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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

(無心論者のバーに神の存在を認めさせようとする友人に向かって)

On that subject I am coy.

この件に関しては私は無口なんだよ。

アーロン・バーの最期の言葉。アーロン・バー・ジュニア (Aaron Burr, Jr., 1756年2月6日 - 1836年9月14日) は、アメリカ合衆国の政治家および冒険者。彼はニューヨーク州の民主共和党設立の主要メンバーおよびジョージ・クリントン知事の支援者であった。彼はトーマス・ジェファーソン大統領下の第3代副大統領としてよりも、アレクサンダー・ハミルトンとの決闘および反逆罪での裁判と罪の免除に関して有名である。バーはニュージャージー州ニューアークで、ニュージャージー大学(今のプリンストン大学)の第2代学長アーロン・バー・シニアの息子として生まれた。彼の母親エスター・エドワーズは、有名なカルビン主義の神学者ジョナサン・エドワーズの娘であった。彼はもとは神学を学んだが2年後にすぐにそれをあきらめ、コネチカット州リッチフィールドで彼の義理の兄弟タッピング・リーヴの手引きで法律を学び始めた。彼の勉学はアメリカ独立戦争のために中断された。戦争の間彼は、ベネディクト・アーノルド、ジョージ・ワシントンおよびイズラエル・パットナムの下で働いた。アメリカ独立戦争中バーはベネディクト・アーノルドの1775年のカナダ遠征軍に加わった。そしてケベックの戦いの前に彼はローマカトリックの司祭に変装し、リチャード・モントゴメリー将軍にアーノルドの到着を知らせるため、イギリス軍下の120マイルの危険な旅行をした。バーはケベックから退却する際戦死したモントゴメリーを運んだとされる。バーの勇気ある行動はワシントンのスタッフへの採用に繋がった。しかしながらワシントンはバー少佐を信頼したわけではなかった。一方イスラエル・パットナムはバーをかばい、ロングアイランドからの退却でバーは警戒行動によって敵による捕獲から全旅団を救った。1777年7月にバーは中佐に昇進し連隊の指揮を引き受け、冬のバレーフォージではガルフと呼ばれた宿営地に通じる道で、攻撃されるとすれば必ず最初のポイントとなる所の防御に着いた。1778年6月28日のモンマスの戦いでは、スターリング卿師団下のマルコム旅団を指揮した。彼らはイギリス軍の砲撃によって10分の1に激減し、バーは熱中症に苦しんだ。彼はその病から快復することは出来なかった。1779年1月にバーはウェストチェスター郡のライン、キングスブリッジのイギリス軍と約15マイル北に位置するアメリカ軍との間の地域の指揮を割り当てられた。この地域では多くの混乱とホイッグおよびトーリーの両陣営による不法行為、両軍の指揮を離れた兵士による略奪行為が行われていた。バーは完全な巡回システムと厳格に強化した戒厳令を敷き、素早く統制を回復した。彼は病気が原因で1779年3月に軍を退役し、再び法律を学び始めた。彼は1782年にオールバニーで法曹界入りし、翌年イギリス軍の撤退後にニューヨークで弁護士業を始めた。バーは1782年にセオドシア・バートウ・プレヴォスト(アメリカ独立戦争中に西インド諸島で戦死した英国陸軍士官の寡婦)と結婚した。彼らは二人の娘をもうけた。下の娘サラは三歳で死亡し、1783年に生まれた上の娘セオドシアはその美貌と業績で広く知られるようになった。彼女は1801年にサウスカロライナのジョーゼフ・アルストンと結婚したが、1812年末もしくは1813年の初めにカロライナで難破で死亡した。アーロン・バーと最初の妻は彼女が癌で死亡するまで12年間の結婚生活を営んだ。1833年にバーはスティーヴン・ジュメルの寡婦イライザ・ボウエン・ジュメルと再婚した。イライザは彼女の財産が夫の土地投機で減少していることを悟り、彼らは四ヶ月後に別居した。彼らの結婚一周年記念の月に彼女は離婚を訴え、それはバーの死去した1836年9月14日に認められた。バーのニューヨーク法曹界におけるライバルはアレクサンダー・ハミルトンであった。バーは1784年から1785年までニューヨーク州議会議員であったが、ジョージ・クリントンが彼をニューヨークの司法長官に任命した1789年から政治に大きく関わるようになった。彼は1791年に革命要求委員会の委員であった。また同年、彼は連邦上院議員に当選し1797年まで同職を務めた。彼は上院に再選されず、その代り1798年から1801年までニューヨーク州議会議員を務めた。全国的な政党が結成されると、彼は民主共和党に入党した。バーはニューヨーク州の政界における重要人物となり、ハミルトンよりも影響力を持つようになった。それはタマニー協会の後ろ盾によるものであり、バーはタマニー協会を社交クラブから政治組織に変化させた。当時の奇妙な出来事の一つとして、フランス革命の間に外交官のタレイランが恐怖政治から逃れバーのニューヨークの自宅に身を寄せた。後年バーが反逆裁判の後アメリカを出国したが、タレイランはバーのフランス入国を拒絶した。バーは1804年の大統領選挙ではジェファーソンの副大統領候補として出馬しなかった。代わりにニューヨーク州知事選に出馬した。アレクサンダー・ハミルトンは1792年の大統領選挙でのバーの副大統領候補選出への希望に反対し、1798年にはバーが准将に任命されるのを防ぐためにワシントンを通じて影響を及ぼした。仇敵のハミルトンは知事選の際にはバーへの侮辱的な演説を行った。二人は法曹界に於いて長年のライバルであった。バーは決闘を申し込むことで応えた。1804年7月11日にバーとハミルトンはニュージャージー州ウィホーケンで決闘を行い、ハミルトンは下胸部に銃弾を受け翌日死亡した。バーはその後二つの州に於いて殺人罪で告発されたが、両管轄において審判されることはなかった。彼はサウスカロライナ州に逃亡し、その後ワシントンD.C.に戻り副大統領としての任期を全うした。1833年にバーはスキャンダラスな過去を持つニューヨークの裕福な寡婦イライザ・B・ジュメル (1769-1865) と再婚したが、すぐに別居した。原因はバーが土地投機で彼女の財産を失ったことであった。バーは1836年にニューヨーク州スタテン島のポート・リッチモンドで死去した。伝えられるところによれば後年バーは、以前のスキャンダルに関係していなかったアーロン・エドワーズ(Aaron Edwards, エドワーズは母親の旧姓)の名を名乗っていたとされる。

