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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

もりもり盛りあがる雲へあゆむ

種田山頭火の辞世の句。種田 山頭火(たねだ さんとうか、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、戦前日本の俳人。よく山頭火と呼ばれる。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。本名・種田正一。1882年(明治15年)12月3日、山口県佐波郡西佐波令村第百三十六番屋敷(現・防府市八王子二丁目十三)にて大地主・種田家の長男として生まれる。1889年(明治22年)4月、佐波郡佐波村立松崎尋常高等小学校尋常科に入学。1892年(明治25年、正一10歳)3月、母フサが自宅の井戸に投身自殺。享年33。以後、正一は、祖母ツルの手によって育てられる。1896年(明治29年、14歳)4月、私立周陽学舎(三年制中学。現・山口県立防府高等学校)へ入学。 学友らと文芸同人雑誌を発行。 地元の句会によく顔を出していたという話もあり、正一が俳句を本格的に始めたのは明治30年前後、周陽学舎在学の頃だとみられている。1899年(明治32年)7月、周陽学舎を首席で卒業。同年9月、県立山口尋常中学(現・山口県立山口高等学校)の四年級へ編入。 新たな環境にてあまり親しい学友もおらず土曜日には佐波山洞道を抜けて防府の実家に帰るのが常だったという。1901年(明治34年)3月、山口尋常中学を卒業し、同年7月、私立東京専門学校(早稲田大学の前身)の高等予科(明治34年4月、早稲田大学予備科として新設)へ入学。1902年(明治35年、20歳)7月、東京専門学校高等予科を卒業し、同年9月、早稲田大学大学部文学科に入学。 しかし、1904年(明治37年)2月、神経衰弱のため早稲田大学を退学。しばらく東京に留まるが病状が回復せず、同年7月、防府の実家へ帰郷。1906年(明治39年、24歳)12月、父竹治郎が吉敷郡大道村(現・防府市大道)にあった古くからの酒造場を買収。一家で移り住む。 そして、その翌年頃から種田酒造場を開業したとみられる。 1908年(明治41年)酒造に失敗し、防府に残っていた家屋敷を全て売却している。1909年(明治42年)8月、佐波郡和田村高瀬の佐藤光之輔の長女サキノと結婚。翌年には長男健が生まれる。1911年(明治44年)、防府の郷土文芸誌『青年』が創刊になる。その雑誌にて「田螺公」という旧号で定形俳句を、「山頭火」の号で外国文学の翻訳などを発表。1913年(大正2年、31歳)、荻原井泉水が主宰する新傾向俳句誌『層雲』3月号にて初めて投稿句が掲載される(『層雲』にて自由律が始まるのは翌年の大正3年4月からとされる)。 同誌5月号にて選ばれた2句に於いて、俳号にも「山頭火」という号を使いはじめる。 同年8月、編集兼発行人として個人で文芸誌『郷土』を創刊。1916年(大正5年、34歳)3月、山頭火は『層雲』にて頭角を現し、俳句選者の一人となっている。 同年4月、種田酒造場の経営が危機に陥り再建に奔走するも、結局種田家は破産に追い込まれる。 父竹治郎は行方不明(その後は消息不明)になり、山頭火は友人を頼って妻子と熊本へ移ることになる。 5月、熊本市下通町一丁目にて古書店「雅楽多書房」を開業。しかし、経営は軌道に乗らず、間もなく額縁店「雅楽多」として再出発。その経営も次第に妻サキノに任せがちになっていく。 熊本での生活では常に空虚感や欠落感が付き纏い、更にこの頃に起こった弟二郎の自殺が山頭火をより一層酒に向かわせることになる。1919年(大正8年)10月、妻子を熊本に残したまま単身上京。妻サキノとは翌1920年(大正9年)11月、戸籍上離婚となっている。1923年(大正12年、41歳)、関東大震災に遭い熊本の元妻のもとへ逃げ帰った。熊本市内で泥酔し、路面電車を止めたところを顔見知りの記者に助けられ、市内の報恩禅寺(千体佛)住職・望月義庵に預けられ寺男となった。1924年(大正14年)、得度し「耕畝」と改名、味取観音堂の堂守となる。1925年(大正15年)、寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行い、旅先から『層雲』に投稿を続けた。1932年(昭和7年、50歳)、郷里山口の小郡町(現・山口市小郡)に「其中庵」を結庵したが、体調不良から来る精神不安定から自殺未遂を起こす。その後東北地方などを旅した後、1938年(昭和13年、56歳)には山口市湯田温泉街に「風来居」を、さらに1939年(昭和14年)、松山市に移住し「一草庵」を結庵。翌年、この庵で生涯を閉じた。享年58。

種田山頭火は自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人です。彼は世捨て人のような生活をしましたが、生涯の失敗は結婚してしまったことでした。7歳の時に母フサが自宅の井戸に投身自殺してから、彼の人生には破滅的な衝動がついて回りました。酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や支持者の援助によって生計を立て、家族を捨ててしまったことは、幼少期に母が自殺してしまったことと無縁ではありえません。死の半年前に出した代表作『草木塔』の冒頭には、「若うして死をいそぎたまへる母上の霊前に本書を供へまつる」と書かれています。34歳の時に弟二郎が自殺し、自身も50歳の時に睡眠薬での自殺未遂をしています。山頭火は水の流れるやうな自然さや、風の吹くやうな自由さを旅に求めながらも、そうした境地が実現したら人間的ぢやなくなると考え、悲喜哀楽の感情にとらわれる自分を率直に句にしました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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