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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

もう命はおしまいだ。息をするのが苦しい。何かが僕を粉砕する。

アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキンの最期の言葉。プーシキンは、ロシアの詩人・作家。ロシア近代文学の嚆矢とされる。父親は由緒ある家 柄のロシアの地主貴族。母親の祖父アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバルは、ピョートル1世に寵愛された黒人奴隷上がりのエリート軍人であった。ペテルブル ク郊外のツァールスコエ・セロー(現在はプーシキンと呼ばれる)にあったリツェイ(学習院)での公開試験で朗読した自作の詩『ツァールスコエ・セローの思 い出』が、デルジャーヴィンに認められる。これを機に、その才能はロシアの文学界に広く知られるところとなった。1820年、最初の長編詩『ルスラーンと リュドミーラ』を発表。次第に政治色を帯びた詩を発表するようになり、文学的急進派の代弁者となっていった。それを疎んだ政府は、1820年に彼をキシ ニョフへ送る。1823年までキシニョフに留まった。その間、夏にカフカース(コーカサス)とクリミアに旅して長編詩『コーカサスの虜』や『バフチサライ の泉』を書き、高い評価を得た。1823年にはオデッサに移り住むが、再び政府と衝突し、1824年に両親の住む北ロシア、プスコフ県ミハイロフスコエ村 に送られる。1826年、皇帝ニコライ1世への嘆願が認められてペテルブルクに戻る。しかし、1825年に起こったデカブリストの蜂起の後の締め付けのために、デカブリスト(十二月党員)に友人をもつプーシキンは、北ロシアにいた時期に書いた『ボリス・ゴドゥノフ』などの詩を発表することが許されず、政府 の監視のもと、窮屈な生活を余儀なくされる。結婚の前年の1830年には、ボルジノにてロシア初の短篇小説『ベールキン物語』、叙事詩『コロムナの家』、 『ヌーリン伯爵』、韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』を完成する。1831年、ナターリア・ゴンチャロワと結婚。その後、低位の階級を与えられ帝室へ の出入りを許されるが、この申し出を、名うての美人で、密かに慕う者が多かったと言われる妻ナターリアを帝室に出入りさせるためのものとして、屈辱と受け 取った。プーシキンの進歩思想を嫌った宮廷貴族達は、フランス人のジョルジュ・ダンテスをたきつけ、ナターリアに言い寄らせる。最期は1837年1月27 日、プーシキンは妻に執拗に言い寄るダンテスに決闘を挑み、決闘で受けた傷がもとで、その2日後に息を引き取った。政治的な騒動を恐れた政府は、親しい者だけを集めて密かに葬儀を執り行った。遺体はミハイロフスコエ付近のウスペンスキー大聖堂の墓地に埋葬された。

プーシキンは、はじめて作品のなかに積極的に口語を取り入れて独自の語りの文体を作り上げ、近代文章語を確立した人です。後代のロシア及び世界の文学に影響を与えました。ロシアの文芸批評家ヴィッサリオン・ベリンスキーは、最初の国民詩人としてプーシキンを評価しています。彼の『エフゲニー・オネーギン』はチャイコフスキーのオペラの原作としても、よく知られています。主人公オネーギンは、ロシア社会になじめない青年の典型とされ、ヒロインのタチヤーナは情熱的な女性で、貴族の出身でありながら農民文化の理解者でもあり、その後のロシア文芸の女性像に影響を与えています。苦しげな最期の言葉ですが、銃弾を喰らって死んだのでは当然とも言えるでしょう。しかしもう少しマシな理由で決闘して、死ぬことはできなかったのでしょうか?
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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