アーロン・バーは副大統領としてよりも、アレクサンダー・ハミルトンとの決闘および反逆罪での裁判と罪の免除に関しての方が有名という不思議な人です。彼は元々は軍人であり、なかなか勇敢な人でしたが、病気が原因で1779年3月に軍を退役し、弁護士となりました。バーは慈善団体として発足したタマニー協会の会長に就任すると、この協会を政治的マシーンに変貌させ後ろ盾とし、市政では民主共和党の中心にまで登り詰めました。バーは自身が副大統領に当選した1800年の大統領選では協会をフル活用したこともあり、協会が無ければ現職のジョン・アダムズが再選されていたであろうと言われています。バーはニューヨーク法曹界におけるライバルであったアレクサンダー・ハミルトンよりも影響力を持つようになりましたが、両者の憎悪は深く、ジェファーソンが大統領就任後に、バーではなくハミルトンの起用を選択したことはバーに対するハミルトンの最初の打撃となりました。その後もハミルトンはバーに対する妨害を続け、最終的バーははハミルトンに決闘を申し込みました。1804年7月11日にバーとハミルトンはニュージャージー州ウィホーケンで決闘を行い、ハミルトンは下胸部に銃弾を受け翌日死亡しました。当然、バーは二つの州に於いて殺人罪で告発されましたが、バーは逮捕から逃れるためにフィラデルフィアに向かい、その後ジョージア州の沖合にあるセント・サイモンズ島に寄寓しました。また島へ船出する前に駐米イギリス公使と密会し、イギリスがアメリカ西部を分離させようとするなら協力する旨を伝えたりもしています。ほとぼりが冷めると、バーは何事もなかったかのように上院の議長席に現れ、そのまま副大統領としての任期を全うしました。副大統領退任後、バーは西部に赴いたのですが、1807年に西部をアメリカから分離させる陰謀を企て、反逆罪の容疑で逮捕されました。しかし、バーは無罪となり、その後ヨーロッパに渡り南西部に新たな国家を建設する案をイギリスやフランスに持ちかけましたが失敗しました。1812年5月、アメリカに戻ったバーはニュー・ヨークで弁護士業を再開した。その時までにバーに対する告訴は取り下げられていました。バーの最期は1836年に心臓発作で亡くなりました。現職の副大統領で決闘で人を殺し、退職後反乱を企てた人など、アメリカ史上バー一人だけでしょう。ジョン・クインシー・アダムズは、「総じて見るに、バーの人生は、健全なるモラルの国であればどこでも、友人たちが忘却のかなたへ葬ってしまいたいと望むようなものだった」とバーを評していますが、もっともな意見です。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

französisch: Ètiez-vous à Sedan?

私たちはセダンで卑怯者ではなかっただろう?

ナポレオン3世の最期の言葉。ナポレオン3世(Napoléon III, 1808年4月20日 - 1873年1月9日)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年 - 1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 - 1870年)。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)であり、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る以前については一般にルイ・ナポレオンと呼ばれている。本項でもそのように記述するものとする。1808年にフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟ルイ・ボナパルトの息子として生まれるが、1815年にナポレオンが反フランス連合軍に敗退すると、新たにフランスの統治権を握ったブルボン家の復古王政によって国を追われ、亡命生活を余儀なくされた。1830年に復古王政が倒れてルイ・フィリップの7月王政が樹立されるも、帰国は認められなかった。ボナパルト家の帝政復古を夢見て国外から策動し、1836年にストラスブール、1840年にブローニュで武装蜂起するも散々な失敗に終わり、終身刑に処されてアム要塞に投獄された。5年半に及ぶ獄中生活を利用して政治研究に明け暮れ、1844年に著した『貧困の根絶』の中で労働者階級の保護を主張し、貧困層に新たなボナパルティズムをアピールした。1846年にアム要塞を脱獄する。1848年革命で7月王政が倒されて第二共和政が樹立されると、フランスへ帰国して大統領選挙に出馬し、王党派の消極的な支持や「ナポレオン」の名の高い知名度によって当選を果たした。しかし第二共和政の大統領の権力は弱く、はじめ共和派、のち王党派が牛耳るようになった国民議会によって主導権を奪われ続けた。1851年に国民議会に対するクーデタを起こし、大統領権限を大幅に強化した新憲法を制定して独裁体制を樹立する。1852年には国民投票のうえで皇帝即位を宣言し、第二帝政を樹立、「ナポレオン3世」と名乗るようになった。その治世の前期は「権威帝政」と呼ばれる強圧的な統治だったが、1860年代には「自由帝政」と呼ばれる自由主義的な統治に転換した。内政ではサン=シモン主義を背景に金融改革を起こして産業融資を行う近代的金融業の確立に努め、鉄道建設に投資を振り向けさせた。またパリ改造によって現代のパリの基礎を築いた。一方外交面ではクリミア戦争でイギリスと同盟してロシア帝国に対して勝利したことでヨーロッパ国際政治の中心・バランサー的存在となった。イタリア統一戦争ではサルデーニャ王国とともにオーストリア帝国と戦うも、サルデーニャに独断で早々にオーストリアと休戦協定を結び、以降教皇領の保護にあたるなどイタリア統一にブレーキをかけるようになった。非ヨーロッパ諸国に対しては帝国主義政策をもってのぞみ、アフリカやアジアの諸国を次々とフランス植民地に組み込んでいった。その治世下にフランス植民地帝国は領土を3倍に拡張させた。ナポレオン3世の権力はこうした外交的成功によって支えられている面が多かったが、メキシコ出兵の失敗で国内的な地位を弱めた。さらに小ドイツ主義統一を推し進めるプロイセン王国と対立を深め、スペイン王位継承問題を利用したプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクの策動により、1870年にプロイセンに対する宣戦布告に追い込まれ、何の準備も出来ていない状態で普仏戦争へ突入する羽目になった。フランスは緒戦から連敗し、セダンの戦いにおいてはナポレオン3世自身がプロイセン軍の捕虜になった。これにより求心力を決定的に落とし、パリではクーデタが発生して第二帝政は打倒され、フランスは第三共和政へ移行した。プロイセン軍から釈放された後、ナポレオン3世はイギリスへ亡命した。復位を諦めず、クーデタを起こすことを計画していたが、実行に移す前に1873年に同国で死去した。皇后はスペイン貴族のウジェニー。彼女との間に唯一の子である皇太子ルイ(ナポレオン4世)を儲けた。この息子は1879年に南アフリカのズールー戦争に従軍し、戦死した。ルイに子はなかったため、フランス皇位請求者の地位はナポレオン3世の従弟ナポレオン公の子孫に移り、現在に至っている。

