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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

(死の床にて後継者を聞かれて)

Kratistos.

To the strongest!

最も強きものに!

アレクサンドロス3世の最期の言葉。アレクサンドロス3世(古希: Ἀλέξανδρος Γ'、紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位紀元前336年 - 紀元前323年)、通称アレクサンドロス大王(古希: Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)は、アルゲアデス朝のマケドニア王、コリント同盟(ヘラス同盟)の盟主、エジプトのファラオを兼ねた人物である。ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、この場合は英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。ハンニバル、カエサル、ナポレオンなどの著名な歴史上の人物たちから大英雄とみなされていた。旧約聖書やコーラン、シャー・ナーメ、ゾロアスター教など多様な民族の教典にも登場する。現代でもアレクサンドロスの名に関する名をつける人は多い。1941年からギリシャで発行されていた旧1000ドラクマ紙幣や、1926年 からアルバニアで発行された旧1レク紙幣などの肖像に使用されていた。アレクサンドロス3世はマケドニア王ピリッポス2世とエペイロス王女オリュンピアスの間に生まれた。紀元前342年、ピリッポスはアテナイからマケドニア人の学者アリストテレスを「家庭教師」として招く。アリストテレスは都ペラから離れた「ミエザの学園」で、紀元前340年までアレクサンドロスとその学友を教えた。こうして、彼と共にギリシアの基礎的な教養を身につけた「学友」たちは、後に大王を支える将軍となった。東征中、アレクサンドロスの要請でアリストテレスは『王道論』と『植民論』を書き送ったといわれる。アレクサンドロスも、各国から動物や植物を送り、アリストテレスはそれらを観察し、研究を続けた。アリストテレスとの交流はこうして、アレクサンドロスの死まで続いた。紀元前338年、アレクサンドロスは一軍の将として父に従ってギリシア地方に出兵しカイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破る。これが彼の初陣であったが、このときアレクサンドロスは精鋭の騎兵を率いてアテナイ・テーバイ軍を壊乱させ、マケドニアの勝利に大きく貢献した。父ピリッポス2世はこれによってギリシア諸ポリスにコリント同盟(ヘラス同盟)を締結させ全ギリシアの覇権を握ると、続いてペルシア東征を計画したが、紀元前336年に護衛のパウサニアスに暗殺された。20歳の若さでマケドニア王を継承したアレクサンドロスは、敵対者を排除してマケドニアを掌握すると、トラキア人と戦うためにイストロス川方面に遠征して成功をおさめ、その隙に反旗を翻したテーバイを破壊し、父王暗殺後に混乱に陥っていた全ギリシアに再び覇を唱えた。ギリシアの諸ポリスを制圧したアレクサンドロスは、マケドニア本国の押さえを重臣アンティパトロスに任せた。紀元前334年、父の遺志を継いでマケドニア軍を率いてペルシア東征に出発し、小アジアに渡ったマケドニア軍38,000はグラニコス川の戦いで小アジア太守の連合軍4万と対峙した。この時、派手な甲冑を身に纏ったアレクサンドロスは騎兵の先頭に立ち、自ら馬を駆って突進すると敵将ミトリダテスを投げ槍でしとめた。この印象的で鮮やかな勝利によって、アレクサンドロスは味方将兵の信頼を得ると共に敵に対しては計り知れない恐怖心を与えることになった。カリスマ性を帯びたアレクサンドロスに率いられるマケドニア軍は、小アジアに駐屯するペルシア軍を蹴散らしながら東進を続けて行く。紀元前333年、ついにアレクサンドロスはアンティオキアの北西イッソスにおいて ダレイオス3世自らが率いるペルシア軍10万と遭遇する(イッソスの戦い)。アレクサンドロスは騎兵と近衛兵、徴募兵を縦横無尽に指揮してペルシア軍を敗走させ、ダレイオスの母・妻・娘を捕虜にした。このときペルシアから和睦の申し出を受けるが、これを拒否しさらに進軍を続ける。アレクサンドロスは、シリアにおいては反ペルシアの都市が比較的多かったため歓迎されたが、唯一頑強に抵抗したフェニキアのティール(Tyre、現ティルス)を屈服させると、さらに南下してエジプトに侵入した。エジプトは11年前の紀元前343年にアルタクセルクセス3世によって征服されたばかりであり、ペルシアの統治が根付いていなかったために占領は容易であった。紀元前332年、エジプト人に解放者として迎え入れられたアレクサンドロスはファラオとして認められ、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、アメン神殿にその像を祭られた。彼は少数の部隊を率いて西部砂漠のシワ・オアシスにあるアメンの聖地に行き、ここで自らをアメンの子とする神託を得た。また、その後ナイルデルタの西端に都市を建設したが、これが現在のアレキサンドリアの起源である。エジプトの地で将兵に充分な休養と補給を施したアレクサンドロスはペルシア王国への遠征を再開する。紀元前331年、アレクサンドロス軍47,000は、チグリス川上流のガウガメラで20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った(ガウガメラの戦い)。ダレイオスがカスピ海東岸に逃れると、ペルシャ王国はもはや風前の灯火となった。ペルシャ王国の中枢に乱入したマケドニア軍は、バビロンやスーサの主要都市を略奪、ペルセポリスでは一般民衆に対しても凄惨な虐殺と強姦が繰り広げられたうえ徹底的に破壊して焼き払った。ペルシアの中枢を占領した後も、アレクサンドロス軍はダレイオスを追って進軍を続けた。翌年、ダレイオス3世が王族で側近であったベッソスによって暗殺されると、アレクサンドロスはダレイオスの遺骸を丁重に葬った。ダレイオスの死後も、ベッソスはペルシア国王アルタクセルクセスを自称して抗戦を続けたため、アレクサンドロスはベッソスの不義不忠を糾弾してこれを攻め、スピタメネスとオクシュアルテスにベッソスは捕えられた後、アレクサンドロスに引き渡されエクバタナで公開処刑された。中央アジア方面へ侵攻したアレクサンドロスは、再び反乱を起こしたスピタメネスを中心とするソグド人による激しい抵抗に直面した。マケドニア軍は紀元前329年から紀元前327年までソグディアナとバクトリアにおける過酷なゲリラ戦(Siege of the Sogdian Rock)を強いられ、将兵の士気の低下を招いた。クレイトス殺害事件や近習による陰謀事件など、アレクサンドロスと部下たちの間に隙間が生じ始めるのもこの頃である。なおアレクサンドロスは紀元前328年に帰順したこの地方の有力者、オクシュアルテスの娘ロクサネを妃とした。ペルシア王国を征服したアレクサンドロスは次にインドへの遠征を目指した。スワート渓谷でコフェン戦争(紀元前327年 - 紀元前326年)。アオルノス包囲戦(古代ギリシア語: Άορνος、英語: Pir-Sal、現ピール・サル峰、紀元前327年 - 紀元前326年)。紀元前326年にインダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、5月にヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族の王ポロスを破り、さらにインド中央部に向かおうとしたが、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした。11月からアレクサンドロスはHydraotes川(現ラーヴィー川)を南下し、全軍を3つに分割してクラテロスと共に残存する敵対勢力(en:Jat people系族のen:Malhi)を駆逐(en:Mallian Campaign)し、さらにインダス川を南下してPatala(現タッター)に出た。ゲドロシア砂漠(現パキスタンバローチスターン州)を通ってカルマニア(現イランケルマーン州)に向かい、紀元前324年にスーサに帰還した。この際、部下のネアルコスに命じてインダスからペルシア湾を通ってユーフラテス川の河口までの航海を命じた。この探検航海によりこの地方の地理が明らかになると同時に、ネアルコスの残した資料は後世散逸したもののストラボンなどに引用され、貴重な記録となっている。紀元前324年にはスーサの合同結婚式が行なわれた。帰還したアレクサンドロスは、バビロンにおいて帝国をペルシア、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによる同君連合の形をとることにした。また、広大な帝国を円滑に治めるためペルシア人を積極的に登用するなど、ペルシア人とマケドニア人の融和を進めた。この過程においてアレクサンドロスはペルシア帝国の後継者を宣し、ペルシア王の王衣を身にまといペルシア風の平伏礼などの儀礼や統治を導入していったため、自身の専制君主化とマケドニア人の反発を招いた。バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが、蜂に刺され、ある夜の祝宴中に倒れた。10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、紀元前323年6月10日に死去した。

