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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Good morning.

おはよう。

ウィリアム・タフトの最期の言葉。ウィリアム・ハワード・タフト(英語: William Howard Taft, 1857年9月15日 - 1930年3月8日)は、第27代アメリカ合衆国大統領および第10代連邦最高裁判所首席裁判官。両方の職を務めた唯一の人物である。1857年にシンシナティの名家タフト家に生まれ、「ビッグ・ビル」は1878年にイェール大学を卒業、1880年にシンシナティ・ロー・スクールを卒業した。彼は様々な地方の法律職を経験し、1887年にオハイオ州最高裁判所に勤務する。1890年、タフトは合衆国訟務長官に任命され、1891年には第6連邦巡回区控訴裁判所判事に任命される。1900年、ウィリアム・マッキンリー大統領はタフトをフィリピン民政長官に任命した。1904年にセオドア・ルーズベルト大統領はタフトを陸軍長官に任命した。ルーズベルトは当時のタフトを政治的に近い位置にいると考え、自らの後継者に指名した。現職大統領と共和党の支援の波に乗り、タフトは1908年の大統領選で圧勝した。最初かつ唯一の任期でのタフト大統領の国内課題は独占禁止、官公庁の改革、州際通商委員会の強化、郵政業務の改善および憲法修正第16条の通過に強調された。対外政策では自ら「ドル外交」と呼んだ手段でラテンアメリカおよびアジアの発展途上国の経済発展を促進しようとした。しかしながら、有権者は彼から遊離し、二期目を目指した1912年の大統領選では大敗し再選に失敗した。1857年9月15日にオハイオ州シンシナティ近郊に生まれる。母親のルイーザ・トーリーはマウント・ホリヨーク大学の卒業生であった。父親のアルフォンソ・タフトはピーター・ローソン・タフトの息子、ロバート・タフト・シニアの子孫であり、著名な共和党員であった。彼は1839年にシンシナティで弁護士を開業し、ユリシーズ・S・グラント大統領の元での陸軍長官を務めた。ウィリアム・ハワード・タフト国立歴史史跡は、タフトが少年時代を過ごした家である。彼の生家はオリジナルの外観に復元されている。内部の4つの部屋は、タフトの少年時代の生活を反映した展示がなされ、2階にはタフトの人生を強調する展示品が公開されている。家族の多くと同じく、タフトはウッドワード高校に通い、ニューヘイヴンのイェール大学に進学した。イェールで彼はライノニアン・ソサエティとスカル・アンド・ボーンズに加わった。スカル・アンド・ボーンズは1832年に彼の父親が共同して結成した秘密結社であった。彼はまた、プサイ・ウプシロンのメンバーでもあった。タフトはその体躯から「ビッグ・ラブ Big Lub」の愛称が与えられたが、大学の友人は「オールド・ビル Old Bill」の愛称で呼んだ。彼は生涯を通してその体重に関する嘲りを受けた。フィリピン民政長官時代にタフトはワシントンD.C.に「今日は乗馬を行ったが、良い感じであった。」との電報を送った。陸軍長官のエリフ・ルートはこれに対して「馬はいかがでしたか?」との返信を行っている。1878年、タフトは121名中2番の成績でイェールを卒業した。卒業後はシンシナティ・ロー・スクールに入学し、1880年に法学位を取得した。在学中に彼は地方紙「The Cincinnati Commercial」で働いている。オハイオ州で法曹界入りした後、タフトはハミルトン郡の検察官に任命された。1882年には内国歳入局の徴収官に任命される。タフトは1886年にシンシナティで長年の恋人であったヘレン・ハロンと結婚した。1887年にはオハイオ州高等裁判所判事に任命された。1890年、ベンジャミン・ハリソン大統領はタフトを訟務長官に任命した。任命当時の年齢は32歳で、2010年1月現在最年少の訟務長官である。1891年には新設された第6連邦巡回区控訴裁判所判事に任命される。1892年3月17日に上院の承認を受け、同日就任している。1893年頃、タフトはピッツバーグ・レダクション社(現在のアルコア)のアルミニウム処理技術に関する複数の特許に関して有利な判決を下した。同社は1903年に当事者と和解し、短期間アメリカ合衆国における唯一のアルミニウム供給企業であった。同社によるアルミ市場の寡占に関してタフトはアディソン・パイプ・アンド・スチール社対アメリカ合衆国(1898年)において意見を述べている。1896年から1900年までタフトは裁判官を務めると共に、シンシナティ大学法学部の教授および初代学部長として勤務した。1900年にウィリアム・マッキンリー大統領が、米西戦争の結果譲渡されたフィリピンの文民政府組織委員会の長にタフトを指名した。1901年から1904年までタフトは、フィリピンの初代知事を成功裡に務めた。1904年には、セオドア・ルーズベルト大統領がタフトを陸軍長官に指名した。陸軍長官時代に訪日し、その際には桂・タフト協定と呼ばれる日米間の合意の成立に関わった。セオドア・ルーズベルトは大統領職を二期務めた後に、1908年の大統領選出馬を辞退した。代わりに、彼は次の共和党大統領候補としてタフトを指名した。ルーズベルトの支援でタフトは民主党候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを破った。タフト政権下では、ルーズベルト前政権の方針を引き継ぎながらも、ドル外交と呼ばれる経済力を背景とした武力を伴わない平和的な外交を目指した。その一環として東アジアでは門戸開放通牒の原則に従い、列強の対中侵食を抑えつつ、中国権益の平等的な分配を目指したが、かえって列強の反発を招いて頓挫した。また、中米地域でも欧州諸国の資本を排除して情勢の安定を図ったが、結果的にアメリカ自身が武力介入をわざるを得なくなり、かえって情勢が不安定となってしまった。タフトは大統領職を通じて、共和党のリベラル派(その多くはルーズベルト前大統領の政策に従い続けた)からの異議と争った。進歩的な共和党員は、公然と1910年の議会選挙および1912年の共和党大統領予備選挙でタフトに挑戦した。タフトが共和党指名を勝ち取った時、彼らは、本選挙でタフトに対抗するために新党(アメリカ進歩党または革新党、別名「ブル・ムース」)の結成と対立候補としてセオドア・ルーズベルトの擁立を計画した。ルーズベルトの進歩党からの立候補は共和党員の投票を二分し、民主党候補ウッドロウ・ウィルソンの勝利を招く結果となった。公職を退いた後、タフトは学術および調停、そして平和執行連盟(英語版)を通じての世界平和の追求に時間を費やした。第一次世界大戦後の1921年、ウォレン・G・ ハーディング大統領によってタフトは連邦最高裁判所の首席裁判官(最高裁長官)に任命された。在任中は法廷をより効率的に機能させるために、最高裁判所が全国に重要な事件に先行を与えることができる1925年のジャッジ法の成立を主張。死去直前の1930年まで、最高裁長官を務めた。