ナポレオン3世は一般的には無能とされている人ですが、軍事はともかく政治的には中々優秀な人でした。特に非ヨーロッパ諸国に対しては非常に厳しい政策を取り、アフリカやアジアの諸国などをフランスの植民地にしました。彼はナポレオンがワーテルローの戦いに敗れると、国を追われ亡命生活を送ることを余儀なくされました。亡命生活中は、朝6時から夜9時まで続く猛勉強の生活を送るようになったかと思えば、旅行に出たり社交界で女性と親しくしたりと、ムラのある生活をしていました。ギムナジウムにも通いましたが、成績は並み程度でした。フランスで7月革命が発生し、ブルボン家の復古王政が打倒されると、ナポレオン2世による帝政復古のチャンスと見て色めき立ちましたが、肝心のナポレオン2世がオーストリア宮廷に事実上幽閉されている身だった上、病を患っていたため、ボナパルト家復興の先頭に立つことができず、オルレアン家のルイ・フィリップ公爵をフランス王に即位しました。しかもルイ・フィリップ王は9月にボナパルト一族の追放を法律で確定させ、これにはナポレオン3世も落胆したそうです。その後、イタリア統一運動に参加して挫折、1832年にスイス国籍を取得し、いつの日かルイ・フィリップから王位を奪ったり、あるいはルイ・フィリップが自分を必要とするようになる光景を妄想しながら、1832年5月には『政治的夢想』(Les Rêveries politiques)を書くなど文筆活動に勤しんでいました。1836年10月30日にストラスブール一揆を起こし失敗、ルイ・フィリップ王は一揆の惨めな失敗と世論の嘲笑を聞いて安堵し、寛大な処置を取り、ナポレオン3世は裁判にかけられることなく、アメリカ合衆国に国外追放されるだけで済まされました。アメリカでは社交界から歓迎されたものの、放蕩生活を送ったため、まもなくホテル代にも困って娼婦の所に身を寄せるはめになり、母親が亡くなり莫大な財産を相続してロンドンの豪邸へ移住しても、女遊びの放蕩生活が止められず、3年ほどで母の財産を全て使い果たしてしまいました。しかし、当時のフランスではナポレオンは実像よりもかなり左翼的に美化され、人気が復活し始めていました。この親ナポレオン・ムードを好機としてナポレオン3世はド・ペルシニーとともに再度の武装蜂起計画を企て、1840年8月4日にルイ・ナポレオンはシャルル=トリスタン・ド・モントロン将軍以下54名の部下を率いて、ブローニュ一揆を起こしましたが、前回の一揆同様に応じる将兵はおらず失敗しました。ナポレオン3世以下一揆勢は全員憲兵隊によって逮捕され、ナポレオン3世は終身刑となりました。1840年10月7日、パリ北方のソンム県アムにあるアム要塞に投獄され、ナポレオン3世は読書と政治研究に明け暮れる生活を送りました。父ルイ・ボナパルトの死期が迫っていることを知ると、ルイ・フィリップ王に仮出獄を求めましたが、認められなかったので、脱走の大義名分を得たと考えたナポレオン3世はかねてから計画していた脱走計画を実行しました。この脱走は成功し、父の莫大な財産を一人で相続しましたが、同志たちへの資金援助や女との交際費で激しく浪費し、あっという間に使い果たしてしまいました。1848年2月にフランス・パリで2月革命(1848年革命)が発生し、18年続いたルイ・フィリップの7月王政が打倒されると、穏健な共和主義者らが中心となって臨時政府が樹立さました。。第二共和政が失業者に仕事を与えるために創設した国立作業場の閉鎖後に起きた六月蜂起が容赦なく弾圧されると、労働者は共和国を支配するブルジョワに強い憎しみを持つようになり、そのためいよいよ右翼を頼りにするようになったブルジョワにより、議会は保守化しました。議会は12月の大統領選挙までの一時的政権として6月24日にカヴェニャック将軍に全権を委任、一種の軍事独裁政権を樹立したため、労働者から2月革命への幻想が消え、ルイ・ナポレオンが割って入る隙が生まれました。ナポレオン3世は代議士となり、議会は彼の追放を定めた法律を正式に破棄しました。1848年12月10日の大統領選挙に出馬すると、右翼の秩序党が「御しやすそうな神輿」としてナポレオン3世を支持し、オルレアン派の重鎮ティエールも「最小の悪」としてナポレオン3世を支持しました。彼はユダヤ金融業者アシーユ・フールやミス・ハワードらの資金援助を受け、あらゆる党派に対して八方美人的に支持を訴えました。選挙の結果、ルイ・ナポレオンは553万票(得票率74.2%)を獲得して圧勝し、かくして二年前には脱獄囚だった男がいまやフランス大統領となりました。大統領になったナポレオン3世は共和派への圧力を強め、秩序党のイニシアチブのもと次々と保守的な法案が可決されていきました。議会を人民裁判所に告発するという脅迫を行いつつ、議会に対して自分の俸給を60万フランから300万フランに増額するよう求めました。カール・マルクスはこのやり口を著書『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中で手厳しく批判していますが、マルクスによれば「国民一人から選挙権を奪う金額を1フランとして合計300万フランを要求した」のだという。議会はこの要求を拒否しましたが、結局今回限りの一時給与として216万フランの支給を認めるという弱腰を見せました。1851年12月2日「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター」を決行し、12月20日と21日に行われたクーデタの信任投票では743万票の賛成、64万票の反対、170万票の棄権という圧倒的信任を受けました。クーデタに成功したルイ・ナポレオンは伯父ナポレオンが制定した共和暦8年憲法をモデルにした憲法草案を作らせ、これを1851年12月21日と22日に国民投票にかけて92%の賛成票を得たうえで、1852年1月14日に新憲法として公布しました。この憲法により大統領はほとんど絶対君主も同然の独裁権を得ました。当初は多少のためらいがありましたが、1852年11月に入るとルイ・ナポレオンは皇帝即位を最終的に決断し、国民投票は11月21日と22日に行われ、782万票の賛成、25万票の反対、200万票の棄権により国民から承認され、12月2日にルイ・ナポレオンはサン=クルー城を出てパリへ入り、正式に帝政宣言を行って「ナポレオン3世」と名乗りました。第二帝政期にフランス経済は急成長したのですが、その原因については、第二帝政期以前の産業革命の結果であり、第二帝政期はその歩みを継続させただけにすぎないとする説もあれば、ナポレオン3世のサン=シモン主義的な経済問題への取り組みのおかげとする説もあります。たしかにナポレオン3世はテクノクラート重用、関税大幅引き下げ、道路・鉄道の整備、スエズ運河建設、アジアへの積極的な植民地化政策などサン=シモン主義的な政策を遂行し、フランスの国力を充実させました。その他、パリ改造を行ってパリを近代的な都市に作り変えたり、ロシアに対してクリミア戦争を主導して勝利し、フランスの国際的な地位を高めたりもしました。さらに、ナポレオン3世は植民地支配を強化して行き、アルジェリア、サハラ以南アフリカ、マダガスカル、アジア太平洋地域らを植民地としました。得意になったナポレオン3世はメキシコにも出兵しましたが、1863年6月にはフランス軍がメキシコシティを占領した辺りから反仏ゲリラ闘争が激化し、さらにはアメリカと事を構えるのは危険と判断しメキシコから撤兵しました。メキシコ出兵の失敗で第二帝政の権威は地に落ち、ナポレオン3世の治世に暗雲が立ち始めました。普墺戦争をめぐっては両国の対立を激化させてフランスが漁夫の利を得ることを考え、戦争の開始時に中立を宣言しましたが、ケーニヒグレーツの戦いでのプロイセンの勝利により、ナポレオン3世の予想に反してわずか3週間足らずで勝敗が決してしまいました。フランスは両国の仲裁を行いましたが、特に得るものもなくナポレオン3世の思惑は当てが外れてしまいました。ナポレオン3世がこの戦争において全体的に弱気・消極的であったのは、持病を悪化させていたためだとされています。その後、オランダ王ウィレム3世からルクセンブルクを購入しようとして、ドイツ人の逆鱗に触れウィレム3世は売却を中止しました。この問題により普仏関係は決定的に悪化し、スペイン王位継承問題において、ビスマルクがプロイセン国王ヴィルヘルム1世から受け取った電報に意図的な編集を行って世間に公表したため、全ドイツでドイツ・ナショナリズムと反仏感情が爆発し、一方でフランスでも反プロイセン感情が爆発したため、ナポレオン3世は戦争を望んでいなかったにも関わらず、普仏戦争へと引きずり込まれました。ほとんど戦争準備をしていなかったフランス軍は、アルジェリア兵も動員しても総兵力は35万人程度で、プロイセン軍を中心とするドイツ連合軍は50万の兵力を擁していました。さらに、フランス軍は弾薬が圧倒的に不足していた上に、プロイセン軍に比べて装備も貧弱でした。ロレーヌ地方フォルバックとアルザス地方ヴールトでプロイセン軍に敗北を喫し、プロイセン軍にモーゼル川を突破された後、ナポレオン3世はパリに退却することも考えましたが、結局セダン要塞に籠城することになり、同要塞は9月1日からプロイセン軍の激しい砲撃に晒されました。ナポレオン3世は「私に兵士を殺す権利はない」として、セダン要塞に白旗を掲げさせ、プロイセン王ヴィルヘルム1世のもとへ使者を送って降伏する旨の手紙を届けさせました。ナポレオン3世はヴィルヘルムシェーヘ城に幽閉され、オルレアン派のアドルフ・ティエールがフランス政府首班となると、ティエール政府は3月1日にこのような屈辱的な休戦協定を締結する羽目になったのはすべて第二帝政のせいであるとし、ナポレオン3世の廃位を正式に宣言しました。ナポレオン3世はイギリス亡命しまし、クーデタの計画を立てたりと未だに野望を捨てていませんでしたが、健康の悪化には勝てず1873年1月9日の午前11時頃に死去しました。64歳でした。ナポレオン3世が後世に大きく名を落とした大きな理由に、マルクスとユーゴーに批判されたことが挙げられます。ナポレオン3世は政治的に優れた業績もあったのですが、この二人の大偉人に口を極めて批判されたのでは、ナポレオン3世に名誉の回復の余地はありませんでした。

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今日の辞世の句 

I'm bored with it all.

