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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

This is not the end of me.

これは私の終わりではないよ。

ヘンリー・キャンベル=バナマンの最期の言葉。サー・ヘンリー・キャンベル=バナマン (英: Sir Henry Campbell-Bannerman, GCB、 1836年9月7日- 1908年4月22日)は、イギリスの政治家。1899年にサー・ウィリアム・ヴァーノン・ハーコートが退任した後に自由党党首となり、1905年からの自由党政権の最初の首相(在職1905年-1908年)となった。在任中は野党保守党が貴族院で法案を阻止する戦術を取ったため、出来たことは多くなかった。1908年に病により退任し、ハーバート・ヘンリー・アスキスが自由党党首、首相の地位を継承した。サー・ジェームズ・キャンベルとその妻ジャネットの一人息子としてスコットランドのグラスゴーに生まれた。グラスゴー高校を卒業した後、グラスゴー大学へ進学し、ついでケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに進学した。1868年11月にスターリング・バラ選挙区から自由党の庶民院議員に選出される。以後40年間この議席を保ち続けた。1871年には叔父の意思で姓をキャンベル=バナマンに変更した。第1次グラッドストン内閣期の1871年から1874年にかけては陸軍省財政担当政務次官を務めた。第2次グラッドストン内閣期には、1880年から1882年まで陸軍省財政担当政務次官、1882年から1884年まで海軍省政務次官、1884年にアイルランド担当大臣を務めた。1886年の第3次グラッドストン内閣では陸軍大臣を務めた。1892年から1894年にかけての第4次グラッドストン内閣でも陸軍大臣を務めた。グラッドストンが失脚するに至った1893年から1894年にかけての海軍増強をめぐる閣内論争ではグラッドストンの意に反して海軍増強を支持した。グラッドストン辞職後に成立したローズベリー伯爵内閣でも陸軍大臣に留任したが、1895年6月には彼の所管であった陸軍予算問題で政府案が議会の採決に敗れた結果、ローズベリー伯爵内閣が総辞職に追い込まれている。以降1905年まで自由党の長い野党生活がはじまった。野党期の1898年暮れに自由党党首サー・ウィリアム・ヴァーノン・ハーコートが辞職するとライバルのアスキスを抑えて、1899年に自由党党首となった。保守党政権の第3次ソールズベリー侯内閣が開始した第二次ボーア戦争をめぐっては自由党は戦争を支持する「自由帝国主義派」(ローズベリー伯爵やアスキスら)、戦争を批判する「親ボーア派」(ロイド・ジョージら)、戦争を支持するが早期に穏当な条件で講和を結ぶべきとする中間派(キャンベル=バナマンら)の3つに分かれた。キャンベル=バナマンは党首として自由帝国主義派と親ボーア派の和合に努めていたが、戦争が泥沼化する中で徐々に親ボーア派的になっていき、イギリス軍のゲリラ掃討戦を「野蛮戦法」と批判するようになった。しかしこれにより自由帝国主義派との溝が深まり、党は分裂寸前にまで陥った。しかし自由帝国主義派のアスキスが調停的立場に転じてくれたおかげで何とか分裂の危機は回避された。キャンベル=バナマンは1905年11月23日の演説でアイルランドの漸進的自治を訴え、これに反発したローズベリー伯爵が再び反旗を翻した。しかしその頃にはローズベリー伯爵の求心力も衰えており、アスキスがバナマンを支持してくれたおかげでローズベリー伯爵一人が党を去ることで党内紛争を終息させることができた。1905年12月、アーサー・バルフォア保守党政権が関税改革論争をめぐって分裂して総辞職した後、国王エドワード7世より組閣の大命を受けた。いまだ自由党内には帝国主義政策をめぐる自由帝国主義派と小英国主義派の二大派閥の争いがあったが、首相となったキャンベル=バナマンは「邪悪な帝国主義に反対するが、常識に基づく帝国主義には賛成する」という折衷的立場をとり、また「大英帝国本国民が帝国を支配するための資質を育成する」として社会改良政策に尽力するという方針をとることによりアスキス、グレイ、リチャード・ホールデンら自由帝国主義派とロイド・ジョージら急進派をともに内閣に取り込み続けることができた。1906年1月の解散総選挙では、自由党は377議席を獲得するという地すべり的大勝利を得た。しかし貴族院においては保守党が半永久的に多数派を占めていた。この時代にはまだ庶民院の優越がなかったため、保守党党首バルフォアは貴族院から政府法案を廃案にする戦術を取った。これによりキャンベル=バナマン内閣の提出した重要法案はほとんどが否決されるか骨抜きにされた。特に1906年4月に初等教育から宗教教育を取り除くことを目指した教育法案を廃案にされたことにキャンベル=バナマンは強い怒りを感じ、貴族院権限の縮小の必要性を感じるようになったという。彼は1906年12月20日の庶民院演説で「本院に代表された民衆の意思を効果的に反映させる方法を考慮しなければならない」と訴え、1907年6月24日には庶民院の優越を定めた法律が必要との決議案を庶民院に提出し、これを庶民院に決議させた。しかしそれを具体化させる前の1908年2月にキャンベル=バナマンは心臓発作を起こして倒れ、医者の勧めに従って同年4月1日に首相職を辞した。代わってアスキスが組閣の大命を受けた。キャンベル=バナマンは退任から間もない1908年4月22日にダウニング街10番地の官邸で死去した。キャンベル=バナマンが切望した庶民院の優越を定めた議会法は、続くアスキス内閣期の1911年に達成されることになる。

