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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

思ふ事つくしてもはてずさそはれて かへらぬ旅に心のこして

松沢求策の辞世の句。松沢 求策(まつざわ きゅうさく、1855年 - 1887年6月25日)は、長野県安曇野市出身の自由民権家。1855年(安政2年) - 信濃国安曇郡等々力町村(千国街道保高宿)に醤油醸造を業とした若松屋に生まれる。1865年(慶応元年) - 高島章貞の主宰する星園塾を卒える。1873年(明治6年) - 安曇野最大の用水堰である拾ヶ堰の堰守となる。この役職は地域の灌漑用水の管理・分配を一手に担うもので、本来は名主たちに受け継がれて来た名誉職であった。また隣村の伊東とめ(17歳)と結婚。1874年(明治7年) - 長女の万喜代が生まれる。1875年(明治8年) - 学校の世話係に任命される。10月、武居用拙の塾に入る。1877年(明治10年) - 上京し、講法学舎の大井憲太郎や松田正久にフランス法や自由民主主義を学ぶ。1878年(明治11年) - 松沢に自由民権運動の薫陶を与えた坂崎紫瀾の跡を受けて『松本新聞』の主筆となり、新聞紙上に自由論を説く。1879年(明治12年) - 貞享騒動の中心人物、多田加助を主人公にした「民権鑑加助の面影」を松本常盤座で初演させる。 1880年(明治13年) - 奨匡社を創立。大阪の愛国社からの要請で国会願望有志大会に出席。東筑摩郡松本町の青松寺にて奨匡社結社大会が開かれた。南安曇郡選出の県会議員となる。1881年(明治14年) - 東京で西園寺公望の『東洋自由新聞』の印刷長となる。しかし、西園寺が職を辞して廃刊となる。それに際し全国各地の民権家に檄文を送るが、大衆扇動の罪により、5月16日懲役70日の刑を受ける。11月1日、八丈島に向かう。1882年(明治15年) - 南海開島会社を興し、八丈島で事業を行うが、翌年倒産する。1883年(明治16年)12月 - 長野県会議員に当選。1886年(明治19年) - 代言人(弁護士)の試験問題漏洩事件に関与したとして逮捕される。1887年(明治20年) - 結核により獄中で病没。

松沢求策は明治時代に活躍した自由民権家です。彼は自由民権運動とは何であるか、まだ日本人がよく分かっていなかった時代に、フランス法や自由民主主義を学び全国的な活動を行った人です。『松本新聞』編集長に就任し豪農層と教師の組織化を推進したり、大阪で開かれた国会期成同盟会に参加して国会開設願望書起草委員に選出されたれたりと、活動の中心的な役割を担いました。上記の通り、1881年(明治14年)に『東洋自由新聞』の印刷長となったのですが、この新聞は、フランス留学経験のある当時としては非常に開明的な思想の持ち主であったの西園寺公望が、中江兆民(篤助)や光妙寺三郎らフランス派知識人と共に創刊したものです。しかし、西園寺の社長就任は明治政府や宮中でも物議を醸し、政府の圧力によって西園寺が退社させられると、これに憤激した松沢は内勅の事実を暴露した檄文を配布し、懲役刑を受けました。『東洋自由新聞』は、社長と有力社員を失ったのに加えて資金提供者であった社主稲田政吉が社を脱退したため経営的にも行き詰まり、1881年4月30日第34号をもって廃刊しました。上記の辞世の歌は、志半ばで獄中で病没する無念を詠んだものでしょう。第1回総選挙が行われ帝国議会が開かれたのは、彼の死の三年後の1890年(明治23年)のことでした。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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