何もかも嫌になったよ。

ウィンストン・チャーチルの最期の言葉。サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(英語: Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA、1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリスの政治家、作家、軍人。1900年に政界入りした。はじめ保守党の政治家だったが、1904年に自由党へ移籍し、自由党政権で閣僚職を歴任した。第一次世界大戦時には海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導した。1925年に保守党へ復党し、大蔵大臣を務める。1930年代の停滞期を経て、第二次世界大戦の開戦とともに海軍大臣となる。1940年に首相となり、1945年に退任するまでイギリスの戦争を主導した。チャーチルの半ば独裁的な指導のもとにイギリスは戦争を戦い抜き、アメリカとソ連に並ぶ戦勝国の地位を得た。しかしイギリス軍は大戦中にドイツ軍や日本軍に惨敗して威信を傷つけられることが多く、植民地での反英闘争激化を招いた。その結果、イギリスは戦後に植民地のほぼ全てを失うこととなり、世界一の植民地大国の座を失って米ソの後塵を拝する国に転落した。1951年に再び首相を務め、米ソに次ぐ原爆保有を実現した。1955年4月にアンソニー・イーデンに首相職を譲って政界の第一線から退いた。ノンフィクション作家としても活躍し、1953年にはノーベル文学賞を受賞している。1874年に第7代マールバラ公爵の三男で政治家のランドルフ・チャーチルの長男としてオックスフォードシャーのウッドストックにあるブレナム宮殿で生まれる。母はアメリカ人のジャネット夫人。祖父がアイルランド総督に任じられ、また父のランドルフがその秘書となった関係でアイルランドで幼少期を過ごす。1888年にパブリックスクールのハーロー校に入学するも、成績が悪かったため、大学に進学せず、1893年6月にサンドハースト王立陸軍士官学校に入学した。父の死後の1895年4月に第4女王所有軽騎兵連隊の騎兵将校となった。1895年11月にはスペイン軍に従軍して蘭領キューバの反乱軍と戦い、初めての実戦経験を得る。1896年より連隊とともに英領インドに派遣され、セカンダラバードでインド人召使に囲まれた生活を送る。1897年にはインド西北部のパシュトゥーン人の反乱の鎮圧戦に参加した。この時の戦争体験を初めての著作『マラカンド野戦軍物語』に記した。1898年のスーダン侵攻にも第21槍騎兵連隊に所属して従軍し、オムダーマンの戦いに参加した。戦後この戦いについての『河畔の戦争』を著した。1899年に一度除隊し、オールダム選挙区の庶民院議員補欠選挙に保守党候補として出馬するも落選した。1900年の第二次ボーア戦争には従軍記者として従軍したが、ボーア人の捕虜となる。しかし同年のうちに捕虜収容所から脱走し、これが話題となって知名度を上げる。その後再び騎兵将校として再入隊し、ボーア戦争の第1段階の終わりであるトランスヴァール共和国首都プレトリアの占領まで戦った。この後のゲリラ戦と化した第2段階には従軍せず、帰国。ボーア戦争に関する『ロンドンからレディスミスへ』と『ハミルトン将軍の行進』の2作を著した。ボーア戦争中のカーキ選挙である1900年の解散総選挙にオールダム選挙区から保守党候補として出馬し、初当選を果たす。しかし植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンが大英帝国外に対する保護貿易論である帝国特恵関税制度の導入を主張するようになると、自由貿易主義者としてそれに反発し、自由貿易護持の立場を明確にしようとしないアーサー・バルフォア首相や保守党を見限り、1904年5月には自由党へ移籍した。関税問題に揺れるバルフォア保守党政権は1905年12月に総辞職し、ヘンリー・キャンベル=バナマンを首相とする自由党政権が発足すると、植民地省政務次官として政府に参加。植民地省政務次官としてイギリスに併合されたボーア人に対する融和政策や中国人奴隷問題の処理など英領南アフリカにまつわる問題に取り組み、また英領東アフリカの視察旅行を行った。1908年、33歳のときにはハーバート・ヘンリー・アスキス内閣の通商大臣に就任した。デビッド・ロイド・ジョージとともに急進派閣僚として社会改良政策に尽力した。1909年には職業紹介所設置法制定を主導し、また社会保障費を乏しくするとして自由帝国主義派閣僚たちの主張する海軍増強案に反対した。1908年、11歳年下のクレメンタイン(1885年 - 1977年)と結婚した。1910年2月に内務大臣に就任。1911年には国民保険法第2部の失業保険制度の構築を担当した。一方でトニパンディの暴動をはじめとするストライキ運動の鎮圧を指揮したことで社会主義への敵意を強めるようになり、社会改良政策に取り組んだ急進派政治家としての面もこの頃から無くなっていく。ドイツとの建艦競争が激化する中の1911年10月に海軍大臣に就任。ドイツとの戦争準備を進めた。1914年8月に第一次世界大戦が開戦すると陸軍を大陸へ輸送させつつ、海軍からも航空部隊や水兵を上陸させ、ベルギーのアントワープの防衛に当たろうとしたが、失敗。同年12月のフォークランド沖海戦に勝利したものの、1915年3月より開始させたガリポリ上陸作戦には惨敗を喫した。第一海軍卿ジョン・アーバスノット・フィッシャーがチャーチルに抗議して辞職するとチャーチル批判が強まり、1915年5月に自由党と保守党の大連立政権として再発足したアスキス挙国一致内閣では、海軍大臣を外され、ランカスター公領担当大臣に左遷された。さらにガリポリ作戦の中止が決定された後の同年11月には閣僚職を辞した。1916年12月にアスキスが失脚してロイド・ジョージが首相となると転機が訪れ、1917年7月に軍需大臣として再入閣を果たした。戦車の増産に努め、イギリスの勝利に貢献した。戦後の1919年1月には戦争大臣兼航空大臣に転任。動員解除を指揮しつつ、ロシア革命を阻止すべく反ソ干渉戦争を主導した。ロシアの共産化は防げなかったが、赤化ロシア軍のポーランド侵攻は撃退できた。だが、干渉戦争を快く思わないロイド・ジョージにより1921年1月に植民地大臣に転任させられた。