ウィリアム・タフトは桂・タフト協定で有名な、第27代アメリカ合衆国大統領です。桂・タフト協定とは、日露戦争中の1905年7月29日に日本の内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、フィリピン訪問の途中来日したアメリカ特使であったウィリアム・タフト陸軍長官との間で交わされた協定で、米国は韓国(大韓帝国)における日本の支配権を確認し、日本は米国のフィリピンの支配権を確認しました。この協定とポーツマス条約により、列強のすべての国が大韓帝国に対する日本の支配権を認めたこととなり、大韓帝国は事実上日本の保護国となりました。この協定は、現代の大韓民国においても、韓国の生存および主権問題に関して、アメリカがいかに信頼することができない国であるかの実例としてしばしば用いられています。その後タフトはアメリカ合衆国大統領となり、桂太郎は日本の内閣総理大臣となり、お互いに位を極めました。大統領となった後のタフトは自ら「ドル外交」と呼んだ、ラテンアメリカと東アジアに資本力を背景に対外進出を図る外交政策を推進しました。特にラテンアメリカでは、欧州に対して行っていた対外債務をアメリカに借り換えさせることで、その国の市場を強引に開かせようとしたため、米国政府と米国企業が自国の市場を開放させるために資本力、軍事力を利用していると軽蔑的に理解されていました。タフトの「ドル外交」は現在のアメリカのグローバリゼーションに似ているかもしれません。タフトは重商主義により、平和的に門戸開放を行おうとしましたが、列強の対中侵食を抑えて中国権益の平等的な分配を目指したことは、結果として列強の反発を招き、中米地域での欧州諸国の資本を排除は、最終的にアメリカ自身が武力介入をわざるを得なくなり、かえって情勢が不安定となりました。タフトは大統領を辞めた後も、世界平和のために精力的に活動を行い、1921年連邦最高裁判所の首席裁判官(最高裁長官)になり、死去直前の1930年まで務めました。タフトに関する小話として、彼は代大統領中最大の巨漢であり、平均して300ポンド (140kg) 以上の体重がありました。ホワイトハウスのバスタブに体がはまり込み、出られなくなったため、ホワイトハウスのバスタブがより大型のものに取り替えられたという逸話もあります。また、1910年に大統領としてMLBの始球式を初めて行った人物であり、ワシントンDCにある地元球団『ワシントン・セネタース』の開幕式で行われました。これは、当時太りすぎのタフトを見かねた側近が、タフトに運動をさせようとして野球での始球式を思いついたことがきっかけと言われており、これ以降歴代の大統領が、同球団の開幕式で始球式を行うことが恒例行事となりました。実は記録に残っている最古の始球式は1908年11月22日にアメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合における大隈重信の始球式とされており、その起源は日本にあります。このようにタフトは、妙な点でも日本と関係のある大統領でした。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Doctor, I'm dying. Perhaps it is best.

