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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Jakże słodko jest umrzeć za Ojczyznę!

How sweet it is to die for Motherland!

祖国のために死ぬことは何と甘美なことであろうか!

スタニスワフ・ジュウキェフスキの最期の言葉。スタニスワフ・ジュウキェフスキ(ポーランド語:Stanisław Żółkiewski,1547年 - 1620年10月7日)は、ポーランド・リトアニア共和国のマグナートで、軍事指導者として共和国の南部・東部国境での数多くの戦いを指揮した。1588年より王冠領野戦ヘトマン、1590年よりリヴィウ城代、1613年より王冠領大ヘトマン、1618年よりキエフ県知事及び王冠領大法官(宰相)など共和国の最高官職を歴任し、モスクワ・ロシア、オスマン帝国、タタールとの戦いで共和国軍に偉大な勝利をもたらし、ヨーロッパの軍人としては初めて、ロシアに攻め入ってその首都モスクワを占領した。しかしその類稀なる軍事的才能でモスクワを占領した「名将」としての仕事もさることながら、モスクワ遠征における彼の真の歴史的功績は、議会(セイム)の代表者として、ロシアやスウェーデンへの宗教的野望を抱える自国の王ジグムント3世を戒め、当時のポーランドの体制的基盤となっていた思想信条の自由の原則を貫き、ツァーリ独裁の伝統に反対するロシアの民主派と結んで民主的な立憲君主主義の国家連合の実現に向けて奔走した、「大政治家」としての仕事ぶりであろう。第二次ウィーン包囲でトルコの侵略からヨーロッパを救ったポーランド王ヤン3世ソビェスキは曾孫。リヴィウの学校で学んで数ヶ国語を習得したあと、国王ステファン・バートリの秘書官となった。1594年から1596年にかけて、ウクライナ・ヘトマンのセヴェルィーン・ナルィヴァーイコが率いるコサックの反乱(ナルィヴァーイコの乱)を鎮圧した。また1607年にゼブジドフスキの反乱においては、グズフの戦いで反乱軍を破った。ロシア・ポーランド戦争が始まると、ジュウキェフスキは司令官として遠征を成功裏に進めた。ジュウキェフスキは偽ドミトリー2世擁立計画の一環としてモスクワを陥落させ、ツァーリのヴァシーリー・シュイスキーを捕らえた。1610年にはクルシノの戦いで、ポーランド騎兵「フサリア」5,000騎でモスクワ・ロシア側の40,000の大軍を撃破する大勝利を収めている。ジュウキェフスキは国王ジグムント3世の長男ヴワディスワフのツァーリ擁立、及び共和国とモスクワ・ロシアとの同君連合構想の推進を支持した。1612年より、将来有能なヘトマンとして名を馳せるスタニスワフ・コニェツポルスキを部下とし、若いコニェツポルスキの軍事上の師となった。1612年及び1617年、モルダヴィア(モルダヴィア・マグナート戦争)とウクライナで軍事遠征を指揮した。齢70歳を超えていたにも関わらず、彼は死の瞬間まで現役の指揮官として精力的に活動を続けた。1620年10月7日、ジュウキェフスキはモルダヴィアのプルト川河畔におけるトルコ軍とのツェツォラの戦いで、ポーランド軍の退却中に敵軍に殺された。戦後、彼の遺体はトルコ軍によって冒瀆され、頭部は切り取られて戦利品としてイスタンブルに献上された。頭部はその後、ツェツォラの戦いでトルコ軍の捕虜となった息子のヤンと共に未亡人のもとに返された。彼は自らが建設した都市ジュウキェフ(現在のウクライナ)の聖ヴァヴジニェツ教会に埋葬された。死後、彼は聖なる信仰を守る為に異教徒に殺されたキリスト教戦士として伝説的な存在となった。ジュウキェフ城を始めとする彼の財産と所領は、最終的に彼の孫娘と結婚したヤクプ・ソビェスキに相続された。また、ロシア・ポーランド戦争に従軍した際、自らの軍事遠征と外交政策についての回想録『モスクワ戦争の顛末について』を執筆している。

