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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

It's in God's hands now.

今神の御手の中にいる。

ナット・ターナーの最期の言葉。ナット・ターナーまたは単にナット(英:Nat Turner、1800年 10月2日 - 1831年 11月11日)は、アメリカ合衆国の奴隷であり、奴隷反乱の指導者である。通常はナットと呼ばれていたので、以下ではナットと表記する。ナットの反乱は1831年、バージニア州のサザンプトン郡で起こり、アンテベラム(南北戦争に向かう時代)の南部では最も注目された黒人の反抗事例となった(ナット・ターナーの反乱)。ナットが蜂起中に行った入念な白人市民の殺戮はその伝記を議論の多いものにしているが、現在でも抑圧に反抗した黒人の英雄であると多くの者に見なされている。生まれた時のナットは姓が無く、単に名前のナットだけで記録されていた。当時の一般的な習慣に従って、その所有者サミュエル・ターナーの姓を付けて呼ばれている。ナットは終生バージニア州サザンプトン郡で生活したが、そこは圧倒的に黒人人口が白人に比べて多い地域であった。反乱後にその特徴が次のように書かれた。身長5フィート6ないし8インチ (168-173 cm)、体重150ないし160ポンド (68-72 kg)、顔色はやや明るいが混血ではない、広い肩、大きくて平たい鼻、大きな目、広くて平たい足、ややがに股、キビキビと活発に歩き、頭頂の毛髪は大変薄い、唇の上と顎の先端を除いて髭は無い、片方のこめかみと首の後ろに傷跡、右腕の骨の手首近くに殴打によってできた大きな節。ナットの知性は高く、若い頃に読み書きを学んだ。成長して信仰心が厚く、しばしば断食や祈祷をしたり、聖書の話を読んでいる姿が見られた。ナットはしばしば幻視を見たが、これを神からの伝言と解釈した。この幻視がナットの人生に大きく影響した。例えばナットが21歳の時、主人の所から逃げ出したが、そのような幻視を見た後に1ヶ月で戻ってきた。ナットはしばしばバプテストの礼拝を行い仲間の奴隷にも説教を行ったので、仲間からは「予言者」と呼ばれた。エセルレッド・T・ブラントリーのような白人にも影響を与えており、ナットは「邪悪であることを止めろ」とブラントリーに言って説得できたと言った。1828年早くに、ナットは「全能の神の御手により大きな目標を命じられた」と確信するようになった。主人の農園で働いていた5月12日、ナットは「天から大きな音が聞こえ、聖霊が現れて私に『悪魔の蛇は解き放たれた。キリストは人の罪のために持っていた軛(くびき)を捨てた。』と語り、また『すぐに立ち上がって蛇と戦うべきである。なぜなら初めが終わりであり、終わりが初めとなる時が急速に近付いているからだ。』とも言った。」ナットは神が「彼らの武器で私の敵を殺す」使命をナットに与えたと確信した。ナットは「私に与えられた大きな使命について、最も信頼を寄せていた4人に話した。」その4人とは仲間の奴隷、ヘンリー、ハーク、ネルソン、およびサムであった。1831年2月ころからナットは、ある気象条件が彼や仲間のアフリカ系アメリカ人を奴隷として拘束している者達に対する反乱の準備を始めるべき兆候と解釈できると信じ始めた。1831年2月12日、バージニアで金環日食が観測された。ナットはこの現象を反乱の準備を始めるべきと時と捉えた。反乱は当初、独立記念日の7月4日と計画されたが、彼や仲間達の慎重な配慮と病気もあって延期された。8月13日、もう一度日食が起こり、この時は太陽が青みがかった緑に見えた。ナットはこれを最後の兆候と解釈し、1週間後の8月21日に反乱が始まった。ナットは数人の信頼できる仲間の奴隷と事を始めた。反乱は家から家へと伝わり、奴隷を解放し、見付けた白人全てを殺した。最終的に反乱に加わった奴隷は自由黒人を含めて50名以上になった。この反乱では攻撃を掛ける地域の誰にも警告を発するつもりが無かったので、当初はナイフ、手斧、鉞(まさかり)など鈍器を用い火器は使わなかった。ナットは仲間に「全ての白人を殺せ」と呼びかけた。この反乱は相手の年齢や性別を区別しなかった。ただし、ナットは後に女、子供また降伏した男は救おうと考えていたと言った。ナットとその反乱部隊が白人民兵の抵抗に遭った時、既に57名の白人男女、子供が殺されていた。ナット・ターナーの反乱は48時間内に鎮圧されたが、ナットは直ぐには逮捕されず、2ヶ月以上経過した10月30日、洞穴に隠れているところを発見されて拘束された。11月5日、ナットは裁判に掛けられ、即日、死刑を宣告された。ナットは11月11日にバージニア州エルサレム(現在のコートランド)で絞首刑に処された。ナットの遺骸は体皮を剥がれ、頭を刎ねられ、四つ裂きにされたうえで、幾つかの体の部分は白人が土産に持ち帰った。ナットが収監されているときに監獄を訪れた弁護士のトマス・ラフィン・グレイは、ナットが逃亡している間に成された研究と公判前にナットと交わした会話から「ナット・ターナーの告白」を書き上げ、処刑後に出版した。この文書はナットに関する一次史料である。しかし、著者の偏見が入り、事実を隠したり、そうではないことを不適切に強調したりしている可能性がある。例えば、ナットが「我々は我々の血に対する渇きを満足させるような犠牲者には出会わなかった」と言ったというが、その可能性は疑問である。しかし、この本には真実と思われるものも含まれており、特にナットが幻視について語るところや、ナットの子供時代の話は信憑性がある。

