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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

絵にうつし石をつくりし海山を  後の世までも目かれずや見む

絵に写した石を作った海や山を 後世まで目を離さずに見よう

細川高国の辞世の句。細川 高国(ほそかわ たかくに)は、戦国時代の武将、大名。室町幕府管領、摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。室町幕府第11代将軍足利義高(のちの義澄)より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗った。弟に晴国(高国の実子とも)、通政(輝政)。実子に稙国ほか、養子に氏綱がいる。養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。澄元とは両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し大いに疲弊。外様である大内氏を頼ったが、大内勢の帰国後は圧倒的な支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて自害に追い込まれた。

細川高国は永正の錯乱と呼ばれる、永正4年(1507年)の細川政元の暗殺を発端とする室町幕府管領細川氏(京兆家)の内訌から始まる、細川家の内乱を勝ち抜いて大名となりましたが、最期は敗れ自害して果てた悲運の武将です。細川澄元との骨肉の戦いは凄惨を極め、一族から周辺諸国、将軍家まで巻きこんだ長期の抗争となりました。この戦いは、最終的に澄元が阿波で病死したことにより決着し、敵対者のいなくなった高国は将軍家をも支配する事実上の天下人となりました。このように苦労の多い半生を送った高国は、他人を信用できなくなっていたのか、内乱が終焉した後、味方として武功も多かった瓦林正頼(河原林政頼)らに謀反の嫌疑をかけて殺害し、永正18年3月7日(1521年4月13日)には、対立した将軍足利義稙が京を出奔すると、義稙を排斥してかつての敵対者であった義澄の遺児である足利亀王丸(義晴)を擁立するなどかなりの無茶をしました。高国は管領・武蔵守に任官され後、大永4年4月21日(1524年5月24日)に剃髪して道永と号し、家督と管領職を嫡子の稙国に譲って隠居しましたが、運命は彼に平穏な余生を許しませんでした。12月に稙国が没したため、やむなく管領・細川家(細川京兆家)当主として復帰すると、大永6年7月13日(1526年8月20日)、従弟に当たる細川尹賢の讒言を信じて、重臣の香西元盛を謀殺しました。これを知った元盛の実兄(波多野稙通と柳本賢治)に背かれ丹波で挙兵されると、かつての敵対者であった澄元の遺児・細川六郎(晴元)や三好元長(之長の嫡孫)にまで阿波で挙兵されました。翌大永7年(1527年)2月には、とうとう敵対連合軍の尖兵・柳本賢治や三好元長らに京に侵攻され、桂川で迎撃したましたが敗れ、足利義晴を擁したまま近江坂本に逃れた(桂川原の戦い)。こうして高国政権は崩壊しました。その後、高国は伊賀の仁木義広や婿で伊勢国司の北畠晴具、朝倉孝景や出雲の尼子経久らを頼って落ち延び、前守護代浦上村宗と連携して京に進軍し京都帰還を果たしましたが、支持を得たかに見えた赤松政祐からの裏切り攻撃に遭って高国勢は総崩れとなりました。(大物崩れ)。厳しい捜索により紺屋の甕の中に隠れているのを発見された高国は、6月8日の寅刻(午前4時)頃に尼崎の広徳寺で自害に追い込まれ、これにて陰謀と戦乱に明け暮れた高国の生涯は幕を閉じました。享年48。上記の辞世の歌は畠晴具に送ったものです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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