ヨーロッパの歴史上滅多にいない大王の中でも、アレキサンダー大王は最も偉大にして有名な人物です。彼はあらゆる点から考えて、決して「英雄」という言葉の概念から外れることのない人物です。彼の父マケドニア王ピリッポス2世は、アテナイからマケドニア人の学者アリストテレスを「家庭教師」として招き、アリストテレスは都ペラから離れた「ミエザの学園」で、紀元前340年までアレクサンドロスとその学友を教え、この教育が後のマケドニア王国の礎となりました。戦争と殺戮に彩られた彼の輝かしい勝利の数々の全てを詳細に書きつくすことはできませんが、簡単に書いておきましょう。彼は大遠征に次ぐ大遠征により、小アジアを征服し、エジプトを征服し、ペルシア王国を滅亡させ、中央アジア方面へ侵攻し、インドへの遠征を目指してインダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、ヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族の王ポロスを破り、さらにインド中央部に向かおうとしましたが、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことになりました。簡単に言うと戦いに次ぐ戦いに嫌気が差した部下に、ストライキを起こされたのです。最終的に大王は帰還し、バビロンにおいて帝国をペルシア、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによる同君連合の形を取りました。しかし、いかに偉大なアレキサンダー大王といえども、統治されている人民同士を仲良くさせることは難しかったようで、広大な帝国を円滑に治めるためペルシア人を積極的に登用するなど、ペルシア人とマケドニア人の融和を進めましたが、この過程においてアレクサンドロスはペルシア帝国の後継者を宣し、ペルシア王の王衣を身にまといペルシア風の平伏礼などの儀礼や統治を導入していったため、自身の専制君主化とマケドニア人の反発を招いてしまいました。さて、上記の最期の言葉についてですが、これについて、本当は"Krateros"という将軍の名前を述べたのを、その場にいた人によって、上記の言葉に改変されたという疑惑があります。しかし、大王の死後、大王の遺言に忠実に「最強の者が帝国を継承」しようとして覇を争うことになり、アンティゴノス、セレウコス、プトレマイオス他の諸将によるディアドコイ戦争を経て帝国は三つに分裂してしまいました。さて、アレクサンドロス3世もまた、その最大の業績としては、暴力によるものではなく、遠征の結果、ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化が生まれたことを挙げるべきでしょう。ヘレニズム文化はアレクサンドロスの帝国とその後継王朝へ根付き、ラオコオン、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ、瀕死のガリア人などの彫刻が各地で制作された他、エウクレイデス、アポロニオス、アルキメデス、エラトステネス、アリスタルコスらの学者も輩出し、その後古代ローマに強い影響を及ぼしました。常に最前線で将兵と共に戦い、マケドニア式のファランクスによって地中海世界を席巻したアレキサンダー大王も、最期は突然熱病に倒れ、彼が作り上げた広大な王国も、紀元前168年にアンティゴノス朝が滅ぼされたのを皮切りに西方は順次ローマに併合され、ヘレニズム諸三国はいずれもローマに滅ぼされてしまいました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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