ヘンリー・キャンベル=バナマンは、イギリスの自由党から首相となった人です。バナマンは優れた政治家でしたが、在任中は常に貴族院の保守党に邪魔されて、あまり多くの業績を残すことが出来ませんでした。自由党内でも、「自由帝国主義派」のローズベリー伯爵やアスキスら、急進派のロイド・ジョージらと対立しました。バナマンは自由派本来の立場をとりながらも、「邪悪な帝国主義に反対するが、常識に基づく帝国主義には賛成する」という、半ば玉虫色な立場から帝国を支配するための資質を育成するとして社会改良政策に取り組みました。彼は庶民院の優越がなかったために、やりたかったことをほとんどできなかったので、庶民院の優越を定めた法律を定めようとしましたが、その実現を見る前の1908年2月に心臓発作を起こして倒れ、首相職を辞し、1908年4月22日にダウニング街10番地の官邸で亡くなりました。庶民院の優越を定めた議会法は、続くアスキス内閣期の1911年に達成されたのですが、これにより力をつけた自由党とアスキスは、国民健康保険制度と失業保険制度を定め、福祉国家への第一歩を踏み出すと共に、ドイツ帝国との建艦競争を行い、最終的には第一次世界大戦を招きました。物事には良い面と悪い面があるものです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

I desire to leave to the men that come after me a remembrance of me in good works.

