FC2ブログ
11 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 01

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

We made a death pact, and I have to accomplish my part of the deal. Please bury me next to my baby. Please bury me with my leather jacket, jeans and motorcycle boots. Goodbye. With love, Sid.

俺達は死の取り決めがあったから、一緒に死ぬ約束をしてたんだ。 こっちも約束を守らなきゃいけない。お願いだ、恋人の隣に埋めてくれ。レザー・ジャケットとレザー・ジーンズとバイク・ブーツを死装束にして、さようなら。愛を込めて、シド。

シド・ヴィシャスの遺書。シド・ヴィシャス (Sid Vicious, 1957年5月10日 - 1979年2月2日)は、イギリスのパンクロッカー。本名はジョン・サイモン・リッチー(John Simon Ritchie)。セックス・ピストルズの2代目ベーシスト。パンク・ロックを地で行く生き方から、彼を「パンクの精神」と呼び、崇拝する人間はイギリス国内外問わず数多い。また極度の麻薬中毒者としても知られる。1979年、薬物の過剰摂取により21歳で死亡した。短い生涯であったが、そのカリスマと過激なパフォーマンスに人々は魅了され、彼はパンク・ロックの伝説となった。「シド」という芸名は、ジョニー・ロットンが昔飼っていたハムスターの名前が由来で、ロットンの父親に噛みついたことから「ヴィシャス(凶暴な)」という苗字がつけ加えられた。シドはサウスイースト・ロンドンのルイシャムにて父ジョン・リッチーと母アンのもとに生まれた。アンは学校を中退した後イギリス空軍に入隊し、そこでバッキンガム宮殿の衛兵をしていたジョンの父と知り合い彼の息子と交際するようになった。アンは出産後イビサに引っ越すが、結局ジョンとの結婚は破談となった。1965年にクリストファー・ビヴァリーと再婚し、シドも「ジョン・サイモン・ビヴァリー」と改名した。元々彼は、セックス・ピストルズの熱狂的なファンの一人であり、ファンの頃からピストルズのライブ中に記者が邪魔でピストルズが見えないと言ってその記者をベルト代わりにつけていた自転車のチェーンで殴るなど、目立った存在だった。ピストルズのライブで初めて怪我人が出た際も、原因は客の一人がステージに向かって投げたビール瓶が柱に当たり飛散した破片が少女の目に刺さり失明するという事件が起き、瓶を投げた者はシドでは無かったが、その立居振舞からシドが逮捕された。 同時期に「ポゴダンス」(ライブで垂直にぴょんぴょんジャンプする事)を発明している。(シド曰く、発明した理由は「ライブ会場にいる敵をつぶすためにジャンプして上から潰す!」という事らしい。) すでにこの頃からシド・ヴィシャスという名は界隈では有名になっており、サイモンもその名の通りに行動する事に使命を燃やしていた。 この事件により収監されたシドは、さらにパンクシーンの顔役となっていった。ヴィシャスとジョニー・ロットンはファッション関係の専門学校時代からの友人でもあった。その縁もあって初代ベーシストにして唯一の作曲者グレン・マトロックがセックス・ピストルズを脱退すると、バンドのマネージャーであったマルコム・マクラレンの誘いがあって、後任のベーシストとなった。 当時セックス・ピストルズのメンバー間では、スティーヴ・ジョーンズとポール・クックは非常に仲が良く、常に行動をともにしており、ポール&スティーブ、グレン、ロットンという対立の構図があった。マネージャーのマルコムは仲を取り持つ事をせず、メンバー間をいがみ合わせるように流言した。 グレンと折り合いが悪かったロットンは、グレンの脱退後にスティーブ&ポールに対して発言権を強めたい目論みもあって親友であったシドをベーシストにと強力にマクラーレンにプッシュしたのである。 その話の直前にダムドのフロントマンとしてオーディションを受けており、最終選考まで残ったのだが、最終選考日に寝坊してすっぽかした為、ダムドのフロントマンになり損ねている。ジョニー・ロットンが脱退後、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」やエディ・コクランの「サムシング・エルス」、「カモン・エブリバディ」などのパンクバージョンを収録したシングルをリリース。シドの死後にリリースされたライブ・アルバム『シド・シングス』には、「マイ・ウェイ」のスタジオ録音バージョンも収録された。