ナット・ターナーはアメリカ合衆国の奴隷反乱の指導者であり、この当時に白人に対する無差別殺人を行った非常に珍しい反乱を起こしました。とはいえ、反乱者は総数50名程度であり、被害者も57名でした。これに対してバージニア州が蜂起に関わったとされる容疑者、全部で55名の黒人を処刑し、200名近い黒人が、その多くが反乱には何の関係も無かったにも拘わらず、怒った白人の暴徒に殴られ、拷問を受け、殺されました。アンテベラム(南北戦争に向かう時代)の頃には、南部で奴隷制が利益の薄いものになりつつあるという経済的な理由などにより、バージニア州でもかなりの程度奴隷制度廃止運動がありました。運動の方策は西アフリカに植民地を創って黒人を戻すというものであり、実際に多くの黒人奴隷が解放されてアフリカのリベリアに送られたりしていたのですが、ナット・ターナーの反乱以後、バージニアの全ての黒人の自由はきつく制約され、奴隷制に関して疑問を口にすることを禁じる公的な政策も作られました。しかし、ナット・ターナーが、黒人及び世界中の汎アフリカ主義者の間では英雄と見なされているのは紛れもない事実です。ナット・ターナーについてウィリアム・スタイロンというアメリカ合衆国バージニア州出身の白人の小説家が、1967年に『ナット・ターナーの告白』という本を出版して大きな問題となりました。スタイロンがこの小説を書いている間の数ヶ月間、黒人の作家ジェイムズ・ボールドウィンが、スタイロンの客になっており、小説『もう一つの国』を書いていいました。皮肉なことに、ボールドウィンが『もう一つの国』で白人を主人公として書いたことを、何人かのアフリカ系アメリカ人批評家によって批判されたのと同様に、黒人の反乱指導者ターナーを白人のスタイロンが書いたことを、アフリカ系アメリカ人批評家大集団が人種差別の典型的なものであると非難され、レロン・ベネット・ジュニアの言葉を借りれば、「人の人生の意味を盗むために配慮された試み」と言われました。このような大論争が続いていたものの、この小説はよく売れて営業的には成功し、1968年にはピュリッツァー賞の小説部門、および芸術・文学アメリカン・アカデミーのウィリアム・ディーン・ハウェル賞を獲得しました。スタイロンの次の作品『ソフィーの選択』(1979年)でも、スタイロンはホロコーストの非ユダヤ人被害者について書くなど、問題作の多い作家でしたが、ナット・ターナーのような人物はそういう作家の想像力を刺激するのでしょう。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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