ドクター、私は死につつあります。ひょっとしたらそれが一番良いのかもしれません。

ジョン・タイラーの最期の言葉。ジョン・タイラー(John Tyler, 1790年3月29日 - 1862年1月18日)は、アメリカ合衆国の第14代副大統領および第10代大統領。彼は独立宣言署名後に生まれた二人目の大統領、および大統領の死に際して副大統領から昇格した最初の大統領。また所属政党を持たなかった2人の大統領のうちの先の1人(のちのもう1人は17代アンドリュー・ジョンソン大統領)である。初代ジョージ・ワシントンも無党派を標榜したが実質的には連邦党政権であった。ジョン・タイラー・ジュニアは1790年3月29日にバージニア州チャールズシティ郡(ウィリアム・ヘンリー・ハリソンが生まれたのと同じ郡)でジョン・タイラー(1747年 - 1813年)およびメアリー・アーミステッド夫妻の息子として生まれる。タイラーは地域の指導層になるようにと、7人の兄弟と共に上流階級の教育を受けて育った。彼は合衆国憲法が厳密に解釈されることになっていたと信じながら育ち、伝えられるところによれば、この信念を決して失わなかったという。父親はトーマス・ジェファーソンと友人関係にあり、1,000エーカー以上のタバコ畑と何十名もの奴隷を所有し、リッチモンドの巡回裁判所に判事として勤務した。彼は州権を支持し、その権力を維持した。タイラーが7歳のときに母親は心臓発作で死去した。12歳になるとタイラーはウィリアム・アンド・メアリー大学の予備門に入学し、3年後には同大学に進学した。 タイラーは1807年に17歳で大学を卒業した。彼は下院議員職後に知事(1825年 - 1827年)として父親の後を継いだ。ジョン・タイラーは、大統領選挙からわずか一か月後に肺炎で死去したウィリアム・ハリソンから大統領職を継承した。なお、この継承は公式には1967年発効の「合衆国憲法修正25条」まで厳密に認められなかった。「偶然内閣」、「継承内閣」と揶揄されたが、その反発から独断専行し議会と対立。1期4年の間に9回の拒否権を発動した。更に、副大統領就任の際に支持してくれた所属のホイッグ党の政策に従わず、時の党首ヘンリー・クレイらと激しく対立。大統領就任から2か月ほどで党から除名された。これにより彼は「政党を持たざる男」として知られることとなった。タイラーは元民主党員で南部州権論者の信奉者であり、北部を基盤にするホイッグ党の急進的な政策とはしばしば対立していた。ホイッグ党はその後、「タイラー降ろし」の圧力をかけ、閣僚6名中5人を辞職させた。また、大統領選挙に前後してロード・アイランド州で選挙人制度に不満を持つ改革派の不満が爆発し、同年州議会を無視して州民代表会議を招集してトーマス・ドアを知事に選出した、いわゆるドアの反乱が起こった。同州は1841年までには白人男子普通選挙制度を持たない唯一の州となっており、ドアらは白人男子普通選挙制を唱えて武装蜂起したが、反乱が頂点に達した翌1842年4月にタイラーは鎮圧に加勢するための連邦軍派兵を決定、反乱は鎮圧された。43年には穏健改革派によって新州憲法が制定された。在任中のおそらくもっとも著名な功績は在任末期の1845年3月1日のテキサス(当時のテキサス共和国)の併合承認である。これにより同年12月29日テキサスはアメリカ合衆国の一部となった。南部の強力な奴隷州の併合が、後の南北戦争の遠因となった。また1821年に併合されていたフロリダは1845年3月3日に州に昇格した。1861年2月、タイラーはワシントン講和会議の議長を務めるため再び公的生活に入る。会議は内戦を回避するための妥協が求められた。一方モンゴメリー会議ではアメリカ連合国憲法が採択された。上院が彼の提案を拒絶すると、タイラーはバージニア州の即時脱退を促した。1861年のアメリカ連合国臨時議会に参加した後、彼は南部連邦の下院議員に選任されたが、就任前に気管支炎で死去した。アメリカ南部連邦をアメリカ合衆国と見なさない場合、彼は外国で死去した唯一の大統領経験者であるかもしれない。彼の最後の言葉は「たぶんそれが一番良いだろう。」であった。タイラーはヴァージニア州リッチモンドのハリウッド墓地に埋葬された。テキサス州タイラーは彼に因んで命名された。

アメリカ合衆国の第10代大統領ジョン・タイラーを知っている日本人は、あまりいないかもしれません。彼は17歳で大学を卒業した秀才で、下院議員職後35歳の時に知事になりました。タイラーの大統領就任は、前任のウィリアム・ハリソンが肺炎で大統領選挙からわずか一か月で亡くなったため、タナボタ的に副大統領であった彼が大統領職を継承しました。それゆえに、「偶然内閣」、「継承内閣」と揶揄されました。それが気に入らなかったからなのかは分かりませんが、彼は1期4年の間に9回の拒否権を発動するという強権的な政治を行い、身内であるホイッグ党から除名されました。かくして彼はアメリカ史上珍しい、政党を持たざる大統領として知られることとなりました。彼の最大の功績は、在任末期の1845年3月1日のテキサス(当時のテキサス共和国)の併合を承認したことです。これはテキサス住民の総意であり、また米国が望むことでもありましたが、テキサスが1845年に28番目の州として米国に併合されると、翌年からの米墨戦争のきっかけともなりました。またテキサスという強大な奴隷州を併合したことは、後の南北戦争の遠因ともなっています。彼に因んで命名されたテキサス州タイラーは、「ばらの街」と呼ばれており、タイラーとその周辺ではばらの栽培が盛んで、市の特産となっているだけでなく、全米最大級のばら園があります。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

I can hear the music all around me.