イギリスの委任統治領となったイラクやパレスチナのアラブ人を懐柔すべく、カイロ会議を主宰し、ハーシム家の者たちをイラク王やヨルダン王に据える一方、国際連盟の委任状に基づき、裕福なユダヤ人のパレスチナ移民を推し進めた。1922年10月の保守党の政権離脱に伴うロイド・ジョージ内閣の総辞職につき、閣僚職を辞した。さらに同年11月の総選挙で落選。この頃に一次大戦に関する『世界の危機』を著した。1923年11月の総選挙で保守党・労働党・自由党のいずれも単独で政権が取れない状況になると自由党は労働党に接近し、ラムゼイ・マクドナルド内閣の成立に協力した。チャーチルは反社会主義の立場からこれに反発し、自由党を離党。1924年10月の総選挙には保守党候補として出馬し、反共演説で人気を博し、当選を果たした。同選挙の保守党の圧勝でスタンリー・ボールドウィン内閣が成立すると大蔵大臣として入閣した。新興国アメリカや日本の勃興でイギリス貿易が弱体化し、また戦争の影響で海外投資が減少し、貿易外収支も大幅に減る中、イギリス金融を再び世界をリードする地位に戻そうと戦前レートでの金本位制復帰を行った。だがこれはポンドの過大評価であったため、石炭産業をはじめとするイギリス輸出業に更なる打撃を与える結果となり、炭鉱労働者を中心としたゼネストを招いた。1929年の総選挙の保守党の敗北でボールドウィン内閣は総辞職し、マクドナルドの労働党政権となった。その後の世界大恐慌の中で保守党はマクドナルドと挙国一致内閣を組むも、チャーチルは閣僚職から遠ざけられた。1930年には『我が前半生』、1931年には『マールバラ公 その生涯と時代』を出版した。1930年から1935年頃にかけてインド総督アーウィン卿やマクドナルド挙国一致政権が推し進めようとしたインド自治に強く反対し、保守党執行部との対立を深めた。1935年にマクドナルドが退任し、保守党首班政権となるもチャーチルは干され続けた。この間、ナチ党党首で1933年にドイツ首相に就任したヒトラーによる軍拡・領土拡張方針に対する融和政策に反対し続けた。1939年9月にネヴィル・チェンバレンが融和政策を破棄してドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が勃発。これを機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰した。1940年4月の北欧戦を主導したが、惨敗。しかしこの惨敗の責任はチェンバレンに帰せられ、1940年5月にその後任として首相職に就いた。同時期に西方電撃戦を開始したドイツ軍に惨敗し、6月にフランスは陥落した。1940年8月から9月にかけてイギリス本土の制空権を狙うドイツ空軍の攻撃を受けるも、撃退することに成功した(バトル・オブ・ブリテン)。1940年11月にフランクリン・ルーズベルトがアメリカ大統領に三選したことでアメリカの反独姿勢が強まり、1941年3月には武器貸与法が制定され、アメリカのイギリス支援が本格化した。チャーチルはドイツの同盟国イタリアによるギリシャ侵攻、イギリス半植民地エジプトへの侵攻の撃退に力を注ぐも、精強なドイツ軍の介入で苦戦を強いられ、ギリシャではドイツ軍に惨敗(ギリシャ・イタリア戦争)、北アフリカ戦線でもエルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ軍に追い込まれていった。しかし1941年6月からヒトラーがバルバロッサ作戦を発動して独ソ戦を開始したことで、スターリンが独裁するソビエト連邦と同盟関係になった。1941年8月にはソ連とともにイランへ侵攻し、同国の石油資源を確保するとともにソ連支援ルートを作った。1941年8月にカナダのニューファンドランド島沖に停泊する戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上でルーズベルトと会談を行い、「民族自決権」を盛り込んだ「大西洋憲章」と呼ばれる合意を行うも、チャーチルはナチス支配下のヨーロッパ諸国限定と解釈し、アジアやアフリカへの適用は拒否した。またドイツの同盟国日本に強硬な要求を突き付けることもこの会談で確認され、1941年12月にアメリカの強硬要求を拒否した日本がアメリカの真珠湾を攻撃したことでアメリカとも同盟関係となった。1942年3月には日本軍がシンガポールを陥落させ、また7月にはドイツ軍がトブルクを陥落させるなど、イギリスの威信が傷付く事態が連発。これによりインド人やエジプト人の間に独立の希望が広がり、反英闘争が激化、大英帝国のアジア・アフリカ支配体制は根幹から揺るがされた。しかし1943年からは敵国への空襲を強化して相手の足腰を弱め、北アフリカからドイツ軍を駆逐し、イタリア上陸を開始するなど攻勢に転じた。イタリア戦線はドイツ軍の勇戦で膠着状態となったが、1943年11月のテヘラン会談でチャーチル、ルーズベルト、スターリンの「三巨頭」は英米軍のフランスへの上陸作戦、それに乗じたソ連の攻勢を約し、これに基づき1944年6月にノルマンディー上陸作戦が決行され、膠着状態は崩れた。1944年11月には三巨頭でヤルタ会談を行い、ドイツの分割占領、ポーランドのソ連支配が約束されるとともに、ソ連の対日参戦の密約が結ばれた。1945年5月にドイツが無条件降伏すると、労働党が挙国一致内閣を解消。7月に解散総選挙を行うも、保守党は惨敗し、政権を失った。チャーチルは野党党首に落ちたものの、以降も自らの知名度を生かして独自の反共外交を行い、ヨーロッパ合衆国構想などを推し進めた。1946年3月にはアメリカのフルトンで「鉄のカーテン」演説を行う。また労働党政権がインドをはじめとする植民地を次々と手放していくことを帝国主義者の立場から批判した。また二次大戦の回顧録『第二次世界大戦』全6巻を1948年から1巻ずつ出版して話題となり、1953年にはノーベル文学賞を受賞している。1951年10月の総選挙での保守党の勝利で政権を奪還。1953年のスターリンの死で米ソが雪解け時代に向かう中、チャーチルも共産主義国に対する融和的態度を取るようになった。一方で核武装、東南アジア条約機構(SEATO)参加など反共政策も粛々と進める。また植民地独立を阻止することに力を注いだが、時代の趨勢には抗えず、ほぼ失敗に終わった。老衰が原因で1955年4月にアンソニー・イーデンに首相職を譲って引退した。『英語圏の人々の歴史』を出版した後、1965年にこの世を去った。