私の元に来た人たちには、私のことを良い仕事をなした人だと憶えておいてもたいたいよ。

アルフレッド大王の最期の言葉。アルフレッド大王(Alfred the Great、古英語ではÆlfred、849年 - 899年10月26日、在位:871年 - 899年)は、イングランド七王国のウェセックス王。兄エゼルレッド王の死後、王位を継いだ。妃はエアルフスウィス(Ealhswith)(エアルスウィス、Ealswith)。アングロ・サクソン時代最大の王とも称せられ、イギリスの歴史において大王と称される君主である。849年、バークシャー地方の王領ウォンティジにてウェセックス王エゼルウルフとオズバルガの間に五男として生まれた。祖父母はエグバートとレドブルガである。853年、幼少ながらエゼルウルフによってローマへ送り出され、当時の教皇レオ4世に謁見した。レオ4世はアルフレッド少年に塗油し、堅信礼を施したという。855年には父エゼルウルフとともにローマを再訪した。なお、この二度目訪問の帰途、エゼルウルフは立ち寄った西フランク王国でシャルル禿頭王の娘ユーディスと再婚を為している。エゼルウルフ王の死去後、3人の兄たちが次々と王位に就いたがいずれも短命に終わり、871年に王位を継ぐと、侵攻してくるデーン人と持病(ficus:おそらくクローン病による痔瘻)に苦しめられながらも、死去する899年までの約28年間ウェセックス王国を治めた。最終的にアルフレッドはウェールズの南部からデーンロウを除くイングランドのほぼ全域を支配し、全アングロ・サクソン人の王となった。死後、聖公会・カトリック教会・正教会で聖人となっている。当時ウェセックス王国はイングランド東部のデーン人から攻撃を受けていた。エゼルベルフト王が死去した後、865年エゼルレッド王が即位するとともに、アルフレッドは副将となり、公務を担うようになった。867年、義兄マーシア王ブルグレドの要請でエゼルレッド王とともに出陣し、初陣を飾った。871年、アッシュダウンの戦いでエゼルレッド王とともに戦い勝利を収めるものの、当年中にエゼルレッド王が戦いの傷が元で死去。賢人会の決定によりアルフレッドが即位する。875年にウェセックス勢が初めて海戦で勝利を収めると、翌876年にはスオニジの海戦でデーン人の戦艦120隻を沈めるという大勝利を得た。 しかし878年デーン人にアルフレッドの居たチップナムを急襲され、逃亡を余儀なくされたアルフレッドはアセルニーへ隠棲した。天然の要害であったアセルニーに要塞を建立し、召集兵を再編成、反撃の機を待ちエサンドゥーンの戦い(古英語: Battle of Ethandun、現在のウィルトシャー州エディントン付近)でデーン勢を破りウェセックスを奪還することに成功する。878年ウェドモーアの和議で平和条約を締結し、彼らの勢力範囲をイングランド東北部のデーンロウにとどめ、イングランド統一の基礎を築いた。アルフレッドは軍艦を造らせたり、兵役の交代制を導入するなどの軍政改革を進めた。また、敵の戦術を研究し取り入れたり、情報収集に長けていたとも言われている。これらが功を奏して、アルフレッドはデーン人を退けた。デーン人の船を参考としたアルフレッド型軍艦を建造させ、フリースラントなどから水夫を呼び寄せ、海軍を創設した。882年には4隻の軍艦と海戦し、これに勝利する。886年にはロンドンを掌握。893年以降もデーン勢とたびたび交戦するが、全て撃退されておりアルフレッドの平和を脅かすほどではなかった。なお、デーンロウが回復するのはアルフレッドの二人の子、エドワード長兄王とマーシアの貴婦人エゼルフリダの時代になってからである。アルフレッドはウェールズの学僧アッサーをはじめとし、マーシア出身のプレイムンド、ウェルフェルスなどを招聘し、荒廃したイングランドの学問の復興に当たらせた。 ラテン語の文献を翻訳するなど学芸振興にも力を注ぎ、自らもラテン古典の英訳に携わった。アルフレッドが訳するよう指示したと言われる書物が聖グレゴリウス『対話』『司牧者の心得』、オロシウス『異教徒を駁する歴史』、ベーダ『英国民教会史』、ボエティウス『哲学の慰め』、聖アウグスティヌス『独白』『詩篇』である。そのうち『司牧者の心得』の序文は原典にはなく、アルフレッド作であると言われ、デーン人によるイングランドの文化衰退を嘆く文章となっている。教育に関してもアルフレッドの尽力は評価が高い。前述の学者・学僧などの協力を得て宮廷学校を設立し、自身の子を筆頭に貴族の子などに教育を施した。一方でアルフレッドはアングロサクソン年代記の作成を指示した。9つある写本と断片のうちで一番新しい記事は1154年であり、ベーダの『英国民教会史』などを参考に紀元前からの歴史が約250年の間に書き続けられたことになる。これらのアルフレッドが作成させた年代記や翻訳した文献は古英語の希少な研究対象としての価値も高い。また、アルフレッド法典と呼ばれる法典の編纂を行った。この法典は旧約聖書の十戒など聖書の抜粋から始まり、ケント王エゼルベルト法典・ウェセックス王イネ法典と、イネ法典に強く影響を受けたマーシア王オファ法典などを参考にして編まれた。それに伴って裁判制度の改革を行い、王国をシャイアやハンドレッド (hundreds)に分割し地方裁判をきちんと行わせたり、フランク式誓約[9]を導入したりした。これらの改革によってウェセックスの治安は厳粛に守られた。晩年のアルフレッドはデーン人の侵略によって荒廃したイングランドの復興に従事した。度重なる侵攻によって荒廃したロンドンをアルフレッドは立て直した。この際、当時の主流であった木造建築ではなく石の建材が用いられた可能性がある。ロンドンの他にも外敵からの防衛拠点としての役割を持たせたバラ(borough)の建設など後世に引き継がれていく政策など行っている。

ヨーロッパの歴史上、「大王」と呼ばれる人は滅多にいません。アレキサンダー大王やフリードリヒ大王と並び「大王」と称されるイングランドのアルフレッド大王は、アングロ・サクソン時代最大の名君でした。彼は侵攻してくるデーン人(バイキング)とクローン病という難病と戦いながらも、イングランドのほぼ全域を支配し、全アングロ・サクソン人の王となりました。アルフレッドはイングランド軍を糾合して戦い、何度も敗れて窮地に陥りながらも、878年エディントンの戦で勝利をあげ、ウェドモアの和約でバイキングとの境界を画定、その王グスルムをキリスト教に改宗させました。他にも彼の業績として、軍政改革を進め教育や文化事業を振興し、アルフレッド法典と呼ばれる法典の編纂を行ったことが挙げられます。政治手腕だけでなく、彼は信仰厚く人柄も立派であったようで、死後、聖公会・カトリック教会・正教会で聖人となりました。

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今日の辞世の句 

I love you and my head hurts.