僕を取り巻いてる音楽が聞こえる。

ダドリー・ムーアの最期の言葉。ダドリー・ステュアート・ジョン・ムーア(Dudley Stuart John Moore, CBE, 1935年4月19日 - 2002年3月27日)は、アカデミー賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞を受賞した、イギリスの俳優、コメディアン、ミュージシャンである。ムーアの名が世に知られたのは、1960年代初期に『Beyond the Fringe』の4人の脚本兼出演者のうちの一人としてであった。それからさらにピーター・クックと結成していた二人組の一方として徐々に有名になった。喜劇俳優として非常に有名になったのは、ボー・デレクと組んだ『テン』や、『ミスター・アーサー』といった1970年代後半から1980年代前半にかけてのハリウッド映画での成功のおかげであった。カドリー・ダドリー (Cuddly Dudley) としてもよく知られている。ムーアはイギリスのエセックス州ダゲナムで鉄道電気技師の息子として生まれた。労働者階級に属する両親は、子供たちにあまり愛情を示さなかった(そのことについては彼の姉が公表している)。5フィート2インチ半(1.59メートル)と目立って背が低かった。また生まれつきの内反足のために長期の加療を必要とした。そのことと背が低いこととを合わせて、他の子供たちにからかわれた。いじめられる辛さから逃れるため、6歳のときコーラス隊に入り、ピアノやバイオリンを始めた。ピアノとオルガンの腕はめきめきと上達し、14歳のときには教会の結婚式でパイプオルガンを演奏していた。また、親切な教師ピーター・コークが音楽奨学金を提供してくれたおかげでダゲナム郡立高校に通うことができた。コークはムーアにとって無二の親友となり、1994年まで交際があった。オクスフォード大学モードリン校で音楽と作曲を学び(オルガン専攻であった)、オクスフォード・レビューにおいてアラン・ベネットと共演した。このときベネットはムーアを『Beyond the Fringe』のプロデューサーに推薦したが、このコメディは多くの人から『空飛ぶモンティ・パイソン』の先駆けとなった作品と見られている。『Beyond the Fringe』は1960年代の風刺ブームの嚆矢であった。イギリスで大ヒットした後、舞台をアメリカに移し、そこでもまたヒットした。大学時代、ムーアはジャズに強く興味を持つようになり、すぐに名ジャズピアニスト、作曲家となり、ジョン・ダンクワースやクレオ・レインといった一線のミュージシャンたちとともに活動した。1960年にはダンクワースのバンドを『Beyond the Fringe』に参加させた。その後、高く評価されることになる「ダドリー・ムーア・トリオ」(ドラムはクリス・カラン、ベースはピート・マガーク後にピーター・モーガン)を1960年代に結成した。1963年にはDeccaレーベルより、トリオによる『The Other Side of Dudley Moore』を発表。これは「My Blue Heaven」、「Lysie Does It」、「Poova Nova」、「Take Your Time」、「Indiana」、「Sooz Blooz」、「Bauble, Bangles and Beads」、「Sad One for George」、「Autumn Leaves」という曲を含んだモノラルのLP盤であった。トリオはイギリスのテレビに定期的に出演し、また数多くのレコーディングを行って、ピーター・クックのクラブ「The Establishment」にも長期間出演していた。ムーアは映画『悪いことしましョ!』、『Inadmissible Evidence』、『ふたりは恋人』、『オータム・ストーリー』のサウンドトラックの製作に関わった。1970年代前半には、パーティで知り合ったイギリス人シンガーソングライター、リンジー・ディ・ポールと短い間付き合いがあった。「The Establishment」の後、ニューヨークに渡り、イギリスに帰国後、BBCで独自のシリーズ番組のオファーを受けた。『Not Only... But Also』(1965年)の枠がムーアに任されたが、ピーター・クックをゲストに招いたときから、二人のコンビに注目が集まり、番組内の定番となった。クックとムーアといえば、何といっても、二人の労働者を描いた「ピート・アンド・ダド(Pete and Dud)」が思い浮かぶ。レインコートに布帽子といういでたちで政治や芸術を語るのである。たいてい、クック演じる上流階級の変人にインタビューする役をムーアが演じるという、一回限りのキャラクターのシリーズものを作り上げた。二人は素材を脚本化するのに変則的な方法を編み出したが、その方法とはテープレコーダーを使って適当にアドリブを演じたものを録音し、そこから起こしたり編集したりするのである。この方法では出来上がった脚本を十分にリハーサルする時間がないため、カンペをよく使っていた。ムーアの死体役が有名で、番組はそのまま続行し、クックがムーアにスタジオの観客より大きいリアクションをさせようとでもするかのようにわざと笑わせるのであった。なお、こういった独創性に富んだテレビショーのビデオやフィルムは、多くが後にBBCに廃棄されてしまったが(たとえば『ドクター・フー(Doctor Who)』など、他のイギリスのテレビ作品の大部分も同じように失われてしまっている)、しかしながらサウンドトラックの一部(レコードとして発売された)は生き残った。ムーアとクックは映画『悪いことしましョ!』(1967年)でエレノア・ブロンとともに共演し、さらに『Behind the Fridge and Good Evening』というツアーを行った。『悪いことしましョ!』は2000年にブレンダン・フレイザーとエリザベス・ハーレイの主演でリメイクされた。1970年代の後半に「デレク・アンド・クライヴ」名義でリリースされた3枚のアルバムについては、卑猥な言葉遣いやショッキングかつ思いつき的な内容により、多方面から酷評された。この直後の『Ad Nauseam』においてムーアはクックと決別した。クックが映画の仕事に専念できないほどのアルコール依存症に冒されていたからである。ムーアに後に死に至る原因となった病(進行性核上性麻痺 PSP, progressive supranuclear palsy)の症状が現れ始めたとき、最初は彼にもアル中の疑いが向けられた。