セックス・ピストルズにおける音楽活動の最後は「ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル」における収録である。 この収録に際してもパリでのMY WAYの撮影時に既にシドは普通に行動するのも困難な状態なまでヘロインによって蝕まれており、体は痩せ細り衰弱しており、歌詞を覚えさせて1曲を収録するのに1週間近くかかった。その後は、セックス・ピストルズの初代べーシストであるグレン・マトロックや、憧れであったジョニー・サンダースらと一時的に組み、ライブを行っている。 ただしジョニー・サンダースとのステージでは、同じジャンキーであるジョニー・サンダースからしても、シドのそれはステージ上にも及んでおり、そのせいでライブパフォーマンスを保てないシドを途中で降板させている。 この事は激しくシドを失意に落とした出来事であると言われている。 1978年に、ジョニー・ロットンと和解し、2人で新たなバンド結成の話しを持ちかける。 ジョニー・ロットンも話しに乗っていたのだが、ナンシー・スパンゲンが間に入り、そのバンドのフロントマンはシドじゃないとと譲らず、ジョニーが「じゃあ、おれは何をやるのさ?」と問いかけるとナンシーは「あなたはドラムでもやったらいいわ」と言い、結果的に夢の実現は、ナンシー&ドラッグを断てないシドの為に崩壊し終わっている。 1978年9月にニューヨークに渡ったシド&ナンシーは、ナンシーの働きかけにより、マクシズで3回ライブを行う 連日ライブハウスは超満員であったが、シドはドラッグによって立っているのがやっとで、マイクスタンドにしがみついている状態で、時折、ステージ上で倒れこんでしまう。 さらには、歌詞を思い出せずに歌詞カードを手に持ち歌わなければならず、ついには1曲もまともに歌う事も叶わず、観客からも冷やかな反応を受ける。 3日目のステージではザ・クラッシュのミック・ジョーンズと共演している。 この辺りからシド&ナンシーは死を口にする事が多くなり、ナンシーは自殺をはかったりするようになる。 シドはラストライブの後に、ハードドラッグによるオーバードーズ(過剰摂取)により、意識を失い入院する。 その為にロックンロール・スウィンドル撮影のリオ行きの飛行機に乗れずに、スティーブ&ポールとは合流せずに不参加と終わる。1978年10月13日には、ニューヨークにあるチェルシーホテルのバスルームで恋人のナンシー・スパンゲンの死体が発見された。真相は明らかでないが、凶器のナイフ[1]がシドの所有物であったことから、麻薬で錯乱したシド自身が刺殺したと言われている。 しかし、ナイフは指紋が拭きとられている状態であったり、シドの元に入ったばかりのMY WAYの印税2万ドルが全て無くなっていた。 シドはナンシー殺害に時刻には、ツイナールの過剰摂取によるオーバードーズによる昏睡状態となっており、後に医師らにより、服用した量から類推するに5時間は昏睡状態であったといわれている。 その間に複数人の部屋への出入りも確認されており、その時にシドが昏睡している事を証言している。 シドは昏睡状態から意識を取り戻すと血だらけで死んでいるナンシーを見つけ、ホテルのフロントに連絡している。 一説には、ナンシーにドラッグを売っていた男が、ナンシーの死の前日には1杯の酒代をせびっていたにも関わらず、ナンシー殺害の翌日に新品のブーツとレザーパンツ姿でバーに現れ、血のついたシャツを見せびらかしていたという話や(後にこの人物はナンシー殺害をほのめかす発言やナンシーを殺害した場面をVTRに収めており、それを販売して一儲けするよな話をしていたというが真相は明らかになる前に病死している。) 他にも二人が自殺を図り、昏睡したシドを死んだと思ったナンシーが自殺したという説もあるが、指紋が拭きとられて置いてあったナイフと、消えた2万ドルの謎とは結びつかない。 この時期のシド&ナンシーは互いを殴り罵る激しい喧嘩を繰り返していた。 またナンシーは腎臓を病んでおり、その苦痛の激しさから逃れる為にもハードドラッグにすがっていたという。 (*出典:アラン・パーカー著 ノーワン・イズ・イノセント)シド&ナンシーの暮らしたチェルシーホテルの部屋は、事件後にパンクのロミオとジュリエット神話の崇拝者達の巡礼地となってしまった事に困惑したホテル側により取り壊され、ランドリー室に作り替えられている。 部屋番号も欠番扱いとなり、数字が飛んでいる。警察には逮捕されるものの、レコード会社が多額の金を払い、保釈された。その後も自殺未遂を起こしたり、パティ・スミスの弟をビール瓶で殴るなどの騒ぎを起こした末、1979年2月2日、遂に麻薬の過剰摂取により死亡した。 シドが死に至った直接的な理由は、収監され完全にヘロインが抜けきった体に、高純度のヘロインを収監以前に打っていたのと同じ感覚で大量に摂取した事によるもの。 そのヘロインは、その夜、シドに哀願された、彼の母親が渡した物。