ウィンストン・チャーチルはイギリスの首相として、ディズレーリやサッチャーと並び称される人です。彼の政治や外交にはかなりあくどい部分もあり、言ってしまえば彼は戦争屋でした。しかし、ヒトラーの野望を挫き、英国没落の歴史を栄光の歴史に塗り替えた、その手腕は評価されてしかるべきでしょう。チャーチルは元々は軍人であり、政治家となってからも海軍大臣や軍需大臣など軍事と関わる養殖に就き戦争を主導しましたが、残念ながら軍事において天才的な才能を発揮することはできませんでした。彼の戦績は当時すでにイギリスが往年の力を失っていたこともあって、第一次世界大戦、第二次世界大戦共にかなり負けが込んでいました。その全てを書き尽くすことは出来ませんが、いくつか紹介しておきましょう。第一次世界大戦中、連合軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブル占領を目指したガリポリの戦いでは、オスマン帝国軍を軽んじて短期決戦を想定して挑み、後にトルコの初代大統領となるケマル・アタテュルク率いるオスマン側の予想外の頑強な抵抗にあって多大な損害を出して撤退させられました。この作戦の立案者であったチャーチルは失脚し、以後海軍大臣に復帰するまで汚名を背負い雌伏を余儀無くされました。ヒトラーによる軍拡・領土拡張方針に対する融和政策に反対し続けるも無視され続けましたが、チェンバレンの融和政策は結局破綻し第二次世界大戦が勃発したため、彼の方が正しかったことが証明されました。第二次世界大戦が始まったため、チャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰し、1940年4月の北欧戦(ドイツのノルウェーとデンマークへの侵攻作戦への対抗作戦)を主導したが、惨敗。首相職に就任した同時期に西方電撃戦を開始したドイツ軍に惨敗しました。かねてから、チャーチルはフランス軍が弱小であると指摘し、要塞マジノ線の建設に軍事費の多くを費やす方針を批判してきたのですが、フランスは軍備拡張がドイツを刺激するのを恐れ、チャーチルの苦言に耳を貸さず、陣地防衛中心の戦略を立てていました。よってフランスが侵攻されたことをチャーチルの責任にすることはできないのですが、彼が首相就任早々から大変な重荷を背負わされていたことは確かでした。ドイツによるイギリス本土上陸作戦の前哨戦であるバトル・オブ・ブリテンにおいて、数において劣るイギリスは、軍民一体となって空軍を支援し、これを撃退するとドイツはイギリス上陸作戦を断念しました。これにて何とかイギリス軍は体勢を立て直すことが出来ましたが、精強を誇るドイツ軍の前に外地では惨敗を続け、ギリシャではドイツ軍に惨敗(ギリシャ・イタリア戦争)、北アフリカ戦線でもエルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ軍にすんでの所まで追い込まれました。1941年6月からヒトラーがバルバロッサ作戦を発動して独ソ戦を開始し、自滅しなければアフリカ戦線は負けていた可能性が高かったと言えます。日本が参戦してからも、1942年3月に日本軍がシンガポールを陥落させ、また7月にはドイツ軍がトブルクを陥落させるなど、イギリスの威信が傷付く事態が連発しました。これらの敗北は後に植民地での反英闘争の激化を招き、大英帝国は瓦解していくこととなりました。1943年11月のテヘラン会談でチャーチル、ルーズベルト、スターリンの「三巨頭」は英米軍のフランスへの上陸作戦、それに乗じたソ連の攻勢を約し、これに基づき1944年6月にノルマンディー上陸作戦が決行され、膠着状態は崩れ戦局は一気に連合国側へと移りました。1944年11月には三巨頭でヤルタ会談を行い、ドイツの分割占領、ポーランドのソ連支配が約束されるとともに、ソ連の対日参戦の密約が結ばれました。これほどの国難を乗り切ったチャーチルでしたが、1945年5月にドイツが無条件降伏すると、労働党が挙国一致内閣を解消し、7月に解散総選挙を行うも、保守党が惨敗したため、彼は政権を失いました。チャーチルは二次大戦の回顧録『第二次世界大戦』を書いて1953年にはノーベル文学賞を受賞したことからも分かるように、非常に頭の良い人でしたが、その政治的には黒い部分が付いて回りました。彼の学生時代は意外なことに完全な落ちこぼれで、成績は全教科で最下位、体力もなく、遊びも得意なわけではなく、クラスメイトからも嫌われていた上に、校長からもよく鞭打ちに処されていました。後年、チャーチルはの学校については良い思い出がなく、悲惨な生活をさせられたと回顧しています。チャーチルの最期の言葉の憂鬱な響きは、これらの苦難と無縁ではないでしょう。晩年のチャーチルはひどく老衰し、1965年1月8日になると脳卒中を起こし、左半身がマヒした。持ち直すことはなく、1月24日午前8時頃、家族に見守られながら永眠しました。エリザベス2世女王の叡慮により、チャーチルの遺体を入れた棺は3日間ウェストミンスター・ホールに安置された、30万人もの人々が参拝に訪れました。イギリスには君主は臣民の葬儀に出席しないという慣例を破って、セント・ポール大聖堂での葬儀にはエリザベス2世女王も出席しています。