ムーアが初期に演じた役のうちの二つは、一つが名ばかりの酔っ払いプレイボーイ、アーサーであり、もう一つは『テン』のそれほどでもない大酒飲みジョージ・ウェバーであった。1970年代の後半、ムーアはハリウッドに移り、そこで『ファール・プレイ』(1978年)にゴールディ・ホーンやチェビー・チェイスとともに出演し、デビューを飾った。次の年には出世作となったブレイク・エドワーズの『テン』に出演し、さらに映画『ダドリー・ムーアのモーゼの気分で』と続いた。すぐその後に『テン』よりさらに大きなヒットとなった『ミスター・アーサー』が続いた。この映画にはライザ・ミネリやジョン・ギールグッド(厳しくも愛情深い管理人の役でオスカーを獲得した)、ジェラルディン・フィッツジェラルドらも出演していた。ムーアはアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたが、『黄昏』のヘンリー・フォンダに敗れた。しかし、1984年にはゴールデングローブ賞のミュージカル・コメディ部門で主演男優賞を獲得した。ムーアはもう一つのヒット作、ブレイク・エドワーズ監督の『結婚ダブルス ミッキー&モード』で主演を努め、エイミー・アーヴィングと共演した。この作品で再度ゴールデングローブ賞のミュージカル・コメディ部門主演男優賞を獲得した。『ミスター・アーサー2』や、『キング・コング』のアニメ化作品などを含め、その後の映画では評価的にも興業的にもパッとしなかった。後にクックは『ミスター・アーサー』よりも『ミスター・アーサー2』のほうが好きだと主張してムーアを奮い立たせようとした。ムーアは俳優だけでなく作曲家やピアニストとしての活動も継続しており、多くの映画の曲を書き、ピアノの演奏を提供したが、それらの作品には好みのクラシック音楽のパロディが特徴的に見られた。さらに、指揮者ゲオルグ・ショルティと共同して1991年のテレビシリーズ『Orchestra!』を製作。これは一般大衆に交響楽のオーケストラを紹介するための番組であった。後にアメリカの指揮者マイケル・ティルソン・トーマスとともに、似たようなテレビシリーズ『Concerto!』を1993年から手がけたが、やはりこれも一般大衆にクラシック音楽のコンツェルトを紹介するものであった。1984年、ドイツのナスターシャ・キンスキーを共演に迎えてのサスペンスコメディ『Unfaithfully Yours』(殺したいほど愛されて)では歳の離れた妻への疑惑に煩悶する世界的指揮者に扮し、指揮やヴァイオリン演奏を披露。音楽家兼コメディアンの本領を発揮した。1987年、ピアニストでもある音楽評論家のレナ・フラクターからニューヨーク・タイムズの取材を受けた。二人は親密な友人となった。このころにはすでにムーアの映画界での活動は下火になっていた。実は台詞を覚えることができない障害に悩まされていたが、それまでにそういう問題に出くわした経験はなかった。ピアノに専念する道を選び、フラクターをアーティストとしてのパートナーにと考えた。アメリカやオーストラリアで二人はデュオとして活動した。しかし、やがて病状が明らかになりはじめ、指が思うとおりに動かなくなってきた。ろれつの回らないしゃべりやバランスを失った動きは、大衆やメディアによってアルコール中毒の症状として解釈された。ダドリー・ムーア自身が、この症状について何ら説明することができずにいた。ニュージャージーのフラクターの家族の家に引っ越し、そこに5年滞在したが、そのことがフラクターの結婚生活やムーアとの友情に大きな負荷を与えてしまい、とうとうムーアを隣の家に移してしまった。ムーアは1995年のピーター・クックの折り悪しき死によって取り乱してしまい、何週間にもわたって定期的にロンドンのクックの家に電話をかけては、返事の電話がかかってきて親友の声が聞けるのを待っていたりした。ムーアはクックの葬儀に参列したが、彼を知るたくさんの人がその振る舞いのおかしいことに気付いて、それはきっと失望か飲酒によるのだろうと見られた。1995年11月にムーアは友人たちとユーモア作家のマーチン・ルイスを集めてクックの一泊お別れ会をロサンゼルスで開き、ホストのルイスを補助した。2001年6月、ムーアは大英帝国勲章司令官(CBE)に叙勲された。病状がよくないにも関わらず式典に出席し、バッキンガム宮殿において、車椅子に乗り無言のまま勲章を授与された。ムーアは結婚と離婚を四度している。その相手はいずれも女優のスージー・ケンドール、チューズデイ・ウェルド(1976年に息子パトリックをもうけた)、ブローガン・レイン、そしてニコール・ロスチャイルド(1995年に息子ニコラスが生まれている)である。ケンドールとは特に良好な関係を維持しており、またウェルドやレインともそうであった。しかしながら、ロスチャイルドには自身の葬儀に出席することを明確に禁止した。病状が明らかになってきたころ、ロスチャイルドとの離婚に非常に苦労したが、なんとこのころ、ロサンゼルスで彼女だけでなくその前夫まで共同生活していたのである。ムーアはハリウッドでも屈指の魅力的な女性たちと付き合ったり、あるいは好まれていたが、その中には彫刻のような美しさを持つスーザン・アントンも含まれていた。1998年6月、ニコール・ロスチャイルドがアメリカのテレビ番組において、ムーアは深刻な病のため「余命いくばくもない」と発表したが、これはスージー・ケンドールによって否定された。1999年9月30日、ムーアはPSP (進行性核上性麻痺)による末期の退行性脳障害に冒されており、年内までの命と診断されたことを公表した。2002年3月27日、麻痺によって二次的に引き起こされた肺炎が原因でニュージャージー州ワチャングにて死去。66歳。亡くなったときレナ・フラクターがその手を握っており、最期の言葉が「僕を取り巻いてる音楽が聞こえる」であったことを伝えた。ムーアはニュージャージー州スコッチ・プレインズのヒルサイド墓地に埋葬された。フラクターは後に二人の思い出を出版した(『Dudley Moore』Ebury Press, 2004)。2004年12月、イギリスの「チャンネル4」は、ムーアとクックの関係をドラマ化したテレビ映画『Not Only But Always』を放送したが、作品はクックのほうに焦点があてられていた。同じ時期、この二人の関係は『Pete and Dud: Come Again』という舞台の題名にもなった。