愛してるよ、それと頭を怪我したんだ。

ゲーリー・コールマンの最期の言葉。ゲーリー・コールマン(Gary Coleman、1968年2月8日 - 2010年5月28日)はアメリカ合衆国の俳優である。1978年からテレビ放送された『アーノルド坊やは人気者』の主役アーノルド・ジャクソンを演じた。イリノイ州・ザイオン(シカゴ郊外)に生まれ、看護婦・エドモニア・スーとフォークリフト運転手・W.G.コールマンの養子となる。先天性の腎臓障害があり、後に巣状糸球体硬化症を発症した。さらに腎機能障害に伴う成長不全から小人症となり、身長は4フィート8インチ(142cm)に止まった。1973年と1984年と2度に渡る腎移植を受けており、毎日の人工透析を要していた。ゲーリーはテレビ番組『アーノルド坊やは人気者』に出演し、裕福な白人男性の養子となった黒人少年を演じた。同番組は大成功となり、1978年から1986年まで放映された。ゲーリーは同番組において最も人気のあるキャラクターとなり(劇中での決め台詞もその人気を後押しした)、1話につき10万ドルもの出演料を得るようになった。しかしながら両親、コンサルタント、弁護士、そして税金の支払いの後、彼の手元に残るのは総額の1/4程度に過ぎなかったともいわれる。アーノルドを演じ高額のギャラを稼ぐ子役となったゲーリーだが金銭関係のもつれから親子関係が泥沼化し1989年、830万ドルの信託基金を横領されたと申し立てて実の両親と元マネージャーを提訴している。1993年2月23日に勝訴し、128万ドルの賠償請求が認められた。しかし、1999年には自己破産を申告。その原因は信託財産の運用の誤りだったと申し立てている 。1998年6月30日には女性を数回殴打した容疑で起訴された。当時ゲーリーはショッピングモールの警備員として働いており職務上の必要からカリフォルニア州ホーソンの制服店で防弾チョッキを買っていた時、バスの女性運転手トレイシー・フィールズから紙に1枚サインを求められた。ゲーリーは気前よくサインして返したがトレイシーがその紙をつき返し、もっと何か書いてくれと要求したために口論となった。ゲーリーが彼女に「あんたの態度は不愉快だ」と言うと、トレイシーは「だからあなたはお子さま向けの役者にしかなれなかったのよ」と嘲笑した。法廷でゲーリーは「私は怖くなっていたし、彼女(トレイシー)は醜くなっていた」と証言し、トレイシーから殴られると思ったために殴ったと主張した。彼はイングルウッドの市裁判所で起訴事実を認め、執行猶予付の禁固90日の有罪判決(保護観察1年)を受けた。彼はまたトレイシーに二度と近付かないことを命じられると共に、彼女の治療費1665ドルの支払いを命じられた。トレイシーは、ゲーリーに対して100万ドルの民事訴訟を起こした。この事件は、後にお笑い番組『Chappelle's Show』でパロディにされた。のちに、パソコンゲーム『ポスタル2』にキャラクターとして出演した。2003年にはカリフォルニア州知事選挙に出馬するも、あえなく落選(因みにこの時の当選者がアーノルド・シュワルツェネッガー)。2007年7月26日、ユタ州プロボにて映画の撮影現場で出会った18歳年下の白人女性との「白熱した口論」を目撃され治安紊乱(びんらん)の軽犯罪容疑で警察から召喚を受けた。同年8月28日、上記の口論の相手であるシャノン・プライスと結婚。結婚するまで女性と肉体関係を持った事がなかったと告白している。なお、シャノンは身長142センチのゲーリーよりも30センチ近く背が高かった。2008年9月6日、ユタ州ペイソンのボウリング場で24歳の男性から勝手に写真を撮られたため争いになり、この男性を轢いて軽傷を負わせた。同年12月2日、コールマンは治安紊乱の容疑について自らの非を認め100ドルの罰金を科された。これとは別に無謀運転の容疑でも起訴されたが、これについてはゲーリーが1年間問題を起こさなければ取り下げとなる。しかし、被害者から起こされた民事訴訟は進行中である。2009年7月、ユタ州サンタキンの自宅でシャノンと夫婦喧嘩を起こし警察沙汰になる。シャノンは家庭内暴力の容疑で逮捕されたが、後にゲーリーもシャノンと共に治安紊乱容疑で召喚を受けている。シャノンとの離婚訴訟が進行する中、2010年1月には体調悪化によりロサンゼルスの病院に緊急入院した。2010年1月24日、自宅で暴れていると通報され駆けつけた警察官に以前に請求されていた逮捕状に基づいて身柄を拘束され拘置所で一夜を過ごす。コールマンは以前に軽犯罪での疑いで召喚を受けたが拒否していたと報道されている。同年5月26日、自宅で転倒して頭部を負傷し、ユタ・バレー・リージョナル・メディカル・センターに入院した。翌5月27日の時点では意識があったものの、その後容態が悪化し、翌5月28日に脳内出血のため死亡した。42歳没。

