年、破綻する。この頃酒におぼれたというが、詩作にも打ち込み、朝餐会などで発表していた。「雨情」の号を名乗ったのもこの頃である。1905年(明治38年)処女民謡詩集『枯草』を水戸から自費出版。しかし反響は得られなかった。妻ひろは、1906年に長男の雅夫を生んだ。しかし雨情は窮屈な家庭を飛び出し、事業で一旗揚げる名目で樺太にわたるが、失敗。一緒にコルサコフまでともなった芸者に金を持ち逃げされてしまい、残った金で林檎を貨物列車の一両分、東京に送って売ろうともくろんだが腐ってしまった。妻ひろが上京して雨情を連れ戻しに来たが、そのまま東京にとどまり詩人になると宣言。1907年(明治40年)一月より『朝花夜花』なる民謡月刊を発行するが不発。同年、三木露風、相馬御風らと共に早稲田詩社(月二回会合する会)を結成するが、その後しばらく詩作から遠ざかる。この時期(1906-1909年)、雨情は北海道に渡って新聞記者となっていた。『小樽日報』に勤めていたときには同僚に石川啄木がおり、交友を結んだ。雨情は当時の主筆に対する排斥運動を起こしたが敗れて退社し、啄木とは1ヶ月足らず机を並べただけに終わる。『小樽日報』を首になったちょうどそのころ(1907年10月)、妻は女児みどりを出産したが、この子は一週間ほどで亡くなった。のちの『シャボン玉』はこのとき夭折した娘のことを歌っているとされるが、根拠がないとする向きもある。雨情は北海道で六つの新聞社を転々とした後、1909年(明治42年)、いったんは帰郷するも、すぐまた上京してしまう。1911年、母の死を契機にふたたび郷里にもどり、家の植林や農地財産の管理などに従事するようになったが、文学への執着は捨てきれず「悶々とした生活をおくっていた」。1914年、雨情は痔の湯治のためにいわき湯本温泉を訪れるが、このとき置屋「柏屋」のおかみ、小すみ(本名明村まち)とねんごろになり、そのまま3年半をここで暮らすようになる。その合間(1915年5月)に、夫人との協議離婚が成立している。雨情は二児をひきとり育てることになった。1918年(36歳)のとき、雨情は水戸にいき、中里つると再婚した。この頃から詩の創作活動をはじめた。1919年(大正8年)詩集『都会と田園』により詩壇に復帰、斎藤佐次郎により創刊された『金の船』より童謡を次々と発表。藤井清水や中山晋平や本居長世と組んで多くの名作を残した。他方童謡とともに盛んとなった「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、1935年(昭和10年)には日本民謡協会を再興し、理事長に就任している。日本各地を旅行し、その地の民謡を創作した。また同じ年の1月、仏教音楽協会も設立され、雨情は評議員に推薦される。仏教音楽の研究に加え、新仏教音楽の創作や発表、普及にも力を尽くした。1943年(昭和18年)軽い脳出血で倒れて後は療養に専念。1945年(昭和20年)疎開先の宇都宮市近郊で死去。代表作は『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など、枚挙にいとまがない。他に『波浮の港』『船頭小唄』など。

野口雨情は近代の民謡、童謡詩人です。雨情は非常に優れた詩人・作詞家でしたが、同じく童謡界の三大詩人と称される北原白秋、西條八十と比べて、一般的な知名度では一歩劣るかもしれません。彼は東京専門学校(早大)中退後、明治38(1905)年に創作民謡集『枯草』を刊し、以後、北海道、茨城、東京と移りつつ詩作を続けました。1918年創刊の『赤い鳥』などを舞台に北原白秋らによって童謡運動が始められると雨情も参加し、翌年には児童雑誌『金の船』(のち『金の星』)に毎月発表し始めました。1921年には童謡集『十五夜お月さん』を刊行し、その後も民謡や童謡の創作、理論的指導などを精力的に行いました。「船頭小唄」が演歌師に歌われ、知られるようになり、さらに同名映画の主題歌となり、1923年には一躍全国に流行し、1928年には「波浮の港」、翌年には「紅屋の娘」のレコードがヒットするなど、新しいメディアにのって大衆に親しまれる歌を生みました。雨情は家のために不本意な結婚をさせられたり、窮屈な家庭を飛び出して樺太に渡り失敗したりと、意外と奔放な人生を送った人でしたが、同時に「七つの子」「シャボン玉」「青い眼の人形」などのような、いわゆる純真な童心をうたいあげた作品を作り、典型的な童謡イメージを確立した人でもありました。誰でも知っているような童謡をいくつも書きながらも、あまりその名を知られていない雨情のために、その代表作をいくつか紹介しておきましょう。

赤い靴
https://www.youtube.com/watch?v=kcsca5yEAM4
しゃぼん玉
https://www.youtube.com/watch?v=bLiZuead7lM
中山晋平:波浮の港
https://www.youtube.com/watch?v=CUcFazKVbMM

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今日の辞世の句 

こんな寒いときに年寄りが出てこなくてもいいもんだ。

佐藤久一の最期の言葉。佐藤 久一(さとう きゅういち、1930年1月5日 - 1997年1月23日)は、山形県酒田市生まれの実業家。酒田商業に入学後、酒田中学校に編入学。日本大学芸術学部中退。父、久吉は日本酒醸造元「金久(かなきゅう)酒造」を経営、市議会議長、商工会会頭などを歴任、テニスの振興に尽力するなど、名家の主として知られる。久一は、大学中退後、20歳で映画館「グリーンハウス」支配人に就任。洋画専門館として名を馳せる。淀川長治や荻昌弘が羨んだという映画館だった。 1964年には映画館の職を辞して、上京、日生劇場に勤務。同劇場の劇場課、のち食堂課に勤務。1967年8月、父、久吉の求めで酒田に戻り、以後、「レストラン欅」、「ル・ポットフー」の支配人として活躍。地方都市には珍しいフランス料理の名店として、著名な食通達の間で評判を博す。この店の味を絶賛した著名人には、開高健、丸谷才一、山口瞳らがいる。1993年1月、「ル・ポットフー」を退職。1997年1月、食道癌で亡くなる。

佐藤久一は映画館や料理店の支配人として、数々の著名人から高い評価を受けましたが、一般的な知名度の高い人ではありません。彼の才能の核心は、芸能コーディネーターとしての選別眼と調整手腕によるものでしょう。彼は自分で何かを作り出すというよりは、個人的な趣味に精通しそれを世に広める才に秀でた人であり、歴史的な人物で例えるなら千利休が近いと思います。映画人としての業績は、1954年(昭和29年)に映画製作を再開した日活の黄金時代に、洋画専門映画館を経営して成功させたことと、映画評論家淀川長治が絶賛した、大スクリーンの使用と小劇場「シネサロン」や、少人数の貸切用「家族室」を設置するなどの、非常に先進的な取り組にあります。

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