ダドリー・ムーアは『テン』や、『ミスター・アーサー』に出演した、俳優、コメディアンです。元々はピーター・クックと結成していた二人組の一方として、イギリスのテレビ番組に出ていたのですが、アルコール中毒のクックが仕事をできなくなると、クックと別れてハリウッドに進出しました。彼が出演した映画で一番有名なのは、アカデミー賞で4部門にノミネートされ、助演男優賞と歌曲賞を受賞した『ミスター・アーサー』でしょう。この映画はアメリカン・フィルム・インスティチュートが選ぶ「アメリカ喜劇映画ベスト100」では53位となっています。ムーアはこの映画でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされましたが、『黄昏』のヘンリー・フォンダに惜しくも敗れてしまいました。ムーアは結婚と離婚を四度しているのですが、ハリウッドの多くの女優達と浮名を流したことでも有名です。ムーアは音楽家でもあり、作曲家やピアニストとしての活動も行っていました。上記の最期の言葉は、彼のそういった面を感じさせるものとなっています。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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Never born, Never died: only visited this planet earth between December 11, 1931 and, January 19, 1990.

永遠に生まれず、永遠に死なず、ただこの惑星に1931年12月11日から1990年1月19日の間いた。

バグワン・シュリ・ラジニーシの墓碑銘。バグワン・シュリ・ラジニーシ(Bhagwan Shree Rajneesh、 和尚/オショウ;Osho)、1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、インドの宗教家、神秘思想家。チャンドラ・モハン・ジャインとして、インドのクチワダに生まれる。1960年代にインド各地で講演するようになると、アチャリヤ・ラジニーシ(ラジニーシ)として知られるようになる。「ラジニーシ」は「月の王」を意味し、生来の名前である「チャンドラ」(月)に由来する。1970年代からは、バグワン・シュリ・ラジニーシとして知られる。1988年、ラジニーシの名前を廃し、その後はたんにOshoとして知られることを望む。日本語では漢字による表記を望んだが、本項では一般名詞の「和尚」との混同を避けるために「ラジニーシ」と表記する。一般には宗教家または精神的指導者と見なされるが、従来的な通念をもって語ることは難しく、みずからは特定のカテゴリに分類されることを望まなかった。数々の講話のなかで、禅を含め古今東西の宗教性の源流や注目すべき人物について語りながらも、因習的もしくは組織的な宗教についてはその弊害を強調し、それらを純粋な宗教性の追求と区別した。初期においてはヒンディ語、のちには英語によって行われた講話の数々は、録音と録画によって記録されるとともに、多様な言語に翻訳され、膨大な数の本として出版された。法句経/般若心経/金剛般若経をはじめとする仏典、碧巌録などを出典とする禅の逸話、ティローパやアティーシャなどチベット仏教の比較的に知られざる源流を創始した人物の言葉、インドに伝わる112の瞑想的技法の精髄を詩文として伝える「ヴィギャン・バイラーヴ・タントラ」、ウパニシャッド、パタンジャリのヨーガ・スートラ、老子や荘子の言葉、スーフィーの物語や逸話、聖トーマスによるものを含む福音書、ピタゴラスの金言集、ニーチェの『ツァラストラはかく語りき』などを取り上げた講話のシリーズのほか、弟子たちや報道陣からの質問に答えた講話のシリーズ、初期における弟子たちとの間での親密な対話を収めたシリーズなどがある。講話は多大なユーモアを伴い、たくさんのジョークが含まれている。これらの講話によって多様なトピックを扱うが、その多面性ゆえに、その内容を簡単にまとめたり、固定した教義を引き出したりするのが難しい。便宜的な要約として、ラジニーシは、頭または心の機械的な動きや条件付けに縛られた「マインド」(mind)からの解放と意識の「目覚め」(awakening)を説き、「瞑想」(meditation)の道を示したというように言うこともできるが、これらの言葉が意味するところを理解するには体験もまた必要である。ラジニーシは同一のトピックを異なる観点や文脈をもって扱い、表面的に矛盾した見解を提示することも多く、聞き手の注意が求められる。ラジニーシは、古来から伝わる瞑想的な技法について紹介および解説するとともに、現代人に向けて新しい瞑想の技法を編み出し、西洋的なセラピーのテクニックも導入した。ラジニーシの周辺には、彼を慕う人たちのコミューン的な状況が生まれ、その状況のなかで、各種の瞑想的な技法、心身統合的セラピー、音楽をはじめとする多彩な芸術活動が営まれた。ラジニーシの講話の多様性を反映して、ラジニーシの周辺で起きた精神的な追求の背景も多様であり、東洋に伝わる古来の技法に基づくもの、禅、タオイズム、タントラ、スーフィーなどの流れをくむもの、西洋的なセラピーやヒーリングのアプローチに瞑想的な性格を加えたものなどが含まれる。このコミューン的なムーヴメントとそのなかで展開された多彩な活動の特徴として、それはラジニーシから内的に触発された多様な人々の創造性の爆発として生じた。コミューンの運営や出版に関わる領域では一定の組織体制を整えることが必要とされたが、これは精神的な権威とは見なされず、組織または団体としてのひとつにまとまった体制を備えることはなかった。ラジニーシの周辺で生じた多彩な活動は、こうした集合的なダイナミズムのなかで、発展あるいは衰退した。その中心となったのは、ラジニーシがみずから拠点とした場所としてのインドのプネー(1974~1981および1986~1990)、およびアメリカのオレゴン州に建設されたラジニーシプーラム(1981~1985)だが、ラジニーシを慕う人たちの活動は世界的な広がりを見せた。ラジニーシは、因習的な宗教や社会的な条件付けに対する批判と既存の価値観をくつがえす発言により、多くの人たちを惹きつけると同時に多くの反発を招いた。ラジニーシの周辺で生じたコミューン的な志向の強いムーヴメントも同様である。ラジニーシは、ラマナ・マハルシ(ラマナ・マハリシ)、ラーマクリシュナ、ジッドゥ・クリシュナムルティ、ゲオルギイ・グルジエフとの比較において、みずからの姿勢について、次のように語った。