スタニスワフ・ジュウキェフスキは、ポーランド史上最も尊敬に値する人物の一人です。ポーランドは14世紀から17世紀にかけ大王国を形成したのですが、この時期のポーランドには名君や名宰相と呼ばれた人が数多くいました。ジュウキェフスキはそういったポーランド黄金時代を彩る偉大な人物たちの中の、かなり最後の方の人物でもあります。ジュウキェフスキが仕えたジグムント3世は、名君の誉れ高きステファン・バートリの死後、次期国王に皇帝ルドルフ2世の弟マクシミリアン大公が選出されたことに抗議し、ブィチナの戦いでマクシミリアンを破って共和国の新統治者となった人で、人間的に問題のあった人でもありました。というのも、ジグムント3世はスウェーデン生まれでしたが、母がヤギェウォ家のポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受け、イエズス会によって極めて強い影響を受けました。彼は本国スウェーデン及びヴァーサ家がルター派プロテスタント国家であるにもかかわらず、歴代の王のうちで最も熱狂的なローマ・カトリックの闘士でした。ジグムント3世はヨーロッパ北方全域のカトリック化するという野望を抱いていたのですが、政治的な才能に乏しく、1599年にスウェーデン王位を叔父カール(後のスウェーデン王カール9世)に簒奪されたり、ジュウキェフスキらの奮戦によってモスクワ市を占領した時も、正教徒であるロシア人との間で宗教的対立を生じさせるなどの失政を行いました。その後も、ジグムント3世はたび重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争、大洪水時代)によりポーランド=リトアニア連合王国の政府財政を急速に悪化させてしまいました。さて、そんな困った王様に仕えたジュウキェフスキですが、元々は名君ステファン・バートリの秘書官であり、彼の元で数々の戦功を挙げています。この頃はジュウキェフスキにとっても、良き時代だったでしょう。しかし、ジグムント3世の時代になると事情は変わってきました。ジグムント3世は悲願であったスウェーデン奪還とカトリックの布教のために、正教会の牙城であるロシアに侵攻しカトリック化させ(このため、ローマ教皇もポーランドを強く支援していた)、最終的にはロシアをスウェーデン奪還の拠点とするという計画を押し進めました。ジュウキェフスキはもともとこの戦いに反対であったものの、王の命令に逆らえずやむなく従軍していましたが、戦役の展望、手法、最終目標を巡ってジグムント3世と衝突を繰り返していまいた。ジュウキェフスキはポーランド貴族(シュラフタ)の伝統的な平和主義と多文化主義の思想を代表する人物で、ロシアのような強国に対し攻撃的で危険な戦争を仕掛けることをよしとしませんでした。ジュウキェフスキの理想はリトアニアと連合を結んだように平和的で自発的な連合をロシアと結ぶことでしたが、ジグムント3世は政治的交渉や妥協を行うことをよしとせず、特に正教会に対する譲歩だけは欲しませんでした。ジュウキェフスキが予想した通りに、ポーランド・リトアニアの軍がロシアの地を略奪しながら東へ進むほど、ポーランドを支援していた者たちは親ポーランド陣営を去って反ポーランド陣営に合流していきました。この逆境にもかかわらず、ジュウキェフスキは、1610年7月4日のクルシノの戦いで、ポーランド軍の精鋭の騎兵5,000騎は数で勝る35,000人から40,000人のロシア・スウェーデン連合軍を破るという、驚異的な勝利を収めました。ジュウキェフスキがモスクワに到着すると、モスクワ内で様々な混乱が起こりましたが、最終的に親ポーランド派が主導権を握りポーランド軍はモスクワに入城しました。モスクワの指導者たちは、ジュウキェフスキに無政府状態からロシアを救ってほしいと頼み、ジュウキェフスキはジグムント3世の息子ヴワディスワフを新しいツァーリに認めることと引き換えに、彼らに広い特権を持てることを約束しました。しかし、分からず屋のジグムント3世の考えはまるで違っており、ジュウキェフスキはこの時点ではそのことを知りませんでした。モスクワの指導者たちはヴワディスワフが正教会に改宗し、ポーランド・リトアニア共和国が戦争で占領したロシアの都市を返還するならば彼がツァーリになることを支援したのですが、ジグムント3世は王子の改宗には断固反対し、最終的には自分がツァーリになると言い出しました。これにより、ジュウキェフスキは困った立場に置かれてしまいました。約束を破ってロシア全土で不人気のジグムント3世が即位すれば、反発が起こることは必然だったので、ジグムント3世を何とか説得しようとしましたが、ジグムント3世はロシア西部の征服の過程で、自身のロシアでの人気ぶりを確信しており聞く耳を持ちませんでした。ジュウキェフスキは最後にはジグムント3世に失望してポーランドへ帰ってしまったのですが、ジュウキェフスキがポーランド軍の主力である議会軍を引き連れて帰国してしまったので、クレムリンに残った小人数のポーランド軍部隊はたちまち孤立し、1612年、モスクワに残されたジグムント3世のポーランド国王軍はツァーリ派の貴族とロシア正教会が率いたロシア国民軍に敗れ、モスクワから撤退しました。ツァーリ戴冠の放棄を拒んだジグムント3世は、この後もロシアと戦争を継続しましたが、1618年にロシア西方などをポーランドへ割譲させてツァーリ戴冠を断念しました。これによりジュウキェフスキらの奮戦と、彼の民主的な立憲君主主義の国家連合の実現に向けた努力は水の泡となりました。ロシア・ポーランド戦争はポーランド・リトアニア共和国の領土を東へ拡張することはできましたが、消耗した人命と資金と比べれば代価の高すぎる勝利でした。また、ロシアの新たな王朝となったロマノフ家は、勝者の書く歴史が政治の強力な道具となることをよく理解しており、ロシア・ポーランド戦争を「ロシア正教の文化を破壊するため野蛮な侵略を行ったポーランドとイエズス会の同盟に対し、この時代のロシア人たちがロシアを守るため英雄的に立ち上がったのだ」という文脈を用いて称賛しました。もちろん、ジュウキェフスキが主導していたポーランド・リトアニア・モスクワ連合によるリベラルな三カ国連合という構想も、ロシア史から消されました。そして、弱体化したポーランドは18世紀、3度にわたり国土が隣国によって分割され消滅し、以後ヨーロッパ中に反ポーランド主義がはびこり苦難の時代を迎えることになりました。ジュウキェフスキは齢70歳を超えていたにも関わらず、彼は死の瞬間まで現役の指揮官として精力的に活動を続け、最期はトルコ軍との戦いで戦死しました。彼は聖なる信仰を守る為に異教徒に殺されたキリスト教戦士として伝説的な存在として、ポーランドの栄光の歴史に燦然と輝きを残しています。さて、ジュウキェフスキの最期の言葉についてですが、この言葉はほぼ間違いなくホラティウスの、"Dulce et decorum est pro patria mori."(祖国のために死ぬとは甘美にして名誉あること。)という言葉が元ネタでしょう。そして、ジュウキェフスキにとって、それは完全な真実でありました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Oddał swe życie gdzieś tam wysoko, tam gdzie sprawy ziemi są tak odległe, blask słońca tak czysty, a Bóg tak blisko.

