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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

This is not the end of me.

これは私の終わりではないよ。

ヘンリー・キャンベル=バナマンの最期の言葉。サー・ヘンリー・キャンベル=バナマン (英: Sir Henry Campbell-Bannerman, GCB、 1836年9月7日- 1908年4月22日)は、イギリスの政治家。1899年にサー・ウィリアム・ヴァーノン・ハーコートが退任した後に自由党党首となり、1905年からの自由党政権の最初の首相(在職1905年-1908年)となった。在任中は野党保守党が貴族院で法案を阻止する戦術を取ったため、出来たことは多くなかった。1908年に病により退任し、ハーバート・ヘンリー・アスキスが自由党党首、首相の地位を継承した。サー・ジェームズ・キャンベルとその妻ジャネットの一人息子としてスコットランドのグラスゴーに生まれた。グラスゴー高校を卒業した後、グラスゴー大学へ進学し、ついでケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに進学した。1868年11月にスターリング・バラ選挙区から自由党の庶民院議員に選出される。以後40年間この議席を保ち続けた。1871年には叔父の意思で姓をキャンベル=バナマンに変更した。第1次グラッドストン内閣期の1871年から1874年にかけては陸軍省財政担当政務次官を務めた。第2次グラッドストン内閣期には、1880年から1882年まで陸軍省財政担当政務次官、1882年から1884年まで海軍省政務次官、1884年にアイルランド担当大臣を務めた。1886年の第3次グラッドストン内閣では陸軍大臣を務めた。1892年から1894年にかけての第4次グラッドストン内閣でも陸軍大臣を務めた。グラッドストンが失脚するに至った1893年から1894年にかけての海軍増強をめぐる閣内論争ではグラッドストンの意に反して海軍増強を支持した。グラッドストン辞職後に成立したローズベリー伯爵内閣でも陸軍大臣に留任したが、1895年6月には彼の所管であった陸軍予算問題で政府案が議会の採決に敗れた結果、ローズベリー伯爵内閣が総辞職に追い込まれている。以降1905年まで自由党の長い野党生活がはじまった。野党期の1898年暮れに自由党党首サー・ウィリアム・ヴァーノン・ハーコートが辞職するとライバルのアスキスを抑えて、1899年に自由党党首となった。保守党政権の第3次ソールズベリー侯内閣が開始した第二次ボーア戦争をめぐっては自由党は戦争を支持する「自由帝国主義派」(ローズベリー伯爵やアスキスら)、戦争を批判する「親ボーア派」(ロイド・ジョージら)、戦争を支持するが早期に穏当な条件で講和を結ぶべきとする中間派(キャンベル=バナマンら)の3つに分かれた。キャンベル=バナマンは党首として自由帝国主義派と親ボーア派の和合に努めていたが、戦争が泥沼化する中で徐々に親ボーア派的になっていき、イギリス軍のゲリラ掃討戦を「野蛮戦法」と批判するようになった。しかしこれにより自由帝国主義派との溝が深まり、党は分裂寸前にまで陥った。しかし自由帝国主義派のアスキスが調停的立場に転じてくれたおかげで何とか分裂の危機は回避された。キャンベル=バナマンは1905年11月23日の演説でアイルランドの漸進的自治を訴え、これに反発したローズベリー伯爵が再び反旗を翻した。しかしその頃にはローズベリー伯爵の求心力も衰えており、アスキスがバナマンを支持してくれたおかげでローズベリー伯爵一人が党を去ることで党内紛争を終息させることができた。1905年12月、アーサー・バルフォア保守党政権が関税改革論争をめぐって分裂して総辞職した後、国王エドワード7世より組閣の大命を受けた。いまだ自由党内には帝国主義政策をめぐる自由帝国主義派と小英国主義派の二大派閥の争いがあったが、首相となったキャンベル=バナマンは「邪悪な帝国主義に反対するが、常識に基づく帝国主義には賛成する」という折衷的立場をとり、また「大英帝国本国民が帝国を支配するための資質を育成する」として社会改良政策に尽力するという方針をとることによりアスキス、グレイ、リチャード・ホールデンら自由帝国主義派とロイド・ジョージら急進派をともに内閣に取り込み続けることができた。1906年1月の解散総選挙では、自由党は377議席を獲得するという地すべり的大勝利を得た。しかし貴族院においては保守党が半永久的に多数派を占めていた。この時代にはまだ庶民院の優越がなかったため、保守党党首バルフォアは貴族院から政府法案を廃案にする戦術を取った。これによりキャンベル=バナマン内閣の提出した重要法案はほとんどが否決されるか骨抜きにされた。特に1906年4月に初等教育から宗教教育を取り除くことを目指した教育法案を廃案にされたことにキャンベル=バナマンは強い怒りを感じ、貴族院権限の縮小の必要性を感じるようになったという。彼は1906年12月20日の庶民院演説で「本院に代表された民衆の意思を効果的に反映させる方法を考慮しなければならない」と訴え、1907年6月24日には庶民院の優越を定めた法律が必要との決議案を庶民院に提出し、これを庶民院に決議させた。しかしそれを具体化させる前の1908年2月にキャンベル=バナマンは心臓発作を起こして倒れ、医者の勧めに従って同年4月1日に首相職を辞した。代わってアスキスが組閣の大命を受けた。キャンベル=バナマンは退任から間もない1908年4月22日にダウニング街10番地の官邸で死去した。キャンベル=バナマンが切望した庶民院の優越を定めた議会法は、続くアスキス内閣期の1911年に達成されることになる。

ヘンリー・キャンベル=バナマンは、イギリスの自由党から首相となった人です。バナマンは優れた政治家でしたが、在任中は常に貴族院の保守党に邪魔されて、あまり多くの業績を残すことが出来ませんでした。自由党内でも、「自由帝国主義派」のローズベリー伯爵やアスキスら、急進派のロイド・ジョージらと対立しました。バナマンは自由派本来の立場をとりながらも、「邪悪な帝国主義に反対するが、常識に基づく帝国主義には賛成する」という、半ば玉虫色な立場から帝国を支配するための資質を育成するとして社会改良政策に取り組みました。彼は庶民院の優越がなかったために、やりたかったことをほとんどできなかったので、庶民院の優越を定めた法律を定めようとしましたが、その実現を見る前の1908年2月に心臓発作を起こして倒れ、首相職を辞し、1908年4月22日にダウニング街10番地の官邸で亡くなりました。庶民院の優越を定めた議会法は、続くアスキス内閣期の1911年に達成されたのですが、これにより力をつけた自由党とアスキスは、国民健康保険制度と失業保険制度を定め、福祉国家への第一歩を踏み出すと共に、ドイツ帝国との建艦競争を行い、最終的には第一次世界大戦を招きました。物事には良い面と悪い面があるものです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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