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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

I love the rain. I want the feeling of it on my face.

私は雨が好き。この顔で雨を感じたい。

キャサリン・マンスフィールドの最期の言葉。キャサリン・マンスフィールド(Katherine Mansfield, 本名:Kathleen Mansfield Beauchamp, 1888年10月14日 - 1923年1月9日)はニュージーランド出身の作家である。「意識の流れ」を重視した作家のひとりとされる。ニュージーランド生まれとしては最も有名な作家で、主にイギリスで作品を発表した。病のため短い作家生命に終わったが、中流階級の家庭に起きるささいな事件とそれにまつわる人間心理の機微を描いて高く評価されている。その描写には作家本人の孤独、疾病、嫉妬が反映されていると共に、アントン・チェーホフの影響が強い。キャサリン・マンスフィールドはニュージーランド、ウェリントンの中流家庭に生まれた。父親は銀行家、母親も良い家柄の出だった。幼年期を送った現ウェリントン郊外のカロリ(Karori) は田舎で、後にその頃のことを「いつも何かを書いていたと思います。戯言めいたことですよ。でも、戯言でもなんでも書いている方が、ずっと、ずっとよかった。そうしなければ何もなかったから」と語っている。9歳の時に初めて自分の文を出版している。1903年にロンドンの Queen's College に入学、1906年にニュージーランドの郷里の家に帰り音楽を志した(彼女は才能あるチェリストでもあった)が、プロへの道は父親の反対により諦めることとなった。田舎の偏狭な生活に倦んだ彼女は、友人のとりなしによって二年後にロンドンに戻ることができた。それ以降二度と故国の土を踏むことはなかった。父親からの経済的援助を受けながら彼女は短編をものし、ロンドンの文化サークルに属するようになった。そこで同時代の作家、例えばD・H・ローレンス、ヴァージニア・ウルフに出会った。彼女の作品は若干の出版社から興味をもたれ、1911年に最初の短編集 In a German Pension を出版、その際 Katherine Mansfield を筆名とした。この作品が売れなかったことに落胆したマンスフィールドは、間借り人の一人であった社会主義者・文芸批評家ジョン・ミドルトン・マリー (John Middleton Murry) と同棲するようになる。最初の出版の後、1918年の第二短編集 Prelude までの間、鬱状態に沈んだマンスフィールドは作品を書き続けたものの殆ど出版しなかった。1917年には結核を発病し、更に健康状態を害していった。欧州の温泉保養地を転々としながらの闘病生活中に書き始めた作品が、マンスフィールドの名を高からしめることとなる。1920年に短編集 Blissが出版された。表題作の Bliss は夫の不貞に直面した同じような性格の女性を描き、評論家の絶賛を浴びた。続く短編集 The Garden Party (1922年)も同様の高い評価を得た。この中に収載された、パリの観察と簡単な娯楽だけの儚い生を送る虚弱な女性を描いた甘辛い物語の Miss Brill によって、マンスフィールドはモダニズム時代における極めて優れた作家と見なされることとなる。晩年のマンスフィールドはフォンテーヌブローの「人の調和的発展研究所」(神秘主義者グルジェフが設立した)で、ひとりぼっちで執筆活動を続けた。題材はきまって自分のルーツ、自分の幼い時代のことだった。更に詩集を1冊、短編集を1冊出版した後、1923年、34歳の誕生日の後程程なく喀血を起こし帰らぬ人となった。彼女の遺体はフランス、アヴォン(セーヌ=マリティーム県のコミューン)の墓地に埋葬されている。最期の言葉は「私は雨が好き。この顔で雨を感じたい。」 ("I love the rain. I want the feeling of it on my face.") であった。

キャサリン・マンスフィールドは最も有名なニュージーランド出身の作家ですが、日本での知名度はあまり高くありません。彼女は生前に評価されずに若くしてなくなった人でしたが、ヴァージニア・ウルフは早くからマンスフィールド作品からの影響を認め、「私に嫉妬心を抱かせる唯一の作品」とさえ言っていました。マンスフィールドの死の報に接した時に、ウルフは When I began to write, it seemed to me there was no point of writing. Katherine wont read it. (キャサリンがこれを読むことはないのだと考えると、原稿用紙に向かっても、なんだか無駄な気がしてならない。)と嘆いています。晩年に多くの名作を残したために、マンスフィールドの散文と詩の多くは生前には出版されませんでしたが、夫のジョン・ミドルトン・マリーの努力の結果、二冊の短編集 (Something Childish,1924, The Aloe, 1930) と三冊の未公開書簡集が出版され、9年後に未完作品を集めた巻が出版されました。彼女の作品の中でも、Miss Brill 、Prelude 、The Fly といった諸作は多くの輯に収められ、歴史を超えた傑作と評価されています。また、マンスフィールドは時代に先んじてロシアの劇作家アントン・チェーホフを尊敬し、チェーホフが用いたテーマや技法を自らの作品に用いました。彼女は短い生涯の間に、多くの恋愛をし、
子供を流産したり性病に感染したりといった、悲惨な形でで多くの愛を失いました。特にショックだったのは、恋人ではありませんが、最愛の弟を戦争で失ったことでした。彼女右派弟の死を嘆きながらも、大いに創作に励みましたが、ただ一人の弟の死はマンスフィールドに大きな影響を与え、以後の作風にも変化が見られました。弟の死を夢で見たのち、マンスフィールドは次のような奇怪な詩を書いています。

By the remembered stream my brother stands
Waiting for me with berries in his hand ...
'There are my body, Sister, take and eat.'
記憶の流れの淵に弟が佇んでいる
自分の手にベリーをのせて、待っている…
「姉さん、これがぼくの体だよ。食べてくれない?」

マンスフィールドの最期は1923年 1月9日、手紙で呼び出された夫のマリーが到着したその日の夜、最後の喀血をして亡くなりました。34歳没。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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