He gave his life on somewhere high, where other land are so distant, glare so clear, a God so near.

彼はその人生をどこか高い、とても遠く輝かしく澄んだ神の近くの国で過ごした。

ヤン・ズムバッハの墓碑銘。ヤン・エウゲニウシュ・ルドヴィク・ズムバッハ(ズンバッハ、Jan Eugeniusz Ludwig Zumbach、1915年4月14日 - 1986年1月3日)はポーランドの軍人。第二次世界大戦におけるポーランド空軍のエース・パイロットである。ズムバッハは実のところスイス人(ジャン・ズムバシュ、あるいはヨーハン・ツームバッハ)であった。根っからの冒険者だったようで、生まれ育ったポーランドのために働きたくて出生証明書などの書類を偽造してポーランド人になりすまし、1936年にポーランド空軍に入隊、デンブリンの航空士官候補生学校で学んで、1938年に任官した。のちに盟友となる同期のスタニスワフ・スカルスキとともに第111飛行中隊に配属された。1939年のナチス・ドイツとソ連によるポーランド侵攻の時にはあいにく負傷していて戦うことができなかったが、結局仲間と共にフランスに渡り、翌年の西方電撃戦ではモラーヌ=ソルニエ MS.406やカーチス P-36 ホークに搭乗して参戦した。イギリスに到着したズムバッハは1942年5月19日に第303戦闘機中隊の創設と共に入隊し、バトル・オブ・ブリテンではホーカー ハリケーン Mk.I戦闘機を駆って不確実1機を除く8機の撃墜を公認された。1942年11月30日にはすでに有名となっていた第303戦闘機中隊の栄えある隊長となり、1943年11月30日まで任を務めた。ズムバッハは第303戦闘機中隊で自身のすべての撃墜記録(公認13機)を挙げた。その後1943年から1944年にかけて第3航空団 (3 Polish Fighter Wing) の司令、1944年から1945年にかけては第133航空団 (133 Polish Fighter Wing) の司令を務めた。戦後は両親が「帝国主義者」だったために共産主義者の支配するポーランドに戻ることができず、スイスの市民権を取った。冒険好きなズムバッハは高級腕時計をイギリスへ、兵士や武器をイスラエルへ売る「貿易業者」として働いた。1950年代にはそれまで荒稼ぎした金でパリでレストランやナイトクラブを開き、一時はオーナーとして羽振りの良い生活をしていたようである。だが次第に再び冒険者としての虫がうずいたのか「元の仕事」に戻りたくなったようで、1960年にカタンガ国が独立直後のコンゴ共和国(のちのコンゴ民主共和国)から分裂すると1962年にカタンガに渡り、同国独裁者のモイーズ・チョンベの頼みで同国空軍を創設して司令官となった。1967年にはナイジェリアから独立を宣言したビアフラでまた同じように空軍を創設してビアフラ戦争を指揮した。その後ズムバッハはフランスに戻って、やっと落ち着いた生活を始めた。1975年にはフランス語で自伝 (Mister Brown: Aventures dans le ciel) を執筆・出版した。ミスター・ブラウン(ジョン・ブラウン)とはカタンガやビアフラで彼が使っていた通名である。この自伝はドイツ語と英語でも翻訳・出版された。ズムバッハは平穏な余生を過ごしたあと1986年1月3日にフランスで死去し、ポーランド・ワルシャワのボヴォンズキ軍人墓地に埋葬された。