「冗談顔だけにしてよ!」と聞いて何のセリフだか分かったら、あなたはゲーリー・コールマンはを知っています。彼はアメリカの大ヒット大ヒットTVドラマ『アーノルド坊やは人気者』の主役アーノルド・ジャクソンを演じました。『アーノルド坊やは人気者』はコメディながら、麻薬や人種差別問題などシリアスなテーマを取り上げて、全米で爆発的な人気を博し1978年から1986年にかけて全8シーズンで189話が製作されました。日本でも吹き替えで相当数のエピソードが放送され、全国ネットでの放送はなかったものの、各地のローカル局で放送されました。このドラマは、貧民街出身の黒人兄弟が白人の富豪の養子となり同居するという難しい設定で作られましたが、ファミリー向けコメディーとしても非常に優れていました。と同時に、こドラマは出演した3人の子役がその後不幸になったことでも有名です。白人のお姉さんキンバリー役のダナ・プラトーは、放送中だった1984年に妊娠し、同番組への出演中止・解雇され、酒や麻薬への依存もあり女優としての仕事に恵まれず、1991年には強盗の容疑で逮捕、1999年、薬物の過量服用によ34歳で亡くなりました。黒人のお兄さんウィリス役のトッド・ブリッジスは、番組終了とともに人気が低迷し、以後十年近くにわたって麻薬依存症などの問題を抱え、1997年には暴力事件で逮捕されました。黒人の弟アーノルド・ジャクソン役のコールマンは、金銭トラブルによる自己破産を経て、暴行等により繰り返し逮捕・起訴されました。彼の最期は、2010年5月26日に自宅で転倒して頭部を負傷し、2日後に42歳で脳内出血のため亡くなりました。当時の姿を知る者にとっては、無茶苦茶な話です。

アーノルド坊やは人気者
https://www.youtube.com/watch?v=OC-3dHeamms
https://www.youtube.com/watch?v=Yghxi1C3YK0
https://www.youtube.com/watch?v=FvcGv9GzLXc

