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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

(最もお気に入りの学生に向かって)

Von allen meinen Schülern hat mich nur ein einziger verstanden.Und der hat mich falsch verstanden.

Only you have ever understood me. … And you got it wrong.

あなただけが私を理解し……そして間違えた。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの最期の言葉。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770年8月27日 - 1831年11月14日)は、ドイツの哲学者である。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。優れた論理性から現代の哲学研究も含め、後世にも多大な影響を与えた。観念論哲学及び弁証法的論理学における業績のほか、近代国家の理論的基礎付けなど政治哲学における業績も有名である。認識論、自然哲学、歴史哲学、美学、宗教哲学、哲学史研究に至るまで、哲学のあらゆる分野を網羅的に論じた。現代思想、特に大陸哲学の先駆的哲学者とされ、毀誉褒貶、肯定的評価及び否定的評価を含め、様々な哲学者・思想家・文筆家の論述を通じて彼の影響は広がっていった。その影響については、ヘーゲル学派(老ヘーゲル派・ヘーゲル中央派・青年ヘーゲル派)及びその第二世代や、新ヘーゲル主義などの頁を参照されたい。ドイツ観念論哲学の完成者であり、近代哲学と現代哲学の分水嶺として位置づけられることも多い。なお、同時代人に作家ゲーテ、音楽家ベートーヴェン、画家のカスパー・ダーヴィト・フリードリヒがいる。ヘーゲル死後、一時期ドイツの大学の哲学教授のポストはヘーゲルの弟子(ヘーゲル学派)で占められた。1830年代から1840年代にはヘーゲル学派の中でもヘーゲル左派が興隆したが、ヘーゲル左派の思想はマルクスらによって批判的に受け継がれ、次第に勢いが衰えていった。彼の影響を受け、ヘーゲル哲学を批判的に継承・発展させた人物としては、セーレン・キェルケゴール、カール・マルクスなどがいる。マルクス主義とその実践において根深い全体主義的傾向はヘーゲルに由来しているという主張があるが、その一方で、マルクス主義的な視点からのヘーゲルの哲学解釈には曲解との批判もある。ヘーゲルは、古典に通じた慧眼で現実的かつ理想的な哲学を展開し、同時代のみならず後世にも大きな影響を与えた。主著の1つである『精神現象学』(1807年)は、元々の表題を「学の体系 (System der Wissenschaft) 」といい、当初は主観的精神(「意識」「自己意識」「理性」)から絶対知へと発展する過程を描いていたが、徐々に膨らんでいき、最終的には「精神」「宗教」という章が付け加えられた。イェーナ期の思索の完成ではあるが、ヘーゲル自身が認めているように、混乱している部分や後年の著作でカテゴリーが微妙に変化したものも多く、ここからヘーゲル哲学の全貌を知ることは困難である。他の著作に『論理学(大論理学)』、『エンチクロペディー』、『法哲学・要綱』などがある。なお、『歴史哲学』『美学』『宗教哲学』などはヘーゲルの死後、弟子たち(つまりヘーゲル学派)によって彼の講義ノートと聴講生のノートとを中心に編纂されたものである。1770年8月27日、ヴュルテンベルク公国のシュトゥットガルト(現在のドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州の州都)の中流家庭に生まれる。父親はヴュルテンベルク政府の公務員だったゲオルグ・ルートヴィヒ・ヘーゲル(1733年-1799年)。進歩的な教育者であった母マリア・マグダレーナ・ルイーザ・ヘーゲル(旧姓フロム、1741年-1783年)の影響も手伝って、子供時代は学問の環境に恵まれ、文学書・新聞・哲学小論他の書物を読みあさった。病気がちで、6歳以前の時期に、天然痘で死に瀕したことがある。8歳のときシェイクスピア全集をもらい読むなど大変な読書家で、感想なども多数書き残す。妹のクリスティアーネとは親密で、終生強い絆をもっていた。南ドイツのルター派正統神学のテュービンゲン神学校で教育を受け、哲学者シェリングや詩人ヘルダーリンと交友を結ぶ。3人とも規則に縛られた神学校の環境を好まない点で意気投合し、互いの思想に影響しあった。ギリシャ語、ラテン語、博物学などを学び天文学、物理学などを好む。だが、牧師にはならなかった。フランス革命の展開を横目に見ながら、ヘルダーリンとシェリングの2人はカントの観念論哲学への批判に没頭したが、ヘーゲルは当初それには加わらなかった。当時彼は、大衆哲学(popular philosophy:哲学を、学問的修練を積んでいない大衆にも理解されるよう著述する動き)の仕事を成し遂げることの方に興味があったからである。大衆哲学者は著述を通じ、哲学の今日的な問題を紹介したり、啓蒙主義を普及させる方法を議論したりしており、多くがロック・リードなどイギリス思想に精通していた。ヘーゲルは、大衆哲学のやり方でカントの批判哲学を完成させたいと思っていた。こうしてテュービンゲン時代において、ヘーゲルはヘルダーリンやシェリングが関わった高度に神学的(かつ技巧的)な議論には懐疑的な立場をとった。彼がカント哲学の実践の試みよりもむしろ、その問題点の解決が重要であると認めたのは、1800年になってからのことである。その後家庭教師を経て、1801年、ヘーゲルはイェーナ大学に私講師の席を手に入れる。このときの就職論文『惑星の軌道に関する哲学的論考』(惑星軌道論)で、かねてから興味のあった天文学で尊敬するヨハネス・ケプラー(出身が同じであった)こそが惑星の運動法則の本質の発見者であり、アイザック・ニュートンは数学的に発見したのみであるとニュートン批判を論じた(これは後に『自然哲学』で再び論じられる)。その後、員外教授(Extraordinary Professor)に昇進。しかし1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いに破れたプロイセンがナポレオンに征服されると、イェーナ大学は閉鎖せざるを得なくなった。ナポレオンはイェーナに入城し、それをヘーゲルは見た。ヘーゲルはこの時の事を「世界精神が馬に乗って通る」と表現している。その後、彼は数年間『バンベルク新聞』編集者として働き、1811年、マリー・フォン・トゥーハー(Marie von Tucher)と結婚する。1816年、『(大)論理学』の出版ののち、ギムナジウム校長を経て、ハイデルベルク大学で正教授となる。彼は講義に出席している生徒のために、自身の哲学を要約した『エンチクロペディー概略 (The Encyclopedia of the Philosophical Sentences in Outline) 』 を出版した。1818年、ベルリン大学の正教授を務める。彼の講座は絶大な人気を誇るようになり、同じ時間にショーペンハウアーが講義を行ったが、出席者はわずかであった。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、政治体制への彼の貢献に対して叙勲し、1830年には、彼を総長に指名した。ベルリンにおいて、彼は体制改革を求める暴動に悩まされることになる。1831年、伝染病のコレラがベルリンに発生し、ヘーゲルは一旦避難したものの、収束する前に戻ったことから感染してしまい、数日の後に61歳で生涯を閉じた。ヘーゲルの遺体は、ヘーゲルの生前の希望により、ベルリンのドローデン墓地に先に逝ったドイツ観念論の哲学者フィヒテ夫婦の墓の隣りに葬られている。

