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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

In die Hände, Vater, befehle ich meinen Geist.

Lord, into Thy hands I commend my spirit.

主よ、御手に我が魂をゆだねます。

カール大帝の最期の言葉。カール大帝(カールたいてい、742年4月2日 - 814年1月28日、アーヘン)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子で、カール1世とも言う。768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)として彼の治世は始まったが、カールマンは771年に早世した。それ以降の43年間、兄のカールは70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。800年には西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位:800年 - 814年)を号したが、東ローマ帝国はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。カールの生涯の大半は征服行で占められていた。46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征をおこなっている。父ピピン3世の死後、イタリアのランゴバルド王国の王デシデリウスは王女をカールの妃としてフランク王国からの脅威を取り除き、ローマ教会への影響力を強めて勢力挽回を図ろうとした(ランゴバルドはイタリア語では「ロンバルド」と言い、ロンバルディア州、ロンバルディア平原の語源となった)。770年、カールは王女と結婚したが、デシデリウスがローマへの攻撃を開始し、773年にローマ教皇ハドリアヌス1世がカールに援軍を要請するに至って、カールは義父デシデリウスと対決することに方針を定め、妃を追い返してアルプス山脈を越えイタリアに攻め込んだ(de:Langobardenfeldzug)。翌774年にはランゴバルドの首都パヴィアを占領し、デシデリウスを捕虜として「鉄の王冠」を奪い、ポー川流域一帯の旧領を握ると、自らランゴバルド王となってローマ教皇領の保護者となった。さらに父の例にならって中部イタリアの地(以前のen:Exarchate of Ravenna領)を教皇に寄進した。772年には、ドイツ北部にいたゲルマン人の一派ザクセン族を服属させようとし、ウィドゥキントを降伏させたほか、10回以上の遠征をおこなったザクセン戦争をすすめ 804年には完全にこれを服属させ、今日あるドイツの大半を征服することで領土を拡大した。カールは、抵抗する指導者を死刑や追放に処し、フランク人を移住させるなどの方法で反抗をおさえた。778年、カールはイベリア半島に遠征した(ロンセスバージェスの戦い(ドイツ語版、英語版))。この時のカールのスペイン・カタルーニャ遠征を題材にしたのが『ローランの歌』である。ローランはカールの甥で最も危険な後衛部隊をひきいていたが、味方の裏切りにあいイスラム軍に包囲されてしまう。孤立無援のローランは助けを求めず、カールより賜った剣デュランダルで最後のひとりになっても戦った。このなかでカールは200歳を越す老騎士として登場する。カールのスペイン遠征の成果によって、後ウマイヤ朝のイスラム勢力を討ってエブロ川以北を占領して795年にはスペイン辺境領をおいた。北のフリース族とも戦い、西ではブルターニュを鎮圧して、東方ではドナウ川上流で土豪となっていたバイエルン族を攻めて788年にはこれを征服するとともに、791年以降はドナウ川中流のスラヴ人(ヴェンド人のポラーブ族で、カールはヴェンド人全体をヴァンダル人と呼んでいた)やパンノニア平原にいたアヴァールを討伐してアヴァール辺境領をおき、792年にはウィーンにペーター教会を建設している。アヴァールは、中央アジアに住んでいたアジア系遊牧民族でモンゴル系もしくはテュルク系ではないかと推定される。6世紀以降、東ローマ帝国やフランク王国をはじめとするヨーロッパ各地に侵入し、カール遠征後はマジャール人やスラヴ人に同化していったと考えられる。結果としてカールの王国は現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、スロヴェニア、モナコ、サンマリノ、バチカン市国の全土と、ドイツ、スペイン、イタリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアの各一部に広がった。このことによって、イギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、イングランド、デンマーク、スカンジナビア半島をのぞく全ゲルマン民族を支配してフランク王国は最盛期を迎えた。カールは、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。カールは征服した各地に教会や修道院を建て、その付属の学校では古代ローマの学問やラテン語が研究された。また、フランク王国内の教会ではローマ式の典礼を採用し、重要な官職には聖職者をつけ、十分の一税の納入を徹底させた。さらに住民をキリスト教のアタナシウス派(カトリック教会)に改宗させてフランク化もおこなった。カールはまた、広い領土を支配するために全国を州に分け、それぞれの州に「伯」(Comes、Graf)という長官を配置し、地元有力者を任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えるとともにその世襲を禁じた。荘園経営の指針として荘園令を出したといわれる。さらに、伯の地方行政を監査するため、定期的に巡察使(ミッシ・ドミニ)を派遣するなど、フランク王国の中央集権化を試みている。しかし征服されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法があり、カールのしばしば発した勅令にもかかわらず、王国の分権的傾向、社会の封建化の進行を完全に抑えることができなかった。カールの宮廷そのものが、1箇所に留まらずに常に国内を移動していた。それは、絶えず領内を移動して、伯との接触を確保する必要があったからであり、また、道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段がなかったためでもあった。