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今日の辞世の句 

Home to the palace to die…

宮殿へ死にに帰る……。

アレクサンドル2世の最期の言葉。アレクサンドル2世(ロシア語: Александр II, ラテン文字転写: Aleksandr II、アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ロマノフ、ロシア語: Александр Николаевич Романов, ラテン文字転写: Aleksandr Nikolaevich Romanov、1818年4月29日(ユリウス暦4月17日) - 1881年3月13日(ユリウス暦3月1日))は、ロマノフ朝第12代ロシア皇帝(在位:1855年3月2日 - 1881年3月13日)。ニコライ1世の第一皇子、母は皇后でプロイセン王女のアレクサンドラ・フョードロヴナ。幼い頃から未来の皇帝の地位を約束されていたアレクサンドルは、有能な為政者になるべく帝王教育を受けた。帝国を統べるために必要なドイツ語・フランス語・英語・ポーランド語をマスターし、実際に政府機関に勤務して軍事・外交・財政などの政治的教養を身に付けていった。1855年、クリミア戦争がセヴァストポリ要塞の激戦を迎えている最中にニコライ1世が崩御したため、皇帝の座についた。戦局は悪化の一途をたどり、翌1856年3月にロシアは敗北を認めパリ条約を結んだ。クリミア戦争の敗北はロシアの支配階級に大きな危機感を抱かせ、帝国の弱体化の責任は既存の国家体制が抱く「立ち遅れ」に求められた。資本主義化・工業化のような経済発展、自由主義的な社会改革こそがロシアを救うと考えられたのである。農奴制について述べた「下から起こるよりは、上から起こった方がはるかによい」という言葉が示すとおり、アレクサンドル2世自身はこうした国家の西欧化改革を慎重に採用していくことで、伝統的な専制政治を延命させることが出来るという思想を以って改革に臨んだ。このため自由主義者とは改革に対するヴィジョンに最初から齟齬があった。まず政府は旧弊な社会制度の象徴とされた農奴制の解体に着手し、1861年2月19日(3月3日)に農奴解放令を実施した。長期的に見ればこの解放はロシアに工業発展の成果をもたらしたが、その実感は1860年代後半になってから現実のものとなったのであり、解放直後は不十分だとする不満が農民に根強かった。また解放は約4700万人の農民の管理が地主から政府の手に移ったことを意味し、この社会的変化に対応するべく地方自治機関としてゼムストヴォが設置された(ヨーロッパロシア地域のみ)。この機関は地方貴族に地方への影響力を残すと同時に国政参加の機会を与えたが、それでも児童教育・保健事業・貧民救済といった社会の影の部分に目が向けられた。改革は多方面に及び、1864年に断行された司法権の行政権からの独立を始め、国家予算の一本化、徴税請負制の廃止、国立銀行創設といった政府内の構造的近代化・効率化のための施策が矢継ぎ早に行われた。またナショナリズムの要たる国民教育に関しても、ゴロヴニン文部相のもと、1863年の「大学令」で大学を自由化し、翌1864年の「初等国民学校令」「中等学校法」は無償の基礎的公教育を保障した。後任で保守派の代表格であるドミトリー・トルストイも教育改革を熱心に推進し、1871年に女性が教員や公務員となることが許可された。ロシアは女子教育に関しては西欧諸国をはるかに凌いでいた。軍事面での改革は陸相ドミトリー・ミリューチンの努力に負うところが大きい。ミリューチンは1867年に軍規を大幅に整備し、1874年には全身分の男子に対する徴兵制がしかれた。ただし装備などは西欧列強と較べると、いまだ格段に質が悪かった。また聖務会院も変革を期待し、ロシア正教会への働きかけを強めた。しかしこうした改革は帝国に完全な安定をもたらすことは無かった。ポーランドではアレクサンドル2世の治世初期から自治を求める分離主義運動が活発で、デモが頻繁に起きた。ポーランド側は1862年に与えられた部分的な自治権には不満で、ついに1863年の年明けにはポーランドとリトアニアで旧ポーランド・リトアニア共和国を再建しようという一月蜂起が発生し、ベラルーシやウクライナでは民族主義の反乱が起きた。こうした騒乱の鎮圧には1年以上がかかり、ポーランドは自治権を失って、ヨーロッパロシア各地域におけるロシア化政策が強化された。こうした動きや、1866年のカラコーゾフ事件(英語版)、保守派の政治家が政権に参与し始めたこともあって、アレクサンドルの改革は1860年代後半から反動化したという評価が一般的である。事実、ポーランド人とリトアニア人の多くがシベリアに流刑になるか、アメリカ合衆国へ亡命していった。しかし改革は全体的には続行されていたという説もロシアを中心に存在する。皇帝はロシアの孤立状態を危ぶみ、外相アレクサンドル・ゴルチャコフの協力で対ヨーロッパ国際協調路線を模索した。フランスへの接近は失敗に終わり、イギリスやオーストリアとは強い敵対関係から脱却することはなかった。結果としてプロイセンとの友好が考えられ、1873年、バルカン半島をめぐってライバル関係にあるオーストリアを含めた三帝同盟が結ばれた。クリミア戦争以後、ロシア政府はバルカン南下政策に慎重になっていたが、スラヴ主義者のキャンペーン活動に後押しされる形で、1877年にブルガリア保護の名目でオスマン帝国に宣戦した露土戦争では、9ヶ月の戦いの後にアドリアノープルを陥落させて敵側から降伏を引き出した。1878年2月のサン・ステファノ条約では、ロシアの衛星国とすべくブルガリア公国の形成と自治権をオスマン側に認めさせた。しかし列強はこれに猛反発し、同年7月に開催されたベルリン会議ではロシアの影響力を殺ぐ方向で条約内容が大幅に修正された(ベルリン条約)。ロシア側はブルガリア公に皇后の甥アレクサンダーを推すことには成功したものの、ベルリン会議を主催したプロイセンとの同盟関係に疑念を呈する声がスラヴ主義者の間で上がることになった。「人民の中へ」(ヴ・ナロード)をスローガンにしていたためにナロードニキ(人民主義者)と呼ばれていた人々は、皇帝と地主の権力は農民一揆で打倒できるとし、農民の説得に情熱を傾けたが、思うような支持を得られなかった上、政府の厳しい弾圧に遭った。彼らの一部は急進化し、皇帝や高官を暗殺することにより専制政治を打倒しようとし、テロに走った。1867年、フランスを訪問中のアレクサンドル2世はパリで襲撃されたが、この時は難を逃れた。その後も皇帝暗殺計画は再三にわたって企てられ、1880年2月にはアレクサンドル2世を狙った冬宮食堂爆破事件が起きて多数の死傷者が出た。これをきっかけに最高指揮委員会が設置され、下ヴォルガ臨時総督として暴動鎮圧に成果を収めたミハイル・ロリス=メリコフが委員長に任命された。政治を安定させ、内政の改革を進めることがテロや暴動の抑止になると考えたロリス=メリコフは行政改革と財政改革を皇帝に進言し、これを受けて最高指揮委員会は解散され、ロリス=メリコフが内務大臣となった。社会の不安を除くため、人々の怨嗟の的となっていた悪名高い秘密警察・皇帝官房第三部を廃止し、立憲制導入に向けてまず一種の「議会」導入を提案し、一般委員会や国家評議会にゼムストヴォの代表や大都市自治会の代表などを参加させようとした。1881年3月13日、アレクサンドル2世は、没落したシュラフタの家柄で「人民の意志」党員のポーランド人イグナツィ・フリニェヴィエツキ(英語版)の投じた爆弾により、サンクトペテルブルク市内で暗殺された。アンドレイ・ジェリャーボフ(ロシア語版)、ソフィア・ペロフスカヤら暗殺の首謀者は処刑され、暗殺当日に皇帝の承認を受けたばかりのロリス=メリコフの改革案は白紙に戻された。