ヤン・ズムバッハはポーランドが誇る第二次世界大戦のエースパイロットですが、実はスイス人でした。しかし生まれ育ったポーランドのために働くために、ポーランド軍に入りました。1939年のナチス・ドイツとソ連によるポーランド侵攻の時に負傷していたため、戦えなかったことは彼にとって一生の不覚だったでしょう。ポーランド侵攻により、第二次世界大戦は始まったのですが、実はポーランドは一般的にイメージされているほどに弱い国ではありませんでした。確かに装備や国力においては独ソに劣っていましたが、空軍には世界的に見ても優秀なパイロットが多数いました。少なくともポーランド空軍が、飛ぶこともせず地上で全滅させられたというような話は完全な誤りです。ドイツ軍とソ連軍はポーランド全域を完全に制圧しましたが、ポーランド政府は降伏せず、残存する陸軍および空軍の部隊と共にルーマニアとハンガリーへ脱出し抵抗を続けました。脱出したポーランド軍将兵の多数は、後に西側の自由ポーランド軍に参加し、フランス、フランス委任統治領シリアを経てイギリスで闘いました。ヤン・ズムバッハも、もちろんその内の一人です。ズムバッハは、ポーランド人航空兵から編制された英国空軍の戦闘機中隊である、第303コシチュシコ戦闘機中隊に、エウゲニウシュ・ホルバチェフスキやスタニスワフ・スカルスキといった、ズムバッハと同じポーランド人のエースパイロットと共に入隊しました。この部隊はバトル・オブ・ブリテンに参加した連合軍の66個の戦闘機中隊のうちで、最高の撃墜記録を挙げたことで名を馳せ、第二次大戦の伝説的存在となりました。しかも、これはバトル・オブ・ブリテンが始まって2ヵ月も経ってから参戦しての記録でした。コシチュシコ戦闘機中隊は最初の7日間で40機近くの敵機撃墜記録を挙げ、最終的には6週間で126機の撃墜記録を達成しました。大英雄となったパイロットたちは、「The glamour boys of England」(イングランドの魅惑的な男たち)と呼ばれました。バトル・オブ・ブリテンは彼らの奮戦により、ドイツにイギリスの制空権を奪われることなく、独ソ戦を前にしたヒトラーによって中止されました。これによりドイツはイギリス上陸作戦を断念したため、バトル・オブ・ブリテンは第二次世界大戦の重大な転機となりました。ディエップ奇襲作戦のあいだにも、第303戦闘機中隊は連合軍の全戦闘機中隊のうちで最高の撃墜記録を挙げました。ディエップの戦い自体は完全な連合国側の準備不足による失敗だったのですが、その中でもコシチュシコ戦闘機中隊の活躍は光りました。1942年4月11日に属する第11戦闘機群 (No. 11 Group) で行われた模擬空中戦競技では、第303、第316、第315の三個のポーランド人戦闘機中隊が参加全22中隊中の上位3位を独占しており、第303戦闘機中隊は余裕の1位でした。第303戦闘機中隊は第二次世界大戦で最も実績のあるポーランド人戦闘機中隊であり、ポーランド軍のうちで1946年のロンドン勝利記念パレードに参加を求められた唯一の戦闘機中隊でもありましたが、彼らは政治的な理由により参加を見合わせました。前年の1945年7月6日にアメリカとイギリスはロンドンのポーランド亡命政府の公式承認を取り消し、ポーランドはソ連の後押する共産主義者の政府の手に落ちていました。大戦終結時から、連合国はポーランド人に対して冷たい扱いをするようになり、第303戦闘機中隊の士気は低下してき、最後は1946年12月に解散しました。さて、ズムバッハは1942年11月30日に栄光ある第303戦闘機中隊の隊長となり、その後1943年から1944年にかけて第3航空団 (3 Polish Fighter Wing) の司令、1944年から1945年にかけては第133航空団 (133 Polish Fighter Wing) の司令となっています。スイス人であったズムバッハは両親が「帝国主義者」だったために共産主義者の支配するポーランドに戻ることができなかったのですが、これは彼にとって幸運だったでしょう。盟友であったスタニスワフ・スカルスキは、1947年にポーランドに戻り、ポーランド空軍に勤務しましたが、1948年に彼はスターリニズムの政権にスパイ容疑で逮捕され、拷問を受けたあと起訴され、死刑を宣告されて3年を獄中で過ごす羽目になりました。一方、祖国を追われたズムバッハは貿易を営んで羽振りの良い生活をしたり、1962年にカタンガで空軍を創設して司令官となったりと、わりと好き放題な生活を送りました。1967年にはナイジェリアから独立を宣言したビアフラでまた同じように空軍を創設してビアフラ戦争を指揮したりもしています。その後、フランスで自伝を書いたりしながら余生を平穏に送り、1986年1月3日にフランスで亡くなり、祖国ポーランド・ワルシャワのボヴォンズキ軍人墓地に埋葬されました。軍人として冒険者として考えられる限り最高の人生だったのではないでしょうか。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Hic situs est Rufus, pulso qui Vindice quondam imperium asseruit non sibi sed patriae.

Here lies Rufus, who after defeating Vindex, did not take power, but gave it to the fatherland

ルフスここに眠る。ガイウス・ユリウス・ウィンデクスを破りながらも。権力を奪取することなく、それを祖国へと返した。

ルキウス・ウェルギニウス・ルフスの墓碑銘。ルキウス・ウェルギニウス・ルフス(Lucius Verginius Rufus, 14年 - 97年)は、古代ローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝・フラウィウス朝時代の軍人。のちに元老院議員となる。四皇帝の年初期に起こったガイウス・ユリウス・ウィンデクスの反乱を鎮圧し、またローマ皇帝ネロに代わる皇帝としての軍団兵からの皇帝位への擁立を拒否した。(以降、この人物を氏族名の「ウェルギニウス」と省略して呼ぶことにする)現在の北イタリアのエクィテス階級身分として生まれる。63年、ネロの治世にコンスルに選ばれ、上ゲルマニア属州にプロコンスルとして派遣される。67年にウィンデクスがネロに反乱を起こすとウェルギニウスは鎮圧に向かい、68年に制圧。その後、ルフスはガルバに対抗する形で配下の軍団兵より皇帝へと擁立されようとするが、これを拒否、代わりに低地ゲルマニア総督のウィテリウスを支持する。その後ウィテリウスは元老院より皇帝として承認されることになるが、彼自身はその後ゲルマニアの軍団から離れローマへ戻り、十数年を詩作など文学を嗜みつつ穏便に過ごした。次に彼の名が出てくるのはドミティアヌスが暗殺され、ネルウァが皇帝になったときである。ネルウァは引退しつつあった年老いたウェルギニウスを同僚執政官としたが、その際に演説を行う時に、手から落とした書物を取ろうと身をかがめて転び、その怪我がもとで没した。ウェルギニウスの葬儀は国葬をもってなされた。