オウム真理教の事件があって以後、日本では宗教特にスピリチュアルな思想は怪しいものだという風潮が広がりました。確かに宗教というものは怪しい部分も含んでいるのですが、人間の精神というものは理屈だけで割り切れるものでもありません。バグワン・シュリ・ラジニーシ(彼はOshoとして知られることを望んでいましたが)は、星の数ほどいた20世紀の神秘思想家たちのなかでも、かなり重要な人物です。彼自身がいかなる宗派にも属さずに、因習的もしくは組織的な宗教についてはその弊害を強調するというスタイルを取っていたので、彼の思想を一概に述べるのは非常に難しく、禅を含め古今東西の宗教をごちゃ混ぜにした説法を説きました。思想と同じく彼が広めた瞑想法も、古くから瞑想と西洋のセラピーを融合させ、禅、タオイズム、タントラ、スーフィーなどを源流とした心身統合的セラピーを作り上げました。さて、このラジニーシはどのような人物であったのかと言いますと、生まれは1931年12月11日、インド北部の小さな田舎町クチワダで、生後に作られたインド式占星術のチャートによると7歳で死ぬ可能性が強いということで、これを避けるため、両親はこの子を母方の祖父母のところに7歳になるまで預けられ育ちました。生来の反逆的な精神の持ち主として、4歳のころから祖父を含めた大人と議論をし、みずからの主張を通していたそうです。納得できないことを受け入れることはなかったと言われ、「どうして小さな子供の時からそんなに勇気があったのですか?」という質問に対して、のちにラジニーシは「イノセンス(無垢)であれば勇気はいらない」と答えています。ラジニーシは、反逆的な少年時代と学生時代を送った後、大学で哲学を学び、決定的な意識の目覚めもしくは悟り(enlightenment)に至ったのは1953年3月21日とされています。ラジニーシはジャバルプール大学の哲学教授となり、1960年代にはインド各地で講演をし、宗教性に対する斬新な洞察とともに、インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判が賛否両論をまきおこしました。社会的な条件付けや心理的な抑圧の弊害に関する指摘や性に対するオープンな姿勢は、既存の価値観に対する脅威とも受け取られ、「セックス・グル」というような異名をもってマスコミに取り上げられるようにもなりました。また、ラジニーシは、古来から伝わる瞑想の技法の紹介にあたるとともに、もっぱら静的なものである伝統的な技法のほとんどは現代人がいきなりするには適さないものであるとし、呼吸への働きかけや身体の自由な動きや発声などを伴い、心理的な解放を志向した動的な技法(アクティブ・メディテーション)を編み出し、インド各地の「瞑想キャンプ」にてそれらを紹介しました。これが後に世界的に広まっていくことになり、ラジニーシはヒンディ語に加えて英語でも講話するようになりました。1981年、ラジニーシはアメリカに移り、彼を慕う人たちは、まもなくオレゴン州に巨大なコミューン、「ラジニーシプーラム」を建設し、ひとつの実験都市として多大な注目を集め、ラジニーシプーラムは正式に市として認められ、5千人の住民を擁する町としての自治体制とインフラを備えるに至りました。この巨大なコミューンの建設と運営は、ラジニーシを慕う人たちの自主的な労働と貢献によって進められたものでしたが、その過程では、ラジニーシの意図とは無関係のところで、内部的な組織化や確執が生じることは避けがたかったようです。そして、かつてのイエス・キリスト一派がそうであったように、ラジニーシプーラムでは、その運営に携わる一派がラジニーシの意図とは無関係に内部的な権力を志向するようになりました。1985年、その主導者であるシーラ(Anand Sheela)らが、背任・横領・殺人未遂を犯した後にラジニーシプーラムから姿を消すと、ラジニーシは逮捕され国外追放されました。アメリカ政府との確執の結果、ラジニーシは、世界各国の政府および既成宗教から危険人物と見なされ、テロリスト同然の扱いを受けるようになりました。各国を転々とした後、1986年にインドに戻り、ムンバイにて、朝晩の講話を始め、数ヵ月後には以前のプネーのアシュラムに戻りました。世界中からラジニーシを慕う人々がふたたびプネーを訪れるようになり、アシュラムはコミューンとしての活況を帯び、多彩な活動が展開されるようになりました。1989年4月12日をもって講話を打ち切りましたが、9月からは、彼を慕う人たちの前に姿をあらわし、瞑想をともにするようになりました。ラジニーシは1990年1月19日に死去しました。最初は優れた指導者(グル)だった人が、組織が巨大化するにつれて、思想的に腐敗していった例をいくつも挙げることが出来ますが、ラジニーシの場合は比較的マシな方でした。アメリカでの逮捕は、思想犯としてラジニーシを罰し、あたかも凶暴な集団であるように演出してラジニーシプーラムを崩壊に導こうというアメリカ政府の意図があったとも言われています。何と言ってもキリスト教からすれば、彼らは完全な異教徒ですから放っておくというわけにもいかなかったのでしょう。ラジニーシの講話録は日本語にも多数翻訳されており、簡単に読むことが出来ます。また講話の映像も数多く残されており、これも比較的簡単に見ることが出来ます。