アレクサンドル2世は農奴を解放したこともあって、比較的評価の高いロシア皇帝です。彼はロシアが国難の時期に皇帝となり、大改革に着手しロシアを資本主義化・工業化することによって経済発展させ、自由主義的な社会改革を実行しようとしました。ただし、彼はあくまで伝統的な専制政治を延命させるために改革を行ったのであって、自由主義者だったわけではありませんでした。列強の中では国力が最弱だったロシアを率いて、オスマン帝国相手に露土戦争で勝利したり、中央アジアへの本格的な進出や開発も始まった。トルキスタン地方ではブハラ・ハン国(1868年)、ヒヴァ・ハン国(1873年)を次々に保護下におき、アロー戦争に忙殺されていた清と、1858年のアイグン条約および天津条約、1860年の北京条約を次々に結び、沿海州(現在の沿海地方)を獲得して不凍港ウラジオストクを建設したりしました。彼の東アジアに対する侵略的な意図は、ウラジオストク(東方を支配する町)という名を持つ極東政策の拠点となる軍事・商業都市を建設したことからも明らかです。アレクサンドル2世の私生活は、1841年、ヘッセン大公ルートヴィヒ2世の末娘マリーと恋愛結婚したのですが、結婚後、アレクサンドルの妻への愛情は急速に冷め、間に8人の子供を儲けつつ、他の貴族女性との関係を繰り返し、3人の私生児を作りました。また1865年の皇太子ニコライの急死は、皇帝をひどい鬱状態に陥らせ、妻や家族など周囲との溝をさらに深める原因となりました。1866年、48歳のアレクサンドル2世は、没落貴族の娘でスモーリヌイ女学院の女学生であった、エカチェリーナ・ドルゴルーカヤ公爵令嬢(愛称カーチャ)と出会い、二人はカーチャの卒業を待って恋愛関係になり、4人の子供が生まれて幸福な「家庭」生活を築きました。当然この関係は明るみに出て、皇太子アレクサンドルを始めとする多くの人々の非難を受けました。1880年5月に皇后マリアが没すると、皇帝は教会法および家族の反対を無視して、カーチャと貴賤結婚をするに至ったのですが、当然ながら、この結婚はロマノフ家の人々の容認するところとならず、皇帝の死後カーチャとその子供達は南仏ニースに追放されました。この辺りの彼の私生活における不幸は、彼の政治・政策にも多少の影を落としているように思われます。最終的に彼は暗殺されたのですが、彼は再三命を狙われていたのですが、特にナロードニキ(人民主義者)という1870年代にロシアで活動した社会運動家たちに恨まれていました。ナロードニキによるとアレクサンドル2世によって、農奴は確かに解放されたものの、実態は賃金奴隷として売られ地主が資産家に代わったに過ぎず、彼らは哲学的、政治的議論にとどまらない即時の革命を求めました。そこで、小作農らに反乱を説得して回ったのですが、中流以上の出身者が多かったため小作農達の理解を得られなかったどころか、農民たちから不審者として扱われ、自警団に追われて農具で回復不能の暴行を受けたり、魔女と見なされて裁判にかけられ火刑に処された者も少なからずいたというありさまでした。当然ながらロシア帝国内務省警察部警備局はナロードニキを弾圧し、そのためナロードニキの秘密結社「土地と自由」から分裂した過激派によって1879年にロシア初の革命グループ「人民の意志」が組織されました。。彼らは「最終的には革命は大衆の参加を必要とする」と考えていたがそのために最初に皇帝を暗殺して大衆の価値観を変え、反乱勃発を促そうとし、数々のテロ事件を起こしまし、1881年3月1日にソフィア・ペロフスカヤ指揮のもとでアレクサンドル2世の暗殺に成功しました。しかし、小作農が概してこの殺人におじけづいたことに加え、政府は多くの「人民の意志」の主導者を絞首刑に処したことにより、グループの組織は衰弱と機能不全を招き、活動は短期的に停滞しました。しかし、このテロ活動は、国内外の革命家やテロ組織に大きな影響を与え、後の社会革命党、人民社会党、トゥルドーヴィキ(Trudoviks)はナロードニキと同様の思想と戦術を採用したため、ナロードニキの方針と活動は1905年と1917年のロシア革命への道筋を開いたものと評価されてきました。しかし、いくらなんでもこの解釈には無理があると思います。アレクサンドル2世は、ロシアの人民を完全に満足させるような政策を取ったわけでもないですが、後を継いだ息子のアレクサンドル3世が、大保守主義者であり、積極的に国内反体制派や異民族を弾圧し、皇帝権力の強化と体制維持に努めたために、社会不安がますます増大してしまったことを思えば、アレクサンドル2世が暗殺されてしまったのは、ロシア人民にとって良かったことではありませんでした。上記の言葉について、ロシア語の原文を見つけることはできませんでした。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

(Blue Blazerというレスラーに扮して)

Ooh, the Godfather! Just saying his name makes my blue blood boil! Ooh, the Godfather, my arch-nemesis! He represents everything that's wrong with the WWF! But fear not, because I, the Blue Blazer, will always triumph over evil-doers! And you know why? Because I always take my vitamins, say my prayers, and drink my milk! WHOOOO!

おお!ゴッド・ファーザー、あなたの名を口にすると、私の高貴な血が煮え立つ! おお!ゴッド・ファーザー、我が大敵! 彼が示す全てがWWF(World Wide Wrestling Federation)を誤らせる! しかし、恐れない、なぜなら私だから、ブルー・ブレイザーは常に邪悪な者達から勝利を得てきた。なぜか分かるか? それは私が常にビタミンを与えてきたからだ。我が信奉者たちよ言ってくれ、そして我がミルクを飲むのだ! うおおお!