ウェルギニウスは軍人としてだけでなく、人間として非常に尊敬の出来るローマ人でした。彼はエクィテスという古代ローマにおける騎士階級に生まれました。当時のエクィテスは皇帝直属の側近として重用され、皇帝家の私領とされたエジプト属州や政情の安定しないユダヤ属州の長官職や、本土イタリアに駐屯する唯一の軍事戦力として皇帝の護衛を務める親衛隊長官などを独占的に任せられ、皇帝による統治を支える存在でした。63年、ネロの治世にはさらに、コンスルに選ばれ、上ゲルマニア属州プロコンスルとして派遣されました。コンスルとは定員は2名の都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる役職です。平時は内政の最高責任者として政務を執り、戦時は軍団を組織するとともに軍団の最高指揮官として軍務を掌握しました。王政が復活するのを防ぐ意味もあり、任期は1年だったのですが、2名の執政官だけで対処できない事態が発生した場合などは、必要に応じて、執政官経験者にプロコンスル(前執政官)の職でインペリウムを与えて事態の収拾に当たらせることもあり、後にこの制度は常設化して、プロコンスルらに属州総督として属州経営を担わせるようになりました。プロコンスルとは、属州総督、執政官代行官、代理執政官などとも訳されます。ウェルギニウスの頃になると、コンスルを任期満了で退任した者が、その後1~3年の間、プロコンスルとしてローマの属州総督として派遣されるようになっていました。ウェルギニウスはローマ内戦によりローマ皇帝として4人が次々と擁立された原因となった、69年のガリア・ルグドゥネンシス属州総督ガイウス・ユリウス・ウィンデクスの反乱を鎮圧しました。ウィンデクスは支持を受けるためにガルバを皇帝にと擁立しようとしていたのですが、反乱が鎮圧されたことにより、ルフスはガルバに対抗する形で配下の軍団兵より皇帝へと擁立されようとしたのですが、これを拒否しました。これは軍人として非常に立派な態度でした。その後ウェルギニウスはウィテリウスという、どうでもいい無能な皇帝を支持しますが、ウェルギニウス自身は政治には興味を失っていたようで、ゲルマニアの軍団から離れローマへ戻り、十数年を詩作など文学を嗜みつつ穏便に過ごすという、非常に懸命に時を過ごしました。さて、ウェルギニウスの最期についてですが、案外にあっけないです。彼はドミティアヌスが暗殺され、ネルウァが皇帝になった時、ウェルギニウスを同僚執政官としたのですが、演説しようとした時に、手から落とした書物を取ろうと身をかがめて転び、その怪我がもとで亡くなってしまいました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Audie L. Murphy, Texas. Major, Infantry, World War II. June 20, 1924 to May 28, 1971. Medal of Honor, DSC, SS & OLC, LM, BSM & OLC, PH & 2 OLC.

オーディ・L・マーフィ、テキサス出身。少佐、歩兵、第二次世界大戦。1924年6月24日 - 1971年5月28日。名誉勲章、殊勲十字章、柏葉付銀星章、レジオン・オブ・メリット、柏葉付銅星章、二重柏葉付名誉戦傷章

オーディ・マーフィの墓碑銘。オーディ・レオン・マーフィ(Audie Leon Murphy 1924年6月20日 - 1971年5月28日)は、アメリカの軍人、映画俳優。第二次世界大戦中にはアメリカ陸軍の軍人として多数の勲章を受章し、1945年7月16日のLIFE誌で「最多受章兵士」("Most Decorated Soldier")として表紙を飾ったことにより有名になった。戦後は映画俳優に転じ、20年以上にわたり44本の映画に出演した。またカントリー・ミュージックの作曲家としても成功を収めている。西部戦線における17ヶ月の勤務の間、彼はアメリカにおける最高級軍事勲章である名誉勲章を受章したほか、フランスやベルギーを始めとした諸外国からのものも含めて32つの勲章等を受章している。また1955年に公開された自伝的映画『地獄の戦線』(To Hell and Back)は、1949年に出版された同名の著書に基づいている。1971年、航空事故によって46歳でこの世を去った。彼は軍葬をもってアーリントン国立墓地に葬られた。