父と共に遠征した南西フランスのアクイタニアでは土着貴族の勢力が強かったため、息子ルートヴィヒをその地の伝統にしたがって育て、まずはアクイタニアの王としたことにもカールが集権化に苦慮したことがあらわれている。他に道路を改修して交易を保護したり、銀を通貨とする貨幣制度を定めるなどの施策をおこなった。なお、カールは「ヨーロッパの父」と呼ばれ、現代におけるEU統合はしばしば「カールの帝国の再現」と称されることがある。内政においてカールは、アインハルト(エギンハルドゥス)やアングロ・サクソン人で宮廷付属学校の校長となったアルクィン(アルクィヌス)、スペインのテオドゥルフ、イタリアからはピサのペトルスやパウルス・ディアコヌスなど内外から高名な学者や知識人、修道士を宮廷に招聘し、一般にカロリング朝ルネサンスと呼ばれるラテン語の教育に基づく文化運動を企図した。それは、王国の維持に必要とされる聖職者や官吏を養成するという色合いの濃いものであり、一部のエリート層のみを中心とする閉鎖的な性格を持っており、修道院文化としての限界があったため、通念としての「ルネサンス」の名を冠すことについては適切ではないとの異論もある。ただし、中世西ヨーロッパにおける最初の大規模な文化運動、また古典古代の学芸を存続しようとする動きの一環として無視できない重要な意義を有している。正確には、カールが強力な軍事力で東はエルベ川から西はピレネー山脈を越えてエブロ川、北は北海沿岸から南は中部イタリアに広がる広大な土地を支配するに至った目的は、教父哲学におけるキリスト教の伝承と合致したかたちでフランク人の社会を変革してゆくことであった。教会の学問を世俗政府の中枢において営み、伝道を実現しようとしていたのである。中世において学芸は政治と深く関わっており、政治と宗教は切り離せないものであった。1978年に世界遺産に登録されたアーヘン大聖堂(ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州)はしばしば「皇帝の大聖堂」(ドイツ語:Kaiserdom)と呼称される。786年にカールがアーヘンに宮殿教会の建設を始めたもので、現在の大聖堂は805年完成の八角形の宮廷礼拝堂に1414年のゴシック様式の聖堂を併設したものである。なお、ブドウ栽培をガリアの地に広めたのもカールだといわれている。カールは800年11月、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、長男カール(少年王)、高位の聖職者、伯、兵士達からなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。ローマから約15kmのところでカールはローマ教皇レオ3世より直々の出迎えをうけた。そして、サン・ピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、レオ3世はカールを大聖堂の中へ導いた。800年12月25日の午前中のミサで、ペトロの墓にぬかずき、身を起こしたカールにレオ3世は「ローマ皇帝」(神により加冠されし至尊なるアウグストゥス、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治するインペラートル;serenissimus Augustus a Deo coronatus, magnus pacificus Imperator Romanorum gubernans Imperium)として帝冠を授けた。この時、周囲の者は皆「気高きカール、神によって加冠され、偉大で平和的なるローマ人の皇帝万歳と叫んだという。レオ3世は前年の799年に反対派に襲われ、カールの下に逃げ込んだことがあった。カールの戴冠はレオ3世を助けたことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり、東ローマ帝国への対抗措置でもあったのである。ただし、この「戴冠」についてはレオ3世とカールとの間には認識の差があり、アインハルトは「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、サン・ピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」というカール自身の言葉を伝えている。コンスタンティノポリスの東ローマ帝国は、皇帝の称号を名乗るためには東ローマ皇帝の承認が必要であることを強硬に主張していたし、それは西欧世界においても伝統的な認識であった(そもそも、ローマ教皇が皇帝を任命するという慣習はそれまでには全くなかった。また古代の東西ローマ分割時代は、東西の皇帝は即位時に互いの帝位を承認し合っていた)。その意味で、カールの戴冠は東ローマ側から見ると皇帝称号の僭称に過ぎないと見なされた。そこでカールは自らの皇帝称号を東ローマ側に承認させるための皇帝補任運動を繰り広げた。カールは自身が東ローマの女帝エイレーネーと結婚することによって皇帝の称号を正式のものとするといった奇策も考えたが、これは実現することはなかった。東ローマ帝国では当初カールの皇帝権を容易に承認しようとはしなかったが、エイレーネーの死後の812年にようやく両者の間で妥協が成立し、東ローマ皇帝ミカエル1世はカールの帝位を認め、代わりにカールは南イタリアの一部と商業の盛んなヴェネツィアを東ローマ領として譲り渡すことを承認した。ただ、この時にも東ローマ側としてはローマ皇帝(ローマ人の皇帝)はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみであるとしており、カールにはローマ皇帝ではなく、フランクの「皇帝」としての地位しか認めていない。ただ、そうだったとしても、西欧的立場から見るならば、これまでは地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したことは大きな意味を持っていた。ここでローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。このことは、西欧の政治統合とともに、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる一つの文化圏の成立を象徴することでもあったとされている。カールは「兄弟間の連帯による統一というフランク的な王国相続の原理」に従い、806年に「国王分割令」(ディヴィシオ・レグノールム)を定め、嫡男のカール少年王・次男のランゴバルド分国王ピピン・末子のアクイタニア分国王ルートヴィヒを後継者とした。しかし、810年にピピンが、翌811年にはカール少年王が父に先立って没したため、813年に残ったルートヴィヒを共同皇帝とし、翌814年1月28日、アーヘンにおいて71歳で死去した。カールの遺体はアーヘン大聖堂に埋葬され、遺骨は今も特別の神殿に保存されている。

