FC2ブログ
10 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 12

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

Tell Anna of our talk.

我々の話をアンナに伝えてくれ。

ジークムント・フロイトの最期の言葉。ジークムント・フロイト(ドイツ語: Sigmund Freud、1856年5月6日 - 1939年9月23日)は、オーストリアの精神分析学者、精神科医。オーストリアの白人系ユダヤ教徒アシュケナジムの家庭に生まれた。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、心的外傷論研究(PTSD研究)、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した。非常に詳細で精密な観察眼を示す症例報告を多数残した。それらは、現在においても次々と新しい角度から研究されている。フロイトの提唱した数々の理論は、のちに弟子たちによって後世の精神医学や臨床心理学などの基礎となったのみならず、20世紀以降の文学・芸術・人間理解に広く甚大な影響を与えた。弟子たちは、フロイトの考え方のどこかしらを批判した上でこれを受け継ぎ、様々な学派に分岐し、それぞれ独自の理論を展開していった。現代思想、特に大陸哲学、フランス現代思想の哲学者(ジャック・ラカン、ジャック・デリダ、フェリックス・ガタリなど多数)に大きな影響を与え、精神分析を基調とする哲学の創始者とされる。人間が意識していないいわゆる「無意識」を初めて扱ったフロイトの精神分析は、「無意識の哲学[1]」として非常に重要なものであり、精神分析を広く援用する大陸現代思想に大きな影響を及ぼした。フロイトが心理学者であるか否かは「心理学」という語をどのように定義するかによるが、自身は著作の中で自分を心理学者だと述べている[2]。フロイトの唱えた説は精神分析学者、精神科医に属するものとされることがあり、現代思想、哲学を解説する書物[3]では広義の哲学者とされることもある。

フロイトの人生と業績を書いていくと膨大な量になりますので、簡単に述べていきます。フロイトは精神科医でしたが、マルクス、ニ-チェと並んで20世紀で最も影響の強かった思想家であるとも言えます。フロイトはユダヤ人の家庭に生まれ、1859年、フロイト自身が3歳のときにウィーンへ転居しました。1873年(17歳)ウィーン大学に入学しましたが、医学部の生理学研究所に入り、カエルやヤツメウナギなど両生類・魚類の脊髄神経細胞を研究していました。1881年(25歳)ウィーン大学卒業し、1882年(26歳)に、後の妻マルタ・ベルナイスと出逢いました。1885年(29歳)、選考を経て留学奨学金が与えられたためパリへと行き、ヒステリーの研究で有名だった神経学者ジャン=マルタン・シャルコーのもとで催眠によるヒステリー症状の治療法を学びました。1886年(30歳)、ウィーンへ帰り、シャルコーから学んだ催眠によるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移し、治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが自由連想法でした。これを毎日施すことによって患者はすべてを思い出すことができるとフロイトは考え、この治療法を精神分析(独: Psychoanalyse)と名づけました。フロイトは終生、脳と心の働きの連関を「科学的に」解き明かすことを研究の主旨とし、目標としていたのですが、フロイトの理論の背景には機械論的な生理学、唯物論的な科学観がありました。よってフロイトは終生無神論者であり、宗教もしくは宗教的なものに対して峻厳な拒否を示しつづけ、そのため後年にアドラー、ユングをはじめ多くの仲間や弟子たちと袂を分かつことにもなりました。脳神経の働きと心の動きがすべて解明されれば、人間の無意識の存在はおろか、その働きについてもすべて実証的に説明できると彼は信じており、当時の流行病であり謎でもあったヒステリーの解明の鍵であった「性」という領域に、乗り出していきました。このことで彼は学会から批判され、1890年代後半から1910年近くまでフロイトは孤独に苦しんでいました。1905年の『性に関する三つの論文』は各方面から悪評を浴びせられるなど、ウィーンでの理解者は皆無に等しかったのですが、身近に集まった弟子や、フェレンツィ、ユング、ビンスワンガー、その他ロンドンやアメリカなどの国際的な支持が、フロイトを支えていました。1908年にもなると精神分析運動に対しての反発は頂点に達しつつあり、1910年「国際精神分析学会」創立時、フロイトはユダヤ人である自分よりも、ユングを初代会長に就任させました。二人は個人的にもしばらく蜜月状態ともいうべき時期が続きましたが、無意識の範囲など学問的な見解の違いから両者はしだいに距離を置くようになりました。1913年のミュンヘンにおける第4回の国際精神分析大会で以前からの不和が決定的となり決裂してしまい、翌1914年にユングは国際精神分析学会を脱退しました。1918年に第1次世界大戦は終結しましたが、フロイトは数年の間ウィーンの市民は困窮に苦しんでいました。薄いスープのみの食事に加えて、冬は暖房が使えないなど酷な生活にあえいでいたのを、E.ジョーンズがイギリスから患者を回し、彼のもとに集まった若い研究者たちの支援によって支えられていました。その後、身内の不幸が相次ぎましたが、最愛の孫のハイネルレが粟粒結核によって亡くなると、この時にだけしか知られていない涙を流し、友人たちには、自分の中の何かをこれを限りに殺してしまった、自分の人生を楽しむことができない、と語ったそうです。悲劇に苛まれるフロイトの慰めが、娘アンナが心理学の道に進んだ事とシュニッツラー、シュテファン・ツヴァイク、アルノルト・ツヴァイクら友人達との交流であした。そして1923年から作家ロマン・ロランとの文通が始まり、外国人に支えられるフロイトを見たウィーン市民は遅まきながら彼を認めるようになり、1924年に市議会で名誉市民に相当する市民権を与えることが決定された。1932年に入ると、ナチスによるユダヤ人迫害は激しくなる。翌1933年は事態は一段と危機的になったため、フロイトの友人達は国外に亡命していきました。出版していた本は禁書に指定されて焼き捨てられましたが、これに対して当人は、「なんという進歩でしょう。中世ならば、彼らは私