OSHO: Baby, My Whole Work Is to Confuse You
https://www.youtube.com/watch?v=xggTJCCxFss
OSHO: "Now-Here" All the Time
https://www.youtube.com/watch?v=wCKva76JpGE
OSHO: Behave as if You Are the First Here
https://www.youtube.com/watch?v=Y8gtLtaNTwo

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Aqui jaz, muito a contragosto, Tancredo de Almeida Neves.

Here Tancredo de Almeida Neves lies, very unwillingly.

非常に不本意ながら、タンクレード・ネーヴェスはここで横になっています。

タンクレード・ネーヴェスの墓碑銘。タンクレード・デ・アルメイダ・ネーヴェス(ポルトガル語: Tancredo de Almeida Neves、1910年3月4日 - 1985年4月21日)は、ブラジルの政治家。ブラジル連邦共和国大統領当選者であった。ブラジル・ミナスジェライス州出身。1985年1月、国会議員を中心とする間接選挙で連立野党の候補として出馬し、74歳という高齢で大統領に選ばれた。民主化後の21年ぶりの文民大統領であるため国民から期待されたが、3月14日の大統領就任式前夜、数ヶ月わずらっていた消化器官の病気のため教会のミサ中に倒れ急遽ブラジリアの病院に担ぎ込まれた。社会現象になるほど国民が心配し見守る中7回の手術を受けたが、5週間後にサンパウロで死去。大統領としての執務は副大統領のジョゼ・サルネイが代行し、結局ネーヴェス自身が大統領に就任することはなかった。

世の中には運の悪い人がいますが、タンクレード・ネーヴェスはブラジルの大統領に当選して、就任式の前夜に病に倒れ、そのまま亡くなってしまった人です。当選しながらも実際に政務を行った日が一日もなかった大統領というのは、世界的に見ても珍しいのではないでしょうか。一応、1985年3月15日から亡くなる1985年4月21日までが、就任期間とされていますが、そのほとんどは病院のベッドで横になっていました。ネーヴェスは軍事政権に終止符を打ち、国民の期待を一身に受けて当選しただけに、その無念の想いは推して知るものがあります。彼は軍事クーデターが起きる1964年以前から大臣職を歴任していた重鎮であり、所属政党が軍政支持に転じた旧・民主社会党(PSD、現在の同名政党とは無関係)であったため、政治活動の停止や要職を追われるという迫害には直面しなかったものの、軍政に強く反発したため、軍政を体制翼賛的に支えた国家革新同盟(ARENA)には入党せず、唯一の野党として65年に結党が許されたブラジル民主運動(MDB)に入って政治活動を続けました。そして、ようやく努力が花開き、彼が大統領となった矢先に悲劇は起こりました。ブラジル人は国を挙げてかれの回復を祈りましたが、残念ながらかれは帰らぬ人となってしまいました。ちなみにネーヴェスが職務不能の間に職務代行を行っていたジョゼ・サルネイという人物は、国民から非常に不人気であったことで知られています。上記の墓碑銘は、権力の座について政治を行おうという正にその時に亡くならねばならなかった、彼の偽らざる本音でしょう。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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