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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Acta est fabula, plaudite!

The play is over, applaud!

劇は終わった、拍手を!

アウグストゥスの最期の言葉。アウグストゥス(羅: Imperator Caesar Divi Filius Augustus インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス、Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス、紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した。ちなみにアウグストゥスは、ラテン語で「尊厳ある者」を意味しており、現在のギリシア語では「8月」の意になっている。

アウグストゥスはカエサルの意志を引き継いで、も「パクス・ロマーナ」を実現した人物であり、ギリシア史上最高のワルの一人でした。彼が有能であったことは疑いのないことですが、その最高の才能は人を騙すことにあったと言っても過言ではないでしょう。実際彼は身体が弱く、将軍としての資質には欠いた人でしたので、その弱点を補うべく、生涯の盟友となるマルクス・ウィプサニウス・アグリッパらのを腹心の部下としました。紀元前44年3月15日にカエサルがマルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスらに暗殺されると、アウグストゥスはカエサルの遺志であるパルティアとの戦争を遂行するためカエサルが集めた公的資金を要求し、70万セステルティウスもの資金がブルンディシウムに集められました。カエサル配下の退役兵から熱烈な支持を受けたアウグストゥスは、有力なカエサルの暗殺後、後継者候補として政治の表舞台に躍り出ました。さらに、政敵であったアントニウスを元老院の脅威となっていると弾劾し、アントニウスを元老院で孤立させることに成功すると、紀元前43年1月1日、元老院はアウグストゥスを元老院議員に任命、そして彼に指揮権を与えました。アウグストゥスは自分の大叔父であり、養父であったローマの英雄カエサルを神格化することを元老院に認めさせると、これによりオクタウィアヌスは自らを「神君の息子」とし、元老院での影響を強めました。アントニウスはその後、クレオパトラとの関係を深め、度々ローマと対立するようになるのですが、紀元前33年1月1日、この年の執政官となったアウグストゥスは元老院にてアントニウスとクレオパトラへの宣戦布告の決議案を提出し、元老院もアントニウスを見限りました。アクティウムの海戦は戦争の実績と軍事力ではアントニウス軍が圧倒的に有利な立場にありましたが、アウグストゥスはアグリッパというローマ人には珍しく海戦を得意とした将軍を登用し、苦戦を強いられながらも、徐々に有利な戦いを展開していきました。すると戦場から突然クレオパトラがエジプトに逃げ去り、アントニウスもその後を追ったため、指揮官を失ったアントニウス軍は総崩れとなりました。いかな大英雄アントニウスも、こうなってはお終いでした。アントニウスとクレオパトラはエジプトのアレクサンドリアへ逃れるも、その後を追撃されアントニウスは自害、直後にクレオパトラも自害したためにここにプトレマイオス朝は滅亡しました。紀元前29年、ローマに凱旋したオクタウィアヌスは元老院のプリンケプスとなったのですが、プリンケプスとは元老院内での第一人者を表す称号であり、後には政下では全てのローマ市民の中で第1の地位を占める「元首=皇帝」を指す言葉となりました。アウグストゥスはカエサルを暗殺した共和主義者を滅ぼし、アントニウスらとの権力闘争を勝ち抜いて、彼の権力を妨げる勢力を全て排除することに成功しまし、実力で地中海世界を統一し、カエサルの後継者に相応しいことを証明しました。アウグストゥスは最高権力者となったのですが、ここで独裁政権を築かなかったことが、彼の凄いところでありワルな所でもありました。紀元前27年1月13日、突如アウグストゥスは元老院で、全特権を返上し共和制への復帰を宣言する演説を行い、元老院を歓喜させました。しかし、彼が返上した権限は実質的に形骸化したものばかりであり、首都ローマおよびイタリア、つまり本国を直接支配する執政官職は放棄しなかったので、彼が独裁官であることには何の変わりもありませんでした。しかし、それに気付く者もなく驚喜する元老院は「アウグストゥス」の尊称を贈る決議を一切反対もなく賛成し、また、平和が回復するまで属州の防衛も依頼しました。これにより、元老院は返してもらったはずの軍事力を即座にアウグストゥスに返上してしまいました。さらにアウグストゥスは軍事的に厄介な地域を自分が引き受け、安全な地域の元老院が総督を選出できる元老院属州とすることにしたため、元老院を更に驚喜させました。そして、軍団指揮と属州統治を行うためにプロコンスル命令権(インペリウム・プロコンスラレ)を元老院から取り付けて、正式な法的根拠とすると、この結果、ローマ全軍の一元管理が可能となり、アウグストゥスは名実共に「インペラトル」となりました。こうしてアウグストゥスによって復活した元老院による共和制が、アウグストゥス以外誰も気がつかないうちに元老院の手によってアウグストゥスによる帝政となり、初代ローマ皇帝アウグストゥスが誕生しました。アウグストゥス自身は、「私は権威において万人に勝ろうと、権力の点では同僚であった政務官よりすぐれた何かを持つことはない」(『神君アウグストゥスの業績録』34)と述べていますが、表面上はともかく実質的には、アウグストゥスは終始唯一のローマの統治者であり続けたこともあり、彼の言葉をそのまま信じて良いのかは微妙です。ローマ史研究家の F.E.Adcock によれば「アウグストゥスはアレキサンダー大王やカエサルのような、圧倒的な知力の持ち主ではなかった。しかし、あの時期の世界は、彼のような人物こそを必要としていた」としていますが、アウグストゥスは自らの力や知力を駆使するよりは、自分より優れた人物を使い、敵対者に徳を与えて服従させるタイプの人でした。彼がまさに「将の将」たる人物であったことは、「パクス・ロマーナ」を実現したという彼の最大の業績の最も重要な要因でした。彼はその治世の中で芸術に心血を注ぎ、友人であるガイウス・マエケナスを通じてウェルギリウス、ホラティウス、セクストゥス・プロペルティウスなどを庇護し、彼の時代にラテン文学は全盛期を迎え、アウグストゥス本人が、「私は煉瓦の街を受けついで大理石の街を残した」と言うように、大胆にギリシャ様式を取り入れた大理石の芸術を次々と生み出し、ローマ帝国の最高の芸術の水準を花開かせました。さて、上記の最期の言葉についてですが、奇しくもアウグストゥスの最期の言葉とほとんど同じ言葉を、ベートーヴェンが残しています。アウグストゥスは胃腸を患い、紀元14年8月19日、ポンペイ近郊のノラの町で76歳で死去したのですが、その時、友人に「私がこの人生の喜劇で自分の役を最後までうまく演じたとは思わないか」に尋ね、「この芝居がお気に召したのなら、どうか拍手喝采を」との喜劇の口上を付け加えたとされています。恐らくベートーヴェンがアウグストゥスの最期の言葉の真似をした可能性はないと思われますので、これは完全な偶然の一致ですが、それにしては、非常によく似通っています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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