05 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 07

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

I desire to leave to the men that come after me a remembrance of me in good works.

私の元に来た人たちには、私のことを良い仕事をなした人だと憶えておいてもたいたいよ。

アルフレッド大王の最期の言葉。アルフレッド大王(Alfred the Great、古英語ではÆlfred、849年 - 899年10月26日、在位:871年 - 899年)は、イングランド七王国のウェセックス王。兄エゼルレッド王の死後、王位を継いだ。妃はエアルフスウィス(Ealhswith)(エアルスウィス、Ealswith)。アングロ・サクソン時代最大の王とも称せられ、イギリスの歴史において大王と称される君主である。849年、バークシャー地方の王領ウォンティジにてウェセックス王エゼルウルフとオズバルガの間に五男として生まれた。祖父母はエグバートとレドブルガである。853年、幼少ながらエゼルウルフによってローマへ送り出され、当時の教皇レオ4世に謁見した。レオ4世はアルフレッド少年に塗油し、堅信礼を施したという。855年には父エゼルウルフとともにローマを再訪した。なお、この二度目訪問の帰途、エゼルウルフは立ち寄った西フランク王国でシャルル禿頭王の娘ユーディスと再婚を為している。エゼルウルフ王の死去後、3人の兄たちが次々と王位に就いたがいずれも短命に終わり、871年に王位を継ぐと、侵攻してくるデーン人と持病(ficus:おそらくクローン病による痔瘻)に苦しめられながらも、死去する899年までの約28年間ウェセックス王国を治めた。最終的にアルフレッドはウェールズの南部からデーンロウを除くイングランドのほぼ全域を支配し、全アングロ・サクソン人の王となった。死後、聖公会・カトリック教会・正教会で聖人となっている。当時ウェセックス王国はイングランド東部のデーン人から攻撃を受けていた。エゼルベルフト王が死去した後、865年エゼルレッド王が即位するとともに、アルフレッドは副将となり、公務を担うようになった。867年、義兄マーシア王ブルグレドの要請でエゼルレッド王とともに出陣し、初陣を飾った。871年、アッシュダウンの戦いでエゼルレッド王とともに戦い勝利を収めるものの、当年中にエゼルレッド王が戦いの傷が元で死去。賢人会の決定によりアルフレッドが即位する。875年にウェセックス勢が初めて海戦で勝利を収めると、翌876年にはスオニジの海戦でデーン人の戦艦120隻を沈めるという大勝利を得た。 しかし878年デーン人にアルフレッドの居たチップナムを急襲され、逃亡を余儀なくされたアルフレッドはアセルニーへ隠棲した。天然の要害であったアセルニーに要塞を建立し、召集兵を再編成、反撃の機を待ちエサンドゥーンの戦い(古英語: Battle of Ethandun、現在のウィルトシャー州エディントン付近)でデーン勢を破りウェセックスを奪還することに成功する。878年ウェドモーアの和議で平和条約を締結し、彼らの勢力範囲をイングランド東北部のデーンロウにとどめ、イングランド統一の基礎を築いた。アルフレッドは軍艦を造らせたり、兵役の交代制を導入するなどの軍政改革を進めた。また、敵の戦術を研究し取り入れたり、情報収集に長けていたとも言われている。これらが功を奏して、アルフレッドはデーン人を退けた。デーン人の船を参考としたアルフレッド型軍艦を建造させ、フリースラントなどから水夫を呼び寄せ、海軍を創設した。882年には4隻の軍艦と海戦し、これに勝利する。886年にはロンドンを掌握。893年以降もデーン勢とたびたび交戦するが、全て撃退されておりアルフレッドの平和を脅かすほどではなかった。なお、デーンロウが回復するのはアルフレッドの二人の子、エドワード長兄王とマーシアの貴婦人エゼルフリダの時代になってからである。アルフレッドはウェールズの学僧アッサーをはじめとし、マーシア出身のプレイムンド、ウェルフェルスなどを招聘し、荒廃したイングランドの学問の復興に当たらせた。 ラテン語の文献を翻訳するなど学芸振興にも力を注ぎ、自らもラテン古典の英訳に携わった。アルフレッドが訳するよう指示したと言われる書物が聖グレゴリウス『対話』『司牧者の心得』、オロシウス『異教徒を駁する歴史』、ベーダ『英国民教会史』、ボエティウス『哲学の慰め』、聖アウグスティヌス『独白』『詩篇』である。そのうち『司牧者の心得』の序文は原典にはなく、アルフレッド作であると言われ、デーン人によるイングランドの文化衰退を嘆く文章となっている。教育に関してもアルフレッドの尽力は評価が高い。前述の学者・学僧などの協力を得て宮廷学校を設立し、自身の子を筆頭に貴族の子などに教育を施した。一方でアルフレッドはアングロサクソン年代記の作成を指示した。9つある写本と断片のうちで一番新しい記事は1154年であり、ベーダの『英国民教会史』などを参考に紀元前からの歴史が約250年の間に書き続けられたことになる。これらのアルフレッドが作成させた年代記や翻訳した文献は古英語の希少な研究対象としての価値も高い。また、アルフレッド法典と呼ばれる法典の編纂を行った。この法典は旧約聖書の十戒など聖書の抜粋から始まり、ケント王エゼルベルト法典・ウェセックス王イネ法典と、イネ法典に強く影響を受けたマーシア王オファ法典などを参考にして編まれた。それに伴って裁判制度の改革を行い、王国をシャイアやハンドレッド (hundreds)に分割し地方裁判をきちんと行わせたり、フランク式誓約[9]を導入したりした。これらの改革によってウェセックスの治安は厳粛に守られた。晩年のアルフレッドはデーン人の侵略によって荒廃したイングランドの復興に従事した。度重なる侵攻によって荒廃したロンドンをアルフレッドは立て直した。この際、当時の主流であった木造建築ではなく石の建材が用いられた可能性がある。ロンドンの他にも外敵からの防衛拠点としての役割を持たせたバラ(borough)の建設など後世に引き継がれていく政策など行っている。

ヨーロッパの歴史上、「大王」と呼ばれる人は滅多にいません。アレキサンダー大王やフリードリヒ大王と並び「大王」と称されるイングランドのアルフレッド大王は、アングロ・サクソン時代最大の名君でした。彼は侵攻してくるデーン人(バイキング)とクローン病という難病と戦いながらも、イングランドのほぼ全域を支配し、全アングロ・サクソン人の王となりました。アルフレッドはイングランド軍を糾合して戦い、何度も敗れて窮地に陥りながらも、878年エディントンの戦で勝利をあげ、ウェドモアの和約でバイキングとの境界を画定、その王グスルムをキリスト教に改宗させました。他にも彼の業績として、軍政改革を進め教育や文化事業を振興し、アルフレッド法典と呼ばれる法典の編纂を行ったことが挙げられます。政治手腕だけでなく、彼は信仰厚く人柄も立派であったようで、死後、聖公会・カトリック教会・正教会で聖人となりました。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/1133-ca1cdc3c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。