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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

願はくはのちの蓮の花の上に くもらぬ月を見るよしもがな

大田垣蓮月の辞世の句。大田垣蓮月は江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称した。京都の生まれ。実父は伊賀 国上野の城代家老藤堂良聖。生後10日にして京都知恩院門跡に勤仕する大田垣光古(もとは山崎常右衛門)の養女となった。誠は、亀山での奉公を終えた文化 4年(1807年)ごろに望古と結婚。誠と望古の間には長男鉄太郎、長女、次女が生まれたが、いずれも幼くして亡くなった。さらに文化12年(1815 年)には夫の望古も亡くなり、誠は25歳にして寡婦となった。望古の死から4年後の文政2年(1819年)、誠は新たに大田垣家の養子となった古肥と再婚する。古肥は旧名重次郎といい、彦根藩の石川光定の次男であった。誠と古肥の間には一女が生まれたが、文政6年(1823年)には古肥と死別した。 古肥の死後、誠は仏門に入ることを決め、養父光古と共に剃髪した。剃髪後は、誠は蓮月、光古は西心と号した。出家後の蓮月は、若き日の富岡鉄斎を侍童とし て暮らし、鉄斎の人格形成に大きな影響を与えた。 京都でたびたび起った飢饉のときには、私財をなげうって寄付し、また自費で鴨川に丸太町橋も架けるなど、慈善活動に勤しんだ。最期は明治八年(1875) 十二月十日、八十五歳で逝去した。

願わくば後の蓮の花上に 曇りのない月を見ることができたらいいのにな

この人は江戸時代の女性の文化人としては、もっとも有名な人の一人です。女性の社会進出が行われるずっと前に、かなり精力的に活動した人として知られています。大田垣蓮月は非常に多才な人で和歌の他に陶芸の才能にも秀で、それで生計を立てていた程でした。自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫りで施した作品は「蓮月焼」と呼ばれ、京のお土産として人気を博すほど評判であり、後に贋作が出回る程であったそうです。慈善活動にも精を出すなど、日本の近世で、最も精力的に活動した女性の一人であることは間違いありません。また住居を転々としたので、「屋越し蓮月」と呼ばれるほどの引越し好きとして知られていました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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