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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

我なくも法は尽きまじ和歌の浦 あをくさ人のあらん限りは

親鸞の辞世の句。親鸞は、鎌倉時代前半から中期にかけて活動した日本の僧である。浄土真宗の宗祖とされる。承安3年(1173年)4月1日に、現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進日野有範(ありのり)の長男として誕生する。母は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「吉光女」(きっこうにょ))とされる。治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)、治承・寿永の乱起こる。治承5年/養和元年(1181年)、養和の飢饉が発生する。洛中の死者だけでも、4万2300人とされる。(『方丈記』)戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。治承5年(1181年)9歳、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度し、「範宴」(はんねん)と称する。伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠んだという。無常感を非常に文学的に表現した歌である。出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠[注釈 11]を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」(修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。)という偈句(「「女犯偈」」)に続けて、「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」の告を得る。この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。法然の専修念仏の教えに触れ、入門を決意する。これを機に法然より、「綽空」(しゃっくう)の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる。元久2年(1205年)4月14日(入門より5年後)、『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でもごく一部の者にしか許さなかった。建永2年(1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。弘長2年(1262年 )11月28日押小路(おしこうじ)南、万里(までの)小路東の「善法院」(弟の尋有が院主の坊)にて、享年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。 流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。

私がいなくなっても仏法は尽きてしまわない和歌の浦の波のように戻って来よう 苦しみ悩む衆生がいる限りは

和歌の浦とは和歌山県北部、和歌山市の南西部に位置する景勝地の総称のことです。親鸞は法然を師と仰いでからの生涯に渡り、法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し、さらに高めて行く事に力を注ぎました。ですので自らが開宗する意志は無かったようですが、親鸞の念仏集団の隆盛が既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、結果として親鸞の没後に宗旨として確立される事になりました。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(いわゆる『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)のことです。歌は90年にも渡って宗教活動に専念した人らしい、実に堂々とした詠みぶりです。親鸞が死んだとしても、苦しむ人がいるかぎり、仏法が消えることがないと断言できるということは、彼の信仰が確信に満ちていた故でしょう。かれが願ったような苦しみのない世の中になると良いとは思いますが、ただそれはまだまだ先のことのようですね。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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