シド・ヴィシャスはパンク・ロックをそのまま象徴するような人物です。彼の人生は正にパンクそのものでした。シドはセックス・ピストルズのベーシストでしたが、元々はこのバンドの単なる追っかけでしかなく、ベースも全く弾けませんでした。1977年にベーシストのグレン・マトロックが、ジョニー・ロットンとの不和などの理由で脱退した後、後継ベーシストとして古くからロットンと親しかったシドが採用されました。彼とその人気について理解するには、パンク・ロックについて説明しておく必要があります。パンク・ロックとは、1970年代半ば以後の高度な演奏技術や高価なシンセサイザーとスタジオ録音技術を駆使する「スーパー・バンド」への反発から生まれました。また、当時イギリスは、不況や大量の失業者、それに伴う社会への不安や治安の崩壊等があり、それに対して、不満を溜め込んだ世代が始めた音楽でもありました。よって当初は反体制的、または左翼的なメッセージを歌うバンドが多く、非常に過激なパフォーマンスを行っていました。中でも最も有名なバンドが、シドの在籍していたセックス・ピストルズで、自国の王室や政府、大手企業を名指しで攻撃して名を上げました。結局このバンドは実質的には2年程度しか活動していなかったにも関わらず、数々の伝説と共に永遠のパンク・ヒーローとなりました。1978年1月14日アメリカツアーの最中(サンフランシスコ、ウインターランド公演後)に、ジョニー・ロットンがバンドを脱退し、実質上バンドの終焉となりました。バンド解散後、シドは嫌がるのを無理やり、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」やエディ・コクランの「サムシング・エルス」、「カモン・エブリバディ」などのパンクバージョンを収録したシングルをリリースさせられました。このころには、シドはすでに麻薬で身体がボロボロになっており、立っているのがやっとの状態で、ライブをしてもとてもまともに演奏できる状態ではなく、途中で降板させられたりしています。また、シドにはナンシー・スパンゲンという恋人がいたのですが、大体麻薬はこの人とやっていたようです。1978年10月13日には、ニューヨークにあるチェルシーホテルのバスルームで恋人のナンシー・スパンゲンの死体が発見され、真相は明らかではありませんが、シドが殺したのではないかとされてきました。シドは警察には逮捕されるものの、レコード会社が多額の金を払い、保釈されました。その後も自殺未遂を起こしたり、パティ・スミスの弟をビール瓶で殴るなどの騒ぎを起こした末、シドの最期は1979年2月2日、遂に麻薬の過剰摂取により亡くなりました。実際の彼は過激な伝説とは違って、常に気弱で礼儀正しい青年であったとも言われておりますが、シドは自身がロットンや観客に求められているイメージのままに行動する事に喜びを感じており、やがてサイモンではなく、シド・ヴィシャスそのものへと変わってしまったと彼の母親は語っています。シドは不思議な人物であり、ベースが全く弾けなかったにも関わらず、残されたライブ映像ではきちんと演奏していたり、作曲における才能をピストルズの「Bodies」という曲などで発揮したりしています。

