07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

僕は長編を書き度いと思っているんだよ。
そのプロジェクトはできあがっているがね。

木下杢太郎の最期の言葉。木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年(明治18年)8月1日 - 1945年(昭和20年)10月15日。本名:太田正雄)は、皮膚科の医学者、詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家。大学医学部の教授を歴任し、また、南蛮情緒的、切支丹趣味、耽美享楽的など言われるきらびやかな詩や戯曲を残した。堀花村(ほりかそん)、地下一尺生、葱南(そうなん)、などの筆名も用いた。1885年(明治18年)、静岡県賀茂郡湯川村(現・伊東市湯川)に、父・惣五郎、母・いとの末子として生まれた。兄に太田圓三。動物学者の太田嘉四夫(北海道大学教授)は甥。 家業は「米惣」という雑貨問屋であった。その生家は現在、木下杢太郎記念館として保存されている。小学校は、東浦尋常小学校とそれが統合された伊東尋常高等小学校(現・伊東市立西小学校)とであった。1898年(明治31年)、上京して独逸学協会中学校(現・独協中学)へ入った。津田左右吉が歴史を教えた。文芸雑誌を読み、絵画にも親しんだ。文筆を習作し、同窓の長田秀雄と蒟蒻版の雑誌『渓流』を編んで回覧した。1903年(明治36年)、第一高等学校の、ドイツ語主体で医学部希望の生徒が多い第3部へ入学し、転科を望んだ時期もあったが、1906年、東京帝国大学医科大学へ進んだ。1907年(明治40年)、与謝野鉄幹の新詩社の機関誌、『明星』の同人となり、短編『蒸氣のにほひ』を発表した。夏に、鉄幹・北原白秋・吉井勇・平野万里と九州北部の南蛮遺跡を探訪し、南蛮情緒の濃い、切支丹趣味の耽美享楽的な詩を詠んだ。1908年(明治41年)、年初に新詩社を脱退し、暮に筆頭発起人として、白秋、勇、および、美術雑誌『方寸』同人の石井柏亭・山本鼎・森田恒友・倉田白羊らと、『パンの会』を立ち上げ、美術家たちと詩人たちがそこで若さを爆発させた。3年半頻繁に催されたこの集いには、鉄幹、敏、永井荷風、荻原碌山、小山内薫、高村光太郎、武者小路実篤、谷崎潤一郎、岡本一平らも顔を出した。9月、上田敏の洋行壮行会で森鴎外とはじめて面語してから、ときおり鴎外を訪ねたものの、「先生から聴かうと欲した所は万事をすてて文芸の事に従へといふ言葉であった。而して先生は一度もそれらしい言葉をば言はれなかった」。なお後年、鴎外宅で開かれた観潮楼歌会に出席したほか、医者としての杢太郎が強い倫理性、人道的な色彩を帯びてくるのは鴎外観の深まりとほぼ時期が同じであり、岩波講座『日本文学』(1932年(昭和7年))に載せられた「森鴎外」の執筆や『鴎外全集』(岩波書店、1936年(昭和11年) - 1939年(昭和14年))の主編集者を務める等、鴎外研究にも大きな足跡を残した。1909年(明治42年)、石川啄木創刊の『昴』の編集を手伝い、白秋・長田秀雄と季刊誌『屋上庭園』を創刊し、昴に切支丹ものの『南蛮寺門前』を載せるなどした。1911年(明治44年)、東大医学部を卒業し、翌年衛生学教室を経て、鴎外の勧めに従い皮膚科の土肥慶蔵教授についた。昴へ『和泉屋染物店』を載せた。その頃から癩病研究を志した。1916年(大正5年)から1920年(大正9年)まで、奉天(現、瀋陽)の満鉄付属地の南満医学堂教授兼奉天医院皮膚科部長を勤めた。その時期に河合正子と結婚し、また、中国・朝鮮の美術を探訪した。正子との間に、のちのち二男三女を得た。1921年(大正10年)から1924年(大正13年)まで米欧に留学し、主にフランスのソルボンヌ・サン・ルイ病院(Hôpital Saint-Louis)・リヨン大学で研究した。かたわら、語学を学び、各国に旅行し、南蛮・切支丹の文献を集めた。その間の1922年(大正11年)、医学博士号を得た。1924年(大正13年)、帰国して、愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)教授となり、1926年(大正15年)、東北大学医学部教授に転じて、皮膚病黴毒学講座を担当した。引き続き、医真菌学の研究を行い、1930年(昭和5年)、日本ミコロギー学会を設立し国内外の専門家との交流に勤めた。1934年(昭和9年)、皮膚科学会総会で『中毒疹』を報告した。1937年(昭和12年)、東京帝国大学医学部教授となって皮膚科学講座を担当した。伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)の研究員をも兼ね、癩病の研究を進め次第に世界的権威と目されるようになった。また、思想弾圧を受けた学生たちに心のより所を与えるため、「鴎外の会」を作って指導した。1938年(昭和13年)、『眼上顎部青色母斑』を独立疾患として発表した。『太田母斑』とも呼ばれている。1941年(昭和16年)、日仏交換教授として、当時日本軍が強行進駐していたフランス領インドシナへ出張し、レジョン・ドヌール勲章を受けた。1943年(昭和18年)、『百花譜』と自ら呼んだ植物写生を始め、872枚を描いた。1944年(昭和19年)、上海・南京の医学会に出席した。1945年(昭和20年)、4月に『わらい蕈』を、5月に『すかんぽ』を、『文芸』誌に掲載した。6月より腹部の変調を訴え、10月15日、胃幽門の癌のため、東大病院柿沼内科で没した。『斐文院指学葱南居士』。墓は多磨霊園にある。妻・正子は、太田教授の教え子に心筋梗塞の看護を受けたのち、1980年(昭和55年)に亡くなった。裁判官・弁護士の斎藤直一は甥にあたる。

木下杢太郎はその業績の割に知名度がいまいち高くないという、不運な詩人です。日本人が詩を読まなくなってから久しいですが、彼の作品は高校などの教科書でもあまり見ることなく、現在では大学の日本文学科の現代文を専攻している人でもないと、なかなか読んだことが無いかもしれません。彼は元々は医学部に進学していましたが、1907年に『明星』の同人となり、同年に『パンの会』を立ち上げ、1909年に『スバル』創刊に参画し、本格的な創作活動を始めました。『パンの会』とは、『スバル』系の詩人、北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇らと、美術同人誌『方寸』に集まっていた画家、石井柏亭(主宰)、山本鼎、森田恒友、倉田白羊らが、文学と美術との交流を図って意気投合し、日本にもパリのカフェのように、芸術家が集まり芸術を語り合う場所が必要だとして作られた、青年文芸・美術家の懇談会です。会の名称の「パン」はギリシア神話に登場する牧神で、享楽の神で、1894年にベルリンで結成された芸術運動「パンの会」に因みます。会そのものは短い期間でしたが、自然主義に対するロマン主義的な運動として文化史上にその名を残しました。明治の耽美主義を特徴づける印象主義の手法や、都会趣味・江戸趣味の諸傾向はすべてこの会から生まれたもので、杢太郎の耽美享楽的な作風もここで培われました。このように詩人や劇作家として大きな活躍をした杢太郎でしたが、本職は医学者であり、1937年(昭和12年)には、ハンセン病の世界的権威として、東京帝国大学医学部教授となっています。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/1068-e89e5178
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。