ヨーロッパの歴史において大王(The Great)と呼んでもらえる人は滅多にいないのですが、カール大帝もその滅多にいない内の一人です。カール大帝は西ローマ皇帝を名のりましたが、東ローマ帝国はカールのローマ皇帝位を承認しなかったので、彼は偉大な王ではありましたが皇帝だったのかどうかについては微妙です。彼の業績は非常に広大なもので、ここに全てを書ききることは出来ませんが、彼は精力的に各地に遠征し、ランゴバルド王国を滅ぼし、ザクセン人の強硬な抵抗を屈服させ、キリスト教を受容させて、フランク王国は最盛期を誇りその版図は最大に達しました。つまり他の諸大王達と同じく、彼もまた一方ではとんでもない征服者でした。このような功績によってカール大帝は「ヨーロッパの父」「最初のヨーロッパ人」と呼ばれ、今なお中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として広く尊敬されています。カール大帝はザクセン人の捕虜4,500人を虐殺的に処刑したりと、血生臭いことも行っていますが、同時に征服した各地に教会や修道院を建て、その付属の学校では古代ローマの学問やラテン語が研究させるなどの布教と学問の奨励も行っています。もちろん、カール大帝の最大の業績は、暴力によるものではなく布教と学問においてヨーロッパを統一したことに帰せられるべきでしょう。現代におけるEU統合がしばしば「カールの帝国の再現」と称され、ドイツのアーヘン市がヨーロッパ統合に貢献した人物にカール大帝賞を授与していることは、その意志の継承であると言えるでしょう。さて、カール大帝個人についてですが、記録によると小太りの長身(約195cm)でふさふさとした銀髪をもち、声は少し甲高かかったそうで、馬術、狩猟、水泳などに長じており、特に水泳ではアーヘンの宮廷にあった大きな温泉プールで、誰もカールの右に出るものはいなかったほどだったそうです。本人は文盲だったので夜な夜な石板に手習いをしたエピソードは有名で、ラテン語は自由に話せるほどに熟達し、ギリシア語も聞いてわかる程度にはなりました。食事中は好んで歴史書を読ませたが神学者アウグスティヌスの著作も好み、『神の国』は何度も読ませたそうです。カールの言葉に「平和なくして、神を喜ばせることはできない」や「余の務めは、聖なるキリストの教会を作ること」というものがありますが、戦争に強かったことだけでなく、この辺りの敬虔さが、彼に大王という称号をもたらしたものだといえるでしょう。カール大帝はフランスのトランプではハートのキングのモデルとされています。ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは、「マホメットなくしてカールなし」というテーゼを唱え物議を醸しました。これはムスリム勢力による地中海沿岸の征服により、商業地域として閉ざされたことによって、西ヨーロッパの古代の経済生活や古代文化の名残の多くが消滅し、さらに東ローマ帝国とも対立することで西ヨーロッパ地域に閉ざされ地中海文化断絶したことによって、キリスト教を主とする独自の文化圏が現れたという説です。この説には異論はあるかと思いますが、カール大帝はこの地域的に閉ざされた西ヨーロッパを統一することで、現在のヨーロッパの原型を作り上げることができたと言えるかと思われます。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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