Sex Pistols - God Save The Queen
https://www.youtube.com/watch?v=dtUH2YSFlVU
Sex Pistols - Anarchy In The UK
https://www.youtube.com/watch?v=pOe9PJrbo0s
スポンサーサイト



Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

今日の辞世の句 

Acta est fabula, plaudite!

The play is over, applaud!

劇は終わった、拍手を!

アウグストゥスの最期の言葉。アウグストゥス(羅: Imperator Caesar Divi Filius Augustus インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス、Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス、紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した。ちなみにアウグストゥスは、ラテン語で「尊厳ある者」を意味しており、現在のギリシア語では「8月」の意になっている。

アウグストゥスはカエサルの意志を引き継いで、も「パクス・ロマーナ」を実現した人物であり、ギリシア史上最高のワルの一人でした。彼が有能であったことは疑いのないことですが、その最高の才能は人を騙すことにあったと言っても過言ではないでしょう。実際彼は身体が弱く、将軍としての資質には欠いた人でしたので、その弱点を補うべく、生涯の盟友となるマルクス・ウィプサニウス・アグリッパらのを腹心の部下としました。紀元前44年3月15日にカエサルがマルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスらに暗殺されると、アウグストゥスはカエサルの遺志であるパルティアとの戦争を遂行するためカエサルが集めた公的資金を要求し、70万セステルティウスもの資金がブルンディシウムに集められました。カエサル配下の退役兵から熱烈な支持を受けたアウグストゥスは、有力なカエサルの暗殺後、後継者候補として政治の表舞台に躍り出ました。さらに、政敵であったアントニウスを元老院の脅威となっていると弾劾し、アントニウスを元老院で孤立させることに成功すると、紀元前43年1月1日、元老院はアウグストゥスを元老院議員に任命、そして彼に指揮権を与えました。アウグストゥスは自分の大叔父であり、養父であったローマの英雄カエサルを神格化することを元老院に認めさせると、これによりオクタウィアヌスは自らを「神君の息子」とし、元老院での影響を強めました。アントニウスはその後、クレオパトラとの関係を深め、度々ローマと対立するようになるのですが、紀元前33年1月1日、この年の執政官となったアウグストゥスは元老院にてアントニウスとクレオパトラへの宣戦布告の決議案を提出し、元老院もアントニウスを見限りました。アクティウムの海戦は戦争の実績と軍事力ではアントニウス軍が圧倒的に有利な立場にありましたが、アウグストゥスはアグリッパというローマ人には珍しく海戦を得意とした将軍を登用し、苦戦を強いられながらも、徐々に有利な戦いを展開していきました。すると戦場から突然クレオパトラがエジプトに逃げ去り、アントニウスもその後を追ったため、指揮官を失ったアントニウス軍は総崩れとなりました。いかな大英雄アントニウスも、こうなってはお終いでした。アントニウスとクレオパトラはエジプトのアレクサンドリアへ逃れるも、その後を追撃されアントニウスは自害、直後にクレオパトラも自害したためにここにプトレマイオス朝は滅亡しました。紀元前29年、ローマに凱旋したオクタウィアヌスは元老院のプリンケプスとなったのですが、プリンケプスとは元老院内での第一人者を表す称号であり、後には政下では全てのローマ市民の中で第1の地位を占める「元首=皇帝」を指す言葉となりました。