ドイツ哲学の巨人ヘーゲルは、あらゆる哲学の統一理論という非常に壮大な哲学理論を形成し、近世哲学の完成させました。ヘーゲルの哲学はあまりに巨大であったために、良くも悪くも近代から現代に至るまで、世界中ににとてつもない影響を与えました。恐らく歴史上ヘーゲルほど批判された哲学者はいないと思われますが、それは彼の哲学体系があまりに広範囲に及んでいることと、それまでと全く違った近代という時代を理論的に基礎付けたことが大きな理由でした。マルクスに代表されるヘーゲル左派は、ヘーゲルの近代理論を批判的に継承し、唯物論的歴史観(唯物史観)を形成しました。その他のヘーゲルに対する批判として、「ヘーゲルに倫理学なし」という意見は、ヘーゲルが生きていたときから言われてきました。これはヘーゲルが、歴史は科学と同じように明確に理性に適ったものでなければならないと考えたことからも分かるように、個人倫理学よりも社会科学的問題解決を重視したことによるもので、「倫理的に生きるには倫理的な法を持つ国の国民になればよいという」ヘーゲルの言葉にその思想が良く現れています。その他にもキルケゴールやニーチェなどの実存主義哲学では、ヘーゲルは悪しき理性主義の象徴のように批判され、バートランド・ラッセルは『西洋哲学史』("History of Western Philosophy"、1945年)の中で、ヘーゲルのことを、最も理解が困難な哲学者であると書き、その理由としてヘーゲルは当時の現在誤っているとされている論理学に基づき、壮大な論理体系を作り上げたのであるとしています。ヘーゲルの文体は難解なものとして知られ、読む人をよく挫折させますが、ヘーゲルの弁証法においては概念の自己運動にあわせて言葉が動いていくものであるから、言葉の定義を問うこと自体が無理な構造となっており、そのつど自分で言葉の意味を考えなくてはならなくなるためです。偉大な人物が往々にしてそうであるように、ヘーゲルもまたベルリン大学そ総長になったにもかかわらず、自分の思想を理解してもらえる人には乏しかったようで、上記の最期の言葉からも分かるように、ヘーゲルは最もお気に入りの学生でも自分のことを間違ってしか理解してもらえなかったようです。

ベルリンにあるヘーゲルの墓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB#mediaviewer/File:Grave-of-Hegel.jpg
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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