オーディ・マーフィは軍人と俳優の両方で成功した人物です。彼は貧しいアイルランド系移民の小作人の父エメット・ベリー・マーフィ(1886年2月20日 - 1976年9月20日)と母ジョージ・ベル(旧姓キリアン 1891年 - 1941年)の元、テキサス州ハント郡キングストンに生まれました。1936年に父が失踪した為、学校を5年生で中退し、家族の生活を支えるべく近隣の綿花農場で日給1ドルで働くなど、幼いころから大変な苦労人でした。しかし、家族を養うために始めた狩りによって、ライフルの腕を上達させ、これは後に戦争での大活躍へと繋がりました。マーフィは真珠湾攻撃の後軍隊に志願するのですが、小柄だという理由で海兵隊と海軍から拒否された後、陸軍に入隊し歩兵として高度な訓練を積みまいした。マーフィは自らを海外の戦場に送り出すべく、各方面への熱心な働きかけを行い、1943年初頭にモロッコのカサブランカへと送り出されました。1943年7月10日、アメリカ軍によるシチリア侵攻(ハスキー作戦)が彼の初陣で、到着後まもなく、彼は馬に乗って逃亡中であったイタリア軍の将校2名を追跡した上で殺害し、この功績から伍長(corporal)への昇進しました。シチリアの占領後は、イタリア本土侵攻に参加し、待ち伏せにより3人のドイツ兵を殺害し、これらのサレルノでの功績から、マーフィは軍曹(Sergent)に昇進しました。他にもイタリア戦線ではその技能と勇敢さから、いくつかの記章や勲章を受けています。1944年8月15日に降伏したはずのドイツ兵が、マーフィの親友を殺害したため、怒り狂ったマーフィは銃座に詰めていたドイツ兵を皆殺しにし、機銃座から持ち出した機関銃と手榴弾を用いて、周囲のドイツ軍陣地に攻撃を加え、この功績により殊勲十字章(Distinguished Service Cross)を受けました。マーフィの所属した第3師団は7週間の戦闘で、4500名もの死傷者を出した勇敢な部隊でしたが、マーフィはその中でも際立った奮戦を行ったため、銀星章(Silver Stars)を2度受章しています。これに伴いマーフィは二等軍曹(staff sergeant)から小隊先任軍曹(Platoon Sergent)に昇進し、最終的には少尉(second lieutenant)として小隊長の任につきました。少尉昇進の12日後、腰を狙撃され負傷し10週間の療養を命じられ、部隊復帰から数日後の1945年1月25日には中隊長となりましたが、昇進当日に迫撃砲による攻撃を受けて再び負傷しました。マーフィの最大の激戦は、1月26日、気温は-10℃を、積雪は61cmの中、ドイツ軍の激しい抵抗により、128人いた兵士が19人までに減じている中、生き残った兵士を後方に逃がす為、M1カービンを片手にドイツ軍と一人で果敢に戦い、銃弾の全てを使い切ると、彼は爆発炎上して放棄されたM10戦車駆逐車に飛び乗り、砲塔上の.50口径機銃を使ってドイツ兵にさらなる闘いを挑みました。マーフィは敵が30mの距離まで迫っている中で、友軍に砲撃要請を行い、砲撃までの時間を稼ぐべくさらに戦い続けました。野戦指揮所が砲撃を受けて電話回線が切断されると、ようやくマーフィも撤退したのですが、その不屈の闘志は、映画『ランボー』並みだと言えます。最終的にホルツヴィアからドイツ軍を駆逐する事に成功し、マーフィはアメリカ軍の勲章において最高位の勲章である名誉勲章を授与されました。ちなみに名誉勲章を第二次世界大で受賞した軍人は464人ですが、マーフィはその内の一人です。彼は29ヶ月間を海外の戦地で過ごし、また2年間を第3歩兵師団の戦闘員として過ごしたが、それでもなお21歳未満であり、それでいながら途方もない数の勲章を授与されました。1945年7月16日、マーフィは「最も勲章を受けた兵士」(most decorated soldier)としてLIFE誌の表紙を飾り、その後、1966年に少佐として州軍を除隊しました。さて、ここからマーフィの第二の人生が始まるのですが、1945年9月、ジェームズ・キャグニーによってハリウッドへ招かれ、俳優を始めました。しかし、初期の頃は中々仕事に恵まれず、端役として出演を果たす程度でした。マーフィがスターとなるのは、1949年に出版されたマーフィの自伝『To Hell and Back』は当時のアメリカで全国的なベストセラーとなり、1955年にこの自伝を元にした『地獄の戦線』(原題:To Hell and Back)が映画化され、1000万ドルの興行収入を記録し、ユニバーサルスタジオ43年歴史上最大のヒット作となってからでした。マーフィは最初、自分で自分の役をすることに非常に消極的でしたが、この映画はスティーブン・スピルバーグの『ジョーズ』に抜かれるまで、ユニバーサル・スタジオにおける最高記録として保持され続けました。『地獄の戦線』での成功を経て、マーフィは西部劇以外の映画にも出演するようになりましたが、あまり上手くいかず、再び低予算西部劇における唯一のスターとして扱われていくことになりました。いかに勇敢なマーフィにとっても、戦争の記憶は消しがたいものであったらしく、私生活では鬱病や不眠症、そして戦争経験による悪夢に苛まれていました。マーフィは常に退役軍人らの代弁者たる立場を取り、彼の発言のおかげで、戦闘ストレス反応および戦闘に基づくPTSDに関する議論が行われるようになりました。マーフィの最期は、1971年5月28日、航空機がバージニア州カタウバ付近でロアノークから20マイルの位置にあるブラシ・マウンテンの山中に墜落したことにより、マーフィを含む乗客5名とパイロットの合計6名が亡くなりました。1971年6月7日、マーフィは最高級の軍葬をもってアーリントン国立墓地に葬られました。通常、名誉勲章受章者の墓碑は金箔で装飾される事が習わしとなっているのですが、マーフィが生前に「ごく普通の兵士」として葬られる事を望んでいた為、金箔ほどこされていません。上記の墓碑銘は彼の受賞暦ですが、銀星章などに付されている柏葉は複数回受章を意味しています。

アーリントン国立墓地にあるマーフィの墓碑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3#mediaviewer/File:Audie_Murphy_grave_-_Arlington_National_Cemetery_-_2011.JPG