アウグストゥスはカエサルを暗殺した共和主義者を滅ぼし、アントニウスらとの権力闘争を勝ち抜いて、彼の権力を妨げる勢力を全て排除することに成功しまし、実力で地中海世界を統一し、カエサルの後継者に相応しいことを証明しました。アウグストゥスは最高権力者となったのですが、ここで独裁政権を築かなかったことが、彼の凄いところでありワルな所でもありました。紀元前27年1月13日、突如アウグストゥスは元老院で、全特権を返上し共和制への復帰を宣言する演説を行い、元老院を歓喜させました。しかし、彼が返上した権限は実質的に形骸化したものばかりであり、首都ローマおよびイタリア、つまり本国を直接支配する執政官職は放棄しなかったので、彼が独裁官であることには何の変わりもありませんでした。しかし、それに気付く者もなく驚喜する元老院は「アウグストゥス」の尊称を贈る決議を一切反対もなく賛成し、また、平和が回復するまで属州の防衛も依頼しました。これにより、元老院は返してもらったはずの軍事力を即座にアウグストゥスに返上してしまいました。さらにアウグストゥスは軍事的に厄介な地域を自分が引き受け、安全な地域の元老院が総督を選出できる元老院属州とすることにしたため、元老院を更に驚喜させました。そして、軍団指揮と属州統治を行うためにプロコンスル命令権(インペリウム・プロコンスラレ)を元老院から取り付けて、正式な法的根拠とすると、この結果、ローマ全軍の一元管理が可能となり、アウグストゥスは名実共に「インペラトル」となりました。こうしてアウグストゥスによって復活した元老院による共和制が、アウグストゥス以外誰も気がつかないうちに元老院の手によってアウグストゥスによる帝政となり、初代ローマ皇帝アウグストゥスが誕生しました。アウグストゥス自身は、「私は権威において万人に勝ろうと、権力の点では同僚であった政務官よりすぐれた何かを持つことはない」(『神君アウグストゥスの業績録』34)と述べていますが、表面上はともかく実質的には、アウグストゥスは終始唯一のローマの統治者であり続けたこともあり、彼の言葉をそのまま信じて良いのかは微妙です。ローマ史研究家の F.E.Adcock によれば「アウグストゥスはアレキサンダー大王やカエサルのような、圧倒的な知力の持ち主ではなかった。しかし、あの時期の世界は、彼のような人物こそを必要としていた」としていますが、アウグストゥスは自らの力や知力を駆使するよりは、自分より優れた人物を使い、敵対者に徳を与えて服従させるタイプの人でした。彼がまさに「将の将」たる人物であったことは、「パクス・ロマーナ」を実現したという彼の最大の業績の最も重要な要因でした。彼はその治世の中で芸術に心血を注ぎ、友人であるガイウス・マエケナスを通じてウェルギリウス、ホラティウス、セクストゥス・プロペルティウスなどを庇護し、彼の時代にラテン文学は全盛期を迎え、アウグストゥス本人が、「私は煉瓦の街を受けついで大理石の街を残した」と言うように、大胆にギリシャ様式を取り入れた大理石の芸術を次々と生み出し、ローマ帝国の最高の芸術の水準を花開かせました。さて、上記の最期の言葉についてですが、奇しくもアウグストゥスの最期の言葉とほとんど同じ言葉を、ベートーヴェンが残しています。アウグストゥスは胃腸を患い、紀元14年8月19日、ポンペイ近郊のノラの町で76歳で死去したのですが、その時、友人に「私がこの人生の喜劇で自分の役を最後までうまく演じたとは思わないか」に尋ね、「この芝居がお気に召したのなら、どうか拍手喝采を」との喜劇の口上を付け加えたとされています。恐らくベートーヴェンがアウグストゥスの最期の言葉の真似をした可能性はないと思われますので、これは完全な偶然の一致ですが、それにしては、非常によく似通っています。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0