オーエン・ハートの最期の言葉。オーエン・ハート(Owen James Hart、1965年5月7日 - 1999年5月23日)は、カナダ・アルバータ州カルガリー出身のプロレスラー。プロレスの名門ハート・ファミリーの出身で、父はスチュ・ハート。12人兄弟の末っ子で、兄にブレット・ハートなどがいる。大学を中退後、1986年5月24日にプロレスラーとしてデビュー。2年後には新日本プロレスに参戦。山田恵一や馳浩らと名勝負を繰り広げ、IWGPジュニアヘビー級王座も獲得している。1988年にWWF(現・WWE)と契約。ブルー・ブレイザー(The Blue Blazer)という鳥をモチーフとしたスーパーヒーローのギミックを与えられ、マスクマンに扮しての登場であった。同年のレッスルマニア登場以降、一旦WWFを離脱。各地のインディー団体を主戦場とした。1991年にWWFと再契約。素顔のオーエン・ハートとしてWWFに登場するようになる。以降、1990年代全般に渡ってWWFに定着し、ココ・B・ウェアとのタッグチーム「ハイ・エナジー」、兄たちと共に「ハート4兄弟」としてのサバイバー・シリーズへの登場、ヒール転向後の兄ブレットとの抗争、また義兄のジム・ナイドハートやデイビーボーイ・スミスとのタッグなどで活躍。ハルク・ホーガンの離脱などWWFの有力レスラーが次々とWCWに引き抜かれ、WWFが倒産寸前まで追い込まれた時期は、ブレットやショーン・マイケルズらと共に団体を支えた。また、ハート・ファウンデーションの一員であったが、モントリオール事件以降もWWFに残留した。1999年に入り、WWFデビュー時のギミックであるブルー・ブレイザーを復活させた。同年5月23日、ミズーリ州カンザスシティで開催されたPPV "オーバー・ジ・エッジ" において、天井から吊るされて入場する予定であったがワイヤが外れて転落、リングに叩きつけられた。この事故が原因で同日死去した。事故の翌日に放映されたRAWは、オーエンを追悼する内容となり(Raw is Owenとして放送)、多くのレスラーが弔意を示した。また兄のブレットはビンス・マクマホンを責め、事故後もPPV収録を継続したことに対しての批判も集まった。

おおよそ一般の人たちは、プロレスとは頭の悪いものだと考えておられるかと思われますが、事実頭悪いです。プロレスは格闘技としてよりショーとしての要素を多く持っているのですが、それは時代と共に過激化し、最終的に常人の理解を絶するものにまでなりました。オーエン・ハートは人気レスラーだったのですが、天井から吊るされて入場するはずのところが、ワイヤーが切れてリングに叩きつけられて亡くなるという、もの凄い死に方をしました。しかし、彼がこんな危険な仕掛けでショーアップしなければならなかったことには、事情があります。当時WWF(現WWE)はWCWという別のプロレス団体との人気争いに敗れ、人気レスラーが流出して団体が破産寸前になっていました。そこでWWFはWCWに対抗するために、それまでのファミリー路線から下品で過激さを持つアティテュード路線へ転換したのですが、これはプロレスは健全であるべきと考えるWWFのレスラーから不興を買いました。WWFの路線変更に対する批判の急先鋒にいたのが、オーエンの兄ブレットだったのですが、彼は見せしめとして1996年に締結したはずの20年契約を破棄されて解雇されてしまいました。この路線変更により、WWFは息を吹き返したのですが、それは同時に所属するレスラー達に危険で過激なパフォーマンスをさせるということでした。オーエンはデビュー当時の、ブルー・ブレイザー(The Blue Blazer)という鳥をモチーフとしたスーパーヒーローのギミックをやらされ、事故により亡くなってしまいました。オーエンは病院へ運ばれたが程なくして帰らぬ人となったのですが、視聴率を稼ぐことに躍起になっていた会社は、若干の中断はあったものの放送していたTV番組をその後最後まで放送しました。当然ながらこのことに対してオーエンの実兄のブレットなどからWWFに対して強い批判が集まりました。さて、上記の言葉についてですが、何言ってるか分からないと思います。この言葉は試合が始まる前のマイクパフォーマンスによる言葉であり、煽り文句なので意味そのものは重要ではないかもしれません。分かる範囲で説明しますと、ゴッドファーザーというのは、当時のIC王座で彼と試合するはずだったザ・ゴッドファーザーというレスラーのことです。blue bloodは高貴な血という意味があるのですが、これはBlue Blazerというリングネームとかけたのでしょう。しかし、それ以外の部分となると、何を言っているのか全くお手上げです。仕事とはいえプロレスラーというのは、こんなバカなことを言わなくてはいけないので大変ですね。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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