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

If I take the wings of the morning
and
dwell in the uttermost parts of the sea

曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも

チャールズ・リンドバーグとアン・モロー・リンドバーグの墓碑銘。チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ(英語: Charles Augustus Lindbergh, 1902年2月4日 - 1974年8月26日)は、アメリカ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章、議会名誉黄金勲章の受賞者。1927年に「スピリット・オブ・セントルイス」と名づけた単葉単発単座のプロペラ機でニューヨーク・パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功。1931年には北太平洋横断飛行にも成功した。スウェーデン移民の息子としてミシガン州デトロイト市で生まれ、ミネソタ州リトルフォールズで成長した。父チャールズ・オーガスト(en:Charles August Lindbergh)は弁護士、その後共和党の国会議員となり第一次世界大戦へのアメリカの参戦に反対した。母エヴァンジェリン(Evangeline Lodge Land Lindbergh)は化学教師だった。リンドバーグは幼少時から機械への関心を示したが、1922年には機械工学から離れ、ネブラスカ航空機でパイロットと整備士の訓練に参加したあとカーティスJN-4「ジェニー」を買い、曲芸飛行士になった。1924年にはアメリカ陸軍航空隊で飛行士として訓練を始めた。訓練を一番の成績で終え1920年代にはライン・セントルイスの民間航空便パイロットとして働いた。1927年5月20日5時52分(出発時の現地時刻)、リンドバーグはスピリットオブセントルイス号(ライアンNYP)でニューヨーク・ロングアイランドのルーズベルト飛行場[1]を飛び立ち、5月21日22時21分(到着時の現地時刻)、パリのル・ブルジェ空港に着陸、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。飛行距離は5,810kmで飛行時間は33時間29分30秒だった。これによりリンドバーグは、ニューヨーク-パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられるオルティーグ賞とその賞金25,000ドル、さらに世界的な名声を得た。無着陸飛行を達成した際にル・ブルジェ空港へ押し寄せた観客の数は、空港に入り切らなかった分も含めて延べ75万人とも100万人ともいわれている。スピリットオブセントルイス号は、リンドバーグの指示の下に特別にカスタマイズされた機体であった。多量の燃料(ガソリン)を積むべく操縦席の前方に燃料タンクを設置したため、座席からは直接前方が見えず、潜望鏡のようなものを使うか、機体側面の窓から顔を出す必要があった。当時、無名の操縦士だったリンドバーグには出資者が少なかったため、他のオルティーグ賞挑戦者のように大型の機材を用意できず、また機材そのものもリンドバーグが望んだベランカ社製品より性能の低いものにせざるを得なかったことから、前方視界を犠牲にして燃料の搭載量を増やすことで対処したのである。さらにバックアップの操縦士を乗せることもできなかったため、パリまでの全行程を一人で操縦し続けるという過酷な飛行となった。飛行中、リンドバーグは強い睡魔に襲われたが、これを克服してパリに到達した。現在、この機体はスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。「リンドバーグが大西洋無着陸飛行に初めて成功した」と誤解されがちだが、単独でない大西洋無着陸飛行については、1919年にジョン・オールコックとアーサー・ブラウンが達成している。これは、6月14日から6月15日にかけての16時間でニューファンドランド島からアイルランドへ1,890kmを飛行したものであった(その他の大西洋横断飛行については「大西洋横断飛行」を参照)。また、パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだとされるが、この台詞は後世の脚色であり、リンドバーグはその時自分がパリに着いたことも分らなかったという。実際に発した最初の言葉としては、「誰か英語を話せる人はいませんか?(この後英語を話せる人に「ここはパリですか?」と尋ねる)」であるという説と、「トイレはどこですか?」であるという説の2つがある。いずれにせよ、「翼よ、あれがパリの灯だ!」の出所は自伝 "The Spirit of St. Louis"の和訳題であり、日本語では広く知られているが、英語圏ではこれに対応するよく知られた台詞は存在しない。1929年に駐メキシコ大使ドワイト・モロー(en:Dwight Morrow)の次女アン(en:Anne Morrow Lindbergh)と結婚した。アンは夫の勧めでパイロットや無線通信士の技術を身につけ、乗務員として調査飛行に同行することになる。後年、彼女は作家となった。夫妻はチャールズ・オーガスタス・ジュニア(1930年)、ジョン(1932年)、ランド(1937年)、アン(1940年)、スコット(1942年)およびリーヴェ(1945年)の6人の子供をもうけた。1932年3月1日に1歳8ヶ月の長男ジュニアが自宅から誘拐され、10週間に及ぶ探索と誘拐犯人との身代金交渉の後に、ニュージャージー州ホープウェルで5月12日に死んでいるのが見つかった(リンドバーグ愛児誘拐事件)。2003年11月、リンドバーグとミュンヘンの帽子屋ブリギッテ・ヘスハイマー(Brigitte Hesshaimer)の間に3人の非嫡出子が生まれていたことがDNAテストによって証明された。3人はそれぞれ1958年・1960年・1967年にドイツで生まれた。リンドバーグとヘスハイマーの関係は1957年に始まり、彼の死まで継続された。ヘスハイマーは2001年に74歳で死去した。リンドバーグ夫妻は1931年に、北太平洋航路調査のためニューヨークからカナダ、アラスカ州を経て中国までロッキードの水上機シリウス号で飛行した。途中8月23日には日本の国後島、8月24日には根室市、26日に霞ヶ浦、その後大阪、福岡を経て、中国の南京・漢口まで飛行した。妻のアン・モローはこの記録を『NORTH TO THE ORIENT 』(邦訳として『翼よ、北に』みすず書房,2001年がある)として上梓した。リンドバーグの大きな業績の一つとして人工心臓の開発がある。リンドバーグには心臓弁膜症を患っている姉がおり、心臓病の治療法を開発したいという思いから生理学者アレクシス・カレルの研究室を訪れた。2人は意気投合し共同研究をおこない、1935年に世界初の人工心臓である「カレル・リンドバーグポンプ」を開発。これは今日の人工心臓の原型となっている。組織が体外で生き続るための生理学的条件についてはカレルの知識が、血液を連続して環流させるポンプ装置の発明についてはリンドバーグの工学知識が生かされた。第二次世界大戦前夜、リンドバーグはアメリカ軍の要請でドイツに何度か旅行し、ドイツ空軍についての報告を行った。1938年にはヘルマン・ゲーリングから勲章を授与されたが、この授与は、ユダヤ人を差別する政策やアンシュルスなどの強権的な対外政策を進めるナチス党政権と親密になりすぎているということでアメリカ国内で批判を受けた。批判に対して、リンドバーグは「ドイツに対する過剰な非難である」と反論した。ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した後、共和党員であったリンドバーグはアメリカの孤立主義とドイツの政策に対する支持者となり、各地で講演を行った。1941年1月23日にはアメリカ連邦議会で演説し、ドイツと中立条約を結ぶべきと主張した。リンドバーグは孤立主義者の団体であるアメリカ・ファースト(America First)の主要なスポークスマンであり、1941年9月11日のアイオワ州デモインでの演説では、イギリス人とユダヤ人がアメリカに連合国側での参戦を働きかけていると述べた。この発言にユダヤ系アメリカ人が反発し、フランクリン・ルーズベルト大統領はリンドバーグのアメリカ陸軍航空隊での委任を解除した。1941年12月7日に日本との戦争が開始されると、リンドバーグは陸軍航空隊への復帰を試みたが、上記のようないきさつがあったためにルーズベルト大統領とその補佐官らに拒否され復帰できなかった。そのため、政府と航空会社(トランスワールド航空)に対する民間のコンサルティング会社を通じて、アメリカ政府の戦争努力を援助した。1944年までに太平洋で、民間人として50回の実働任務をこなしている。ロッキードP-38での長距離航法やF4Uでの離陸法の発展に貢献した。また、連合国軍(アメリカとオーストラリア軍)による日本兵捕虜の虐殺・虐待をしばしば目撃し、その模様を日記に赤裸々に綴っていた。その著書の中で、リンドバーグは「ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋でも日本人に行ってきたのである。」と記している。1953年に大西洋単独無着陸飛行について書いた "The Spirit of St. Louis"(邦題『翼よ、あれがパリの灯だ』)を出版し、これにより、1954年のピュリッツァー賞を受賞した。同書は1957年にビリー・ワイルダー監督の手で映画化されて有名になった(映画の邦題は『翼よ! あれが巴里の灯だ』。また原作にはないフィクションも一部含まれている)。1970年には訪日し、大阪万博を訪れた。晩年は、妻のアン・モローと共にハワイ州のマウイ島に移り住んだ。また、自然環境の保全に力を注ぐようになり、世界各地を回り、環境保護活動に参加、多額の資金を寄付した。1974年8月26日朝にマウイ島ハナのキパフルにある別荘にてリンパ腫瘍が原因で72歳で死去した。

