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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

C'est ici le combat du jour et de la nuit. Je vois de la lumière noire.

This is the fight of day and night. I see black light.

これは昼と夜の戦いだ。私には黒い光が見える。

ヴィ クトル・ユーゴーの最期の言葉。ヴィクトール=マリー・ユーゴー(仏: Victor-Marie Hugo、1802年2月26日 - 1885年5月22日)はフランス・ロマン主義の詩人、小説家。七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家。1959年から1965年まで発行され ていた5フラン紙幣に肖像画が採用されていた。父はナポレオン軍の将軍で、母は王党派の家の娘。ブザンソンに生まれたが、教育はおもにパリで受け、少年時 代から王党派の詩人として頭角を現した。1827年には,戯曲『クロムウェル』に付した有名な序文の中で古典主義の演劇を批判し、ロマン主義の文学運動に 理論的な支柱を与えた。さらに30年には、ロマン派戯曲の典型である『エルナニ』を上演し、その後ロマン派が10年以上の間文壇で栄える契機をつくった。 熱烈な共和主義者としても知られ、ナポレオン三世のクーデターに反対して、ベルギーでの19年間の亡命生活を送った。1852年8月にはベルギーの首都ブ リュッセルでナポレオン3世を弾劾した「小ナポレオン」を出版して熱狂を引き起こし、1853年に、やはりナポレオン弾劾の書である「懲罰詩集」を発表し ました。1862年には中断していた『レ・ミゼラブル』が完成してベルギーより出版され、大反響を巻き起こした。1870年に勃発した普仏戦争はフランス の大敗北に終わり、セダンの戦いでプロイセン王国の捕虜となったナポレオン3世は失脚した。これによってユーゴーは帰国を決意し、19年ぶりに祖国の土を 踏むこととなった。フランスでは英雄として迎えられ、その後も1877年には「諸世紀の伝説」の第2部を発表するなど活発な活動を続けた。1885年5月 22日、パリにて死去。享年83。文豪としてパンテオンへと埋葬された。

ヴィ クトル・ユーゴーというこの著名な作家の人生は、まさに「波乱に富んだ人生」でした。作家としては大成功をおさめ、彼の名前と作品は名声と感動とともに今 日まで残っていますが、政治家としての彼は逆境の連続であり、さらに幼少の頃から家庭生活は不幸の連続でした。ユーゴーは、生粋のボナパルト主義の父ジョ ゼフ・レオポールと、根っからの王党派の母ソフィーという相反する思想を持つ両親の確執の元に成長しました。これは後に、『レ・ミゼラブル』のマリユスの 父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマンの確執の原型となりました。いずれにせよ、ユーゴーは、長きにわたる父親不在の生活のおかげで、マザーコ ンプレックスが非常に強い人物として育ちました。ユーゴーが寄宿学校に入っている間に、ナポレオンによる帝政が完全に終わりを告げ、父ジョゼフ・レオポー ルはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に没落してしまいました。父親は彼を軍人にするつもりだったが、本人は詩作に夢中で「シャトーブ リアンになるのでなければ、何にもなりたくない。」と当時の日記に書き残しています。彼は17歳でアカデミー・フランセーズの詩のコンクールで一位を取 り、その早熟の才能を見せ、1822年には、『オードと雑詠集』によって国王から年金をもらえることになり、ロマン派の旗手として目覚ましい活躍を始めま した。1825年4月29日、23歳という若さでレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を受け、こうして少しずつ名誉が与えられてゆく中で、少年 時代は疎遠であった父ジョゼフ・レオポールとの仲も親密になっていき、愛する父のために、それまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これ をきっかけにナポレオンを次第に理解し、尊敬するようになりました。1829年8月29日から9月24日に『エルナニ』を執筆した、10月5日にコメ ディ・フランセーズ座で上演する運びとなると、古典派の常識を逸脱したこの戯曲はたちまち問題となり、『エルナニ』公演の初日の開幕前からロマン派と古典 派のこぜりあいが始まり、幕が上がるとこぜりあいは一気に暴動に転じました。いわゆる『エルナニ合戦』なのですが、これ以降、ユーゴーはロマン派と古典派 の戦いに巻き込まれることとなりました。しかし、この『エルナニ』は、ロマン派を世界文学の主流に据えるきっかけをつくり、公演は大成功を収めています。 しかし、妻アデールがサント・ブーヴと恋に落ちてしまい、サント・ブーヴとの交際を絶ちました。その寂しさからか、ユーゴーは女優ジュリエット・ドルエの 愛人となり、別荘を行き来したり連れ立って旅行に出かけたりするなど、二人の仲は徐々に深くなっていきました。1840年1月、文芸家協会長となり、 1841年1月7日にアカデミー・フランセーズの会員に当選しました。しかし、1843年から1852年までの約10年間、彼は作品を1冊も出版しません でした。これには長女レオポルディーヌの死はもちろん、戯曲『城主』の失敗とそれにともなうロマン派文学の凋落、議員活動の忙しさもあったと思われます が、もうひとつ大きな理由として、後にフランス文学史上屈指の名作といわれるようになる『レ・ミゼラブル』の執筆がありました。1845年4月13日、オ ルレアン公爵夫人エレーヌの後ろ盾があったおかげで、ルイ・フィリップから子爵の位を授けられ、貴族になったことで彼は政治活動にも身を置くようになりま した。フランスは第二共和政へ移行することとなり、ユーゴーは立憲議会の補欠選挙に立候補して、保守派の支持を受けて当選し、1830年代より続けていた 死刑廃止運動や、教育改革、社会福祉などを主張しました。1848年には共和派となり、1848年12月10日の大統領選挙ではルイ・ナポレオンを支持 し、強力な論陣を張って彼を支援したのですが、ナポレオンは次第に独裁化し、連続再選禁止条項の改正を国民議会に提出するなどして、このころにはユーゴー はナポレオンの強力な反対者となっていました。ナポレオンは1851年12月2日にクーデターを起こして独裁体制を樹立し、反対派への弾圧を開始しまし た。ユーゴーも弾圧対象となり、12月11日にベルギーへと亡命を余儀なくされました。1862年には亡命先にて、中断していた『レ・ミゼラブル』が完成 してベルギーより出版され、大反響を巻き起こしました。ユーゴーは本作の売れ行きが悪ければ、ペンを擱く覚悟をしていましたが、発売当日は長蛇の列がで き、本作は飛ぶように売れました。一般人はもちろん、数人の仲間から本代を集めた低所得の労働者たちの多くも列に加わり、本作を買い、労働者たちは仲間に 本作を貸し合い、回し読みしたといわれています。ユーゴーは本作の出版当初は亡命先を離れて旅に出ていたのですが、本作の売れ行きを心配し、出版社に 「?」とだけ記した問い合わせの手紙を出すと、「!」とだけ記された返事を受け取ったという。それぞれ「売れてる?」「上々の売れ行きです!」という意味 であり、これら2通は世界一短い手紙であるとされています。ユーゴーも最後は故郷フランスに英雄として帰ることができ、1885年5月22日、パリにて死 去。享年83。ユーゴーは文豪として、フランスの偉人たちを祀る霊廟であるパンテオンにてルソーやヴォルテールと共に眠っています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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