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今日の辞世の句 

Forward men! For God's sake forward!

進め!頼むから進んでくれ!

ジョン・F・レイノルズの最期の言葉。ジョン・フルトン・レイノルズ(英: John Fulton Reynolds、1820年9月20日-1863年7月1日)は、アメリカ陸軍の職業軍人であり、南北戦争のときは北軍の将軍だった。北軍で最も尊敬された上級指揮官の1人として、比較的限られた戦闘の経験しか無かったにも拘わらず、ゲティスバーグの戦いまでのポトマック軍で重要な役割を果たしていたが、ゲティスバーグの戦闘開始直後に戦死した。レイノルズはペンシルベニア州ランカスターで、ジョン・レイノルズ(1787年-1853年)とリディア・ムーア・レイノルズ(1794年-1843年)夫妻の成長した9人の子供のうちの1人として生まれた。兄弟にはペンシルベニア州主計総監のジェイムズ・レフィーヴァー・レイノルズと海軍少将のウィリアム・レイノルズがいた。レイノルズは軍事的訓練を受ける前に、ランカスターの家から約6マイル (10 km) 離れたリティッツでまず教育を受けた。次にメリーランド州ロンググリーンの学校、さらにランカスター郡アカデミーへと進学した。レイノルズは家族の友人だった合衆国上院議員ジェームズ・ブキャナンによって1837年に陸軍士官学校入学を指名され、1841年に同期50人中26番目の成績で卒業した。第3アメリカ砲兵連隊の名誉少尉に任官され、マクヘンリー砦に配属された。1842年から1845年、フロリダ州セントオーガスティン、続いてサウスカロライナ州ムールトリー砦と動き、その後に米墨戦争のためにテキサス州コーパスクリスティでザカリー・テイラー将軍の軍隊に合流した。メキシコではモンテレーの戦いでの勇敢さで大尉に、ブエナ・ビスタの戦いで少佐にと2回の名誉昇進を果たした。ブエナ・ビスタでは、その砲兵隊が左翼側面を衝こうとしていたメキシコ軍騎兵隊を押しとどめた。この戦争中に僚友のウィンフィールド・スコット・ハンコックやルイス・アーミステッドと親しくなった。メキシコから戻ったレイノルズはメイン州プレブル砦、ルイジアナ州ニューオーリンズおよびニューヨーク州ラファイエット砦と勤務地が動いた。1855年には西部のオレゴン州オーフォード砦に駐屯し、1856年のローグ川戦争や1857年から1858年に掛けてモルモン教徒とのユタ戦争に参戦した。1860年9月から1861年6月は、ウェストポイント(陸軍士官学校)の校長となり、砲兵、騎兵および歩兵の戦術教官も務めた。西部から戻ってくる旅の間に、キャサリン・"ケイト"・メイ・ヒューイットと出会い、婚約した。レイノルズはプロテスタント、ケイトはカトリック教徒と宗教が違ったために、この婚約は秘密にしておかれ、ケイトの両親はレイノルズが死ぬまで知ることは無かった。南北戦争が始まって間もなく、レイノルズはウィンフィールド・スコット中将の副官として地位を与えられたがこれを辞退した。第14アメリカ歩兵連隊の中佐に指名されたが、この部隊と共に行動する前に1861年8月20日に准将に昇進され、ワシントンD.C.への出頭を命じられた。その移動中に命令はノースカロライナ州ハッテラス入江岬に行くように変えられた。ジョージ・マクレラン少将が陸軍長官に干渉して再度その命令を変えさせ、新しく編成されたポトマック軍に加わることとされた。レイノルズの最初の任務は志願士官の資格を審査する委員会だったが、間もなくペンシルベニア予備役旅団指揮を任された。1862年の半島方面作戦でマクレランの軍隊がバージニア半島を北上したとき、レイノルズはフレデリックスバーグを占領し、その軍政府長官になった。レイノルズの旅団は七日間の戦いが始まる直前にメカニクスビルで第5軍団に加わるよう命令を受けた。この旅団は6月26日のビーバーダム・クリークの戦いで南軍の激しい攻撃を受けたが、その防御線が持ち堪え、レイノルズは後にその師団長であるジョージ・A・マッコール准将から称賛の手紙を受けた。南軍の攻撃は6月27日も続き、ゲインズミルの戦いで疲れ切り2日間も寝ていなかったレイノルズはボースンの湿地で捕まった。レイノルズは比較的安全な場所にいると思いこんで眠ってしまい、彼を残して自隊が引き上げてしまったことに気付かなかった。レイノルズは捕まえられた南軍部隊の将軍、D・H・ヒルの前に連れて行かれたときに当惑した。ヒルは戦前から陸軍での友人であり同僚だった。ヒルは「レイノルズ、捕まえられたことをそんなに悪く考えることはない。それが戦争の運命だ」と言ったと伝えられている。 レイノルズはリッチモンドに移送され、リビー監獄に収監されたが、間もない8月15日に南軍ロイド・ティルマンとの捕虜交換で釈放された。レイノルズは北軍に帰還すると、ペンシルベニア予備役師団の指揮官を任された。この師団長マッコールはレイノルズの2日後に捕まえられていた。第5軍団はバージニア州マナサスでジョン・ポープのバージニア軍に合流した。第二次ブルランの戦いの2日目、北軍の大半が撤退しているときに、前年の第一次ブルランの戦いで北軍が総崩れした場所であるヘンリーハウスヒルで、レイノルズは自隊を率いて土壇場の抵抗を行った。レイノルズは第2予備役連隊の連隊旗を振りながら、「さあ諸君、やつらに鋼の銃剣突撃をくれてやろう、大急ぎだ!」と叫んだ。レイノルズ隊の反撃で南軍の前進を止め、北軍はより秩序だったやり方で撤退する余裕ができ、その徹底的な破壊を免れた大きな要因になったとされている。レイノルズは、ペンシルベニア州知事アンドリュー・G・カーティンからの要請で、南軍ロバート・E・リーのメリーランド方面作戦の間、ペンシルベニア州民兵隊の指揮を執った。マクレランおよびジョセフ・フッカー各将軍は、「怯えた知事は全師団の有効性を破壊するようなことを認められるべきでない」とこぼしたが、知事の方が説得し、レイノルズは2週間を使ってペンシルベニア州の老人や少年の訓練を行ったためにアンティータムの戦いには参加できなかった。しかし、1862年遅くにはポトマック軍に戻り、第1軍団長に就いた。ジョージ・ミード准将が指揮する配下の1個師団がフレデリックスバーグの戦いで唯一の突破を成し遂げたが、レイノルズは他の2個師団でこれを支援させず、攻撃は失敗した。レイノルズはこの攻撃における自分の役割について、ウィリアム・B・フランクリン准将からはっきりとした説明を受けていなかった。この戦闘後に、1862年11月29日付けでレイノルズは志願兵の少将に昇進した。1863年5月のチャンセラーズヴィルの戦いでは、その第1軍団の前軍団長で、この時はポトマック軍指揮官となっていたフッカー少将と衝突した。フッカーは当初、レイノルズの軍団をフレデリックスバーグの南東、北軍の最左翼に据えて、南軍右翼を脅かし注意を引き付けようと期待していた。5月2日、フッカーはその考えを変え、第1軍団に回れ右をさせて20マイル (32 km) の移動をさせ、第9軍団の北西、北軍の最右翼に就かせた。この動きは連絡の不備、密行の必要性および南軍との接触を避けるために遅れた。このために、第9軍団が南軍ストーンウォール・ジャクソン中将の側面攻撃で急襲され圧倒されたときは、第1軍団はまだその配置についていなかった。この挫折がフッカーの神経を逆なでし、攻勢を行わせなかった。フッカーは5月4日に作戦会議を招集し、レイノルズは戦闘続行に投票したが、票決は3対2で攻勢側が負けた。フッカーは撤退を決断した。レイノルズはミードに代理投票を頼んだあとで寝に行っていたが、このとき目が覚めてフッカーに聞こえる位の大声で「夜のこの時刻に我々を招集しておいて、かれは撤退しようと言うのか?」と呟いた。総勢17,000名の第1軍団はチャンセラーズヴィルで交戦することなく、方面作戦全体でも300名の損失に留まった。レイノルズは仲間の士官数人と語らってフッカーを解任させるように動いたが、これはフレデリックスバーグの後でアンブローズ・バーンサイド少将に対して声高に叫んだのと同じやり方だった。前の場合には、レイノルズが私的な手紙で「もし我々がワシントンでエドウィン・スタントンやヘンリー・ハレックに相談せずに軍隊を指揮できる人物を直ぐに得られないのならば、この軍隊がどうなるのか分かったものではない」と書いた。エイブラハム・リンカーン大統領は6月2日に個人的にレイノルズと会見し、誰がポトマック軍の次の指揮官として相応しいと考えているかを尋ねたと信じられている。レイノルズはもし自分が自由裁量を与えられ、この戦争中に軍指揮官に影響を与えてきた政治的影響力から切り離されるのであれば、引き受ける用意があると答えたと想像されている。リンカーンはレイノルズの要求には合わせられず、6月28日にフッカーに代えて下位であるジョージ・ミードをポトマック軍指揮官に昇格させた。1863年7月1日朝、レイノルズはポトマック軍「左翼」を指揮しており、事実上第1、第3および第11軍団とジョン・ビュフォード准将の騎兵師団まで指揮権が及んだ。ビュフォードはゲティスバーグの町を占拠し、町の北と西に軽い防御線を築いていた。ビュフォードは一番近い北軍の歩兵隊であるレイノルズの第1軍団が到着し始めるまで、チェンバーズバーグ・パイクを前進してくる南軍2個歩兵旅団に抵抗した。レイノルズは第1師団の前に馬で騎り出し、ビュフォードに合って、恐らくはライサンダー・カトラー准将旅団から何人かの兵士を伴い、ハーブストの森の戦闘に向かった。ソロモン・メレディスの鉄の旅団から部隊が到着し始め、レイノルズが第2ウィスコンシン連隊の配置を監督しているときに、首の後に受けた傷がもとで落馬した。ほとんど即死だった。指揮権は部下の上級師団長であるアブナー・ダブルデイ少将に渡った。レイノルズの遺体は即座にゲティスバーグからメリーランド州トーニータウンに運ばれ、その後出生地のペンシルベニア州ランカスターに移されて、7月4日にそこで埋葬された。

ジョン・F・レイノルズは南北戦争における、北軍で最も尊敬された将軍の1人でした。レイノルズは部下に愛され同僚達に尊敬されており、同時代人によって成された否定的なコメントの例は残されていません。彼は南北戦争史上最大の激戦であり、アメリカの運命を決定したゲティスバーグの戦いにおいて、北軍の主力であるポトマック軍を率いて戦い、戦闘開始直後に戦死しました。レイノルズの死因については、歴史家でも意見が分かれており、死亡時刻も正確な場所も銃弾の発射元もはっきり分かっていません。致命傷となった傷は首から下に入る弾道になっており、これはレイノルズは上から撃たれたことを示唆しているので、おそらく木の上か納屋の上にいた狙撃兵に撃たれたのではないかとされています。北軍やその出生州にとって重要人物であったことに相応しくゲティスバーグ国立軍事公園には、レイノルズの3つの彫像で記念されています(マクファーソンリッジにある騎馬像、国立墓地にあるジョン・クィンシー・アダムズ・ウォードによる彫像、およびペンシルベニア州記念碑にある彫像)。 またフィラデルフィア市役所前にも彫像があります。

