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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

All right then, I'll say it: Dante makes me sick.

もういいよ、ダンテが俺を病気にしたんだって言いたいね。

ロペ・デ・ベガの最期の言葉。ロペ・デ・ベガ(Lope de Vega, 1562年11月25日 - 1635年8月27日)はスペインの劇作家、詩人。本名はフェリクス・ロペ・デ・ベガ・イ・カルピオ(Félix Lope de Vega y Carpio)。1,500から2,500の戯曲を書いたといわれるが、現在まで残っているのは425である。マドリードで生まれたベガは、子供のころからその類まれな才能の片鱗を見せ始めた。父はフェリクス・デ・ベガ・カルピオという刺繍職人、母の名はフランシスカ・フェルナンデス・フロレスといい、5人兄弟の3番目であった。5歳の時にはスペイン語とラテン語を読み、12歳で4幕の戯曲を書いたという。マドリードのイエズス会の学院に学び、イエズス会劇に影響を受けた。アルカラ・デ・エナーレス大学に進学するも、1582年まで学んでいるが修了していない。現存する最初の戯曲『ガルシラソの偉業』は1579年に書かれている。1583年、20歳になったばかりのロペは、女優ですでに人妻であったエレナ・オソリナと恋に落ちる。彼女は、当時ロペが台本を書いていた劇団の座長の娘であった。ロペは、恋の対象を作品中に登場させるのを常とし、彼女はフィリスという名でロマンセの中に現れ、晩年の『ラ・ドロアテ』では、主人公ドロアテとして、若き日の美貌を伝えている。17世紀に入る頃にはスペイン最高の劇作家として認知され、その作品は王家や貴族から庶民に至るまで、広く愛された。

ロペ・デ・ベガは世界的に有名なスペインの劇作家ですが、日本での知名度は低い人です。その最大の理由は彼のせいではなく、同時代にシェイクスピアがいたからだと思われます。ロペ・デ・ベガ(1562年11月25日 - 1635年8月27日)、シェイクスピア(1564年4月26日(洗礼日) - 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日))なので、ベガの方が長生きしましたが、生年は2年しか違いません。イギリス・ルネサンス演劇を代表するシェイクスピアが悲劇で有名なのに対して、奇知・誇飾というバロック演劇を代表するベガは喜劇もよくしました。そのことも、悲劇の好きな日本人からの評価が低い理由の一つでしょう。ベガは非常に多作で知られる作家ですが、彼はもの凄いスピードで書くことができる人で、ベガ自身が「私の喜劇の内の100本は、注文から上演まで24時間しかたっていない」と言っています。そのあまりの執筆の早さから、ベガは喜劇の安売りをしていると批判されてきましたが、これは全く的外れな意見です。セルバンテスはベガを"The Phoenix of Wits(機智の不死鳥)"、"Prodigy of Nature(自然の天才)"と呼びました。スペインの作家で彼の名声に唯一対抗できる人はセルバンテスだけです。上記の最期の言葉の通り、ベガはイタリアやギリシアの文芸から大きな影響を受けており、同様の趣向を持っていたゲーテは、ベガのように多才で広大な作品を書きたいと願いました。ベガは5歳でスペイン語とラテン語を読み、12歳で最初の劇作を書いた早熟の天才でしたが、その人生は波乱に富んだものでした。上記の通り彼はイエズス会士の大学に在籍していたのですが、ポルトガルで軍事の遠征に参加するために逃亡しました。しかし、幸運にも後援者に恵まれ、聖職に就けるはずだったのですが、恋が全てを台無しにしてしまいました。学士号も取らなかったベガは仕方なく劇作で生活していたのですが、1583年にはまた軍隊に戻りアゾレス諸島のポンタ・デルガダの戦いに参加しています。その後、彼はマドリードへ戻り、今度は真面目に脚本家としてのスタートを切りました。が、そんなに上手くいかないのが偉人の常で、上記の通り彼は人妻と恋に落ちました。5年間の交際の後にその人がベガの求婚を拒絶して他の人と結婚しようとしたため、激怒したベガは彼女とその家族を辛辣な詩を書いて攻撃し、侮辱罪で投獄されて、8年間の王宮からの追放と、2年間のカスティーリャ王国からの追放に処せられました。ベガは16歳の恋人を連れて追放され、その娘の家族の圧力により1588年5月10日に結婚しましたが、その数週間後には彼女の家族を納得させるためにまた軍隊に戻りました。ベガはイングランドへの遠征も運良く乗り切り、1588年12月までにバレンシアの都市にすんでいました。追放の2年が過ぎると、ベガはトレドへと行きました。そこで彼の執筆量は最高潮に達し、名作の多くが書かれました。しかし、実生活では妻が出産により亡くなり、再婚した相手も同じく出産により亡くなるなどの不幸に見舞われ、晩年は最愛の息子と娘に先立たれました。彼の波乱の人生は、1635年8月27日にマドリードで猖紅熱によって終わりを告げました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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