大西洋無着陸飛行に初めて成功した人は誰か? と聞かれたら、まず間違いなくチャールズ・リンドバーグという答えが返ってくるでしょう。しかし、それは間違いです。チャールズ・リンドバーグは大西洋「単独」無着陸飛行をで初めて行った人物ではありますが、大西洋を無着陸で横断した67番目の人物です。では最初に大西洋を無着陸で横断した人物は誰なのかと言うと、それは1919年にジョン・オールコックとアーサー・ブラウンが達成しています。ちなみに、リンドバーグはパリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだとされていますが、これはフィクションで『翼よ、あれがパリの灯だ!』の出所は自伝 "The Spirit of St. Louis"の和訳題であり、また1957年にビリー・ワイルダー監督が製作したリンドバーグの伝記映画に、『翼よ! あれが巴里の灯だ』というタイトルをつけたために、日本で有名になったというのが真相です。リンドバーグがパリに着いた時に最初に発した言葉は、「誰か英語を話せる人はいませんか?」でした。リンドバーグは一躍世界の英雄となったのですが、1932年、2歳弱の長男が誘拐、殺害されるという悲劇にみまわれました。この事件を契機に、複数の州にまたがる誘拐犯行を連邦犯罪として取り締まるいわゆるリンドバーグ法が成立しています。飛行機とは全く関係のないことですが、リンドバーグの大きな業績の一つとして人工心臓の開発があります。リンドバーグには心臓弁膜症を患っている姉がいたのですが、心臓病の治療法を開発したいという思いから生理学者アレクシス・カレルの研究室を訪れ、共同研究をおこない、1935年に世界初の人工心臓である「カレル・リンドバーグポンプ」を開発しました。これは今日の人工心臓の原型となっています。リンドバーグは政治的には非常に親ドイツ的であり、ドイツと中立条約を結ぶべきと主張していました。そのため、ナチス党政権と親密になりすぎているということでアメリカ国内で批判を受け、最終的にフランクリン・ルーズベルト大統領はリンドバーグのアメリカ陸軍航空隊での委任を解除しました。また親日派であったリンドバーグは、連合国軍(アメリカとオーストラリア軍)による日本兵捕虜の虐殺・虐待をしばしば目撃し、その模様を日記に赤裸々に綴っていました。その著書の中で、リンドバーグは「ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋でも日本人に行ってきたのである。」と記しています。1953年に大西洋単独無着陸飛行について書いた "The Spirit of St. Louis"(邦題『翼よ、あれがパリの灯だ』)を出版し、これにより、1954年のピュリッツァー賞を受賞しました。また妻のアン・モロー・リンドバーグも、飛行家であった上に文才もあり、1955年に『海からの贈物』を書いてベストセラーとなり、文筆家としていくつかの賞を受けています。最後に上記の墓碑銘についてですが、これは詩篇の一節であり、詩篇の139:9に載せられています。

Psalm 139 - Washington National Cathedral, October 9, 2010
https://www.youtube.com/watch?v=ECnei3_gKfM

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