ゲティスバーグ国立軍事公園チェンバーズバーグ・パイク、マクファーソン尾根にある騎馬像
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BBF%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%BA#mediaviewer/File:JFReynolds_GB1.jpg
ゲティスバーグ国立軍事公園国立墓地にあるジョン・クィンシー・アダムズ・ウォードによる彫像
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BBF%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%BA#mediaviewer/File:JFReynolds_GB3.jpg
フィラデルフィア市役所前の彫像
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BBF%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%BA#mediaviewer/File:John_F._Reynolds_statue.jpg

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Ich sterbe…

私は死にます……。

(シャンパンを持ってきた医師に向かって)

Lange keinen Champagner mehr getrunken…

長い間シャンパン飲んでないな……。

アントン・チェーホフの最期の言葉。アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(ロシア語Антон Павлович Чехов:アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ/ラテン文字(英文表記)Anton Pavlovich Chekhov、1860年1月29日・タガンログ - 1904年7月15日・バーデンワイラー)は、ロシアを代表する劇作家であり、短編小説家。アントン・チェーホフは、父パーヴェル・エゴーロヴィチ・チェーホフと、母エヴゲーニヤ・ヤーコヴレヴナ・チェーホワの3男として生まれた。兄にアレクサンドル、ニコライ、弟にイヴァン、ミハイル、妹にマリヤがいる。父方の祖父エゴールは農奴だったが、領主に身代金を支払って一家の自由を獲得した。父パーヴェルはタガンログで雑貨店を営んでいた。1876年に一家は破産し、夜逃げしてモスクワに移住した。しかしアントンだけがタガンログに残ってタガンログ古典科中学で勉学を続けた。この頃から詩や戯曲などを書いていたといわれていて、作品名こそ伝えられてはいるが、作品そのものは現存していない。1879年に中学を卒業してモスクワに移り、モスクワ大学医学部に入学した。アントーシャ・チェホンテーなど複数のペンネームを用いて雑誌にユーモア短編を寄稿するようになった。学業と作家活動を兼ねる多忙な日々を送り、アントンの友人が家を訪れると、父であるパーヴェルが「いまアントンは忙しいから」と来訪を断ることも多々あったという。1884年には医学部を卒業し、医師としての資格を得、また実際に医師として診察などを行うようになった。こういったエピソードが伝えるとおり早熟な男子であり、母エヴゲーニヤや妹マリヤは「アントンが泣いたことは見たことが無い」と回想している。作家として駆け出しの頃のチェーホフがユーモア短編を主に書いていたことはよく知られているが、それは生活費を得るためという現実的な要請によるものだった。いわゆる「本格的な」作家への転機となったのは1886年に老作家、ドミートリイ・グリゴローヴィチから激励と忠告を受けたことだったといわれている。グリゴローヴィチはチェーホフの文筆家としての才能を称賛しつつ、ユーモア短編の量産はせっかくの才能を浪費するものだと警告したのだった。これを機にチェーホフは文学的な作品の創作に真摯に取り組むようになり、「幸福」、「芦笛」、「曠野」、「ともしび」などの優れた作品が生まれたとみることもできよう。1887年に書かれた初の本格的な長編戯曲『イワーノフ』は翌1888年の初演の評判こそよくなかったものの、1889年にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場での再演は好評を博した。チェーホフは文壇の寵児となり、おどけて自らを「文壇のポチョムキン」と呼びさえした。当時の書簡には、ペテルブルクの道を歩くだけで花束を投げ込まれ、女性たちに囲まれたことが記されている。この頃に書かれた「退屈な話」(1889年)は、人生の意味を見失った老教授の不安と懐疑に苛まれたわびしい心情を描いた作品であるが、レフ・トルストイの短編『イワン・イリイチの死』を下敷きにしたことをたびたび指摘されるように、当時のチェーホフがレフ・トルストイの思想に傾倒していたことが知られている。1890年の4月から12月にかけて、チェーホフは当時流刑地として使用されていたサハリン島へ「突然」でかけ、過酷な囚人たちの生活をや環境をつぶさに観察し記録を残した。この時の見聞は旅行記『サハリン島』(露: Остров Сахалин)としてまとめられて出版されており、サハリン旅行を作家チェーホフの転機とみなす指摘は少なくない。翌1891年には新聞社を経営していたアレクセイ・スヴォーリンとともに西ヨーロッパを訪れた。スヴォーリンはチェーホフの作品をいくつも出版していた人物であり、2人は長く親密な友人関係を築いていた。しかしドレフュス事件を受けてアルフレド・ドレフュスを擁護したチェーホフはスヴォーリンと対立し、両者の関係は決裂するに至る。1892年にメリホヴォに移り住み、ここで1895年の秋に長編戯曲『かもめ』を執筆した。この作品は翌1896年秋にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場で初演されたが、これはロシア演劇史上類例がないといわれるほどの失敗に終わった、と長年いわれてきたが、最近の研究では、むしろ成功をおさめた部類なのではないかともいわれている。2年後の1898年にはモスクワ芸術座によって再演されて大きな成功を収め、チェーホフの劇作家としての名声は揺るぎないものとなった。モスクワ芸術座はこの成功を記念して飛翔するかもめの姿をデザインした意匠をシンボル・マークに採用した。この1898年にチェーホフはヤルタに家を建て、翌1899年に同地に移り住んだ。ここで短編小説「犬を連れた奥さん」などを執筆した。またこの1899年にはモスクワ芸術座で『ワーニャ伯父さん』が初演され、1901年には同じくモスクワ芸術座で『三人姉妹』が初演された。この時マーシャ役を演じた女優、オリガ・クニッペルと同年5月に結婚した。1904年には最後の作品『桜の園』がやはりモスクワ芸術座によって初演された。同年6月に結核の治療のためドイツのバーデンワイラーに転地療養したが、7月2日に同地で亡くなった。最後の言葉はドイツ語で「私は死ぬ」であったと伝えられる。現在はノヴォデヴィチ墓地に葬られている。

アントン・チェーホフはロシアを代表する劇作家であり、短編小説家ですが、亡くなったのがドイツだったので最期の言葉はドイツ語でした。チェーホフの作品は世界的に評価が高いですが、特に短編小説においては、19世紀末にロシア文学史の流れに革命を起こしたとさえ評されています。やたらと長編の多いロシア文学において、彼のように短編を書き続けた作家自体が珍しい存在でした。彼の作品は、基本的にはこれといって事件は起こらず、ストーリーよりも人間の内面を中心に書くスタイルを取りました。ロシア人研究者チュダコーフはチェーホフの作品を「何かが起こっても、何も起こらない」と指摘しています。チェーホフは小説だけでなく戯曲にも傑作が多く、晩年の『かもめ』、『三人姉妹』、『ワーニャ伯父さん』、『桜の園』は、伝統的な戯曲と対極を成す新たな領域を切り開いたとされています。彼の起こした演劇革命を説明すると、「一に、主人公という考え方を舞台から追放した。二に主題という偉そうなものと絶縁した。三に筋立ての作り方を変えた」と言えます。チェーホフは人々の尊敬を集めたために、ソ連時代には「文豪チェーホフ」というイメージに適う「紳士チェーホフ」という人物像が政治的にあてはめられていました。日本でもチェーホフ作品の翻訳者として知られた神西清による「チェーホフは酒を絶っていた」などの言葉で知られているように、「紳士チェーホフ」像は一人歩きをしていました。しかし、チェーホフはむしろ酒豪の部類に入る人間であったし、書簡などを読めばいわゆる「下ネタ」を嫌っていたわけでもなく、オリガとの交際中も複数の女性と関係を持っていたことは伝記的な事実です。このような人間的な部分を否定されてしまうのは、歴史に名を残すような偉人にはよくあることですが、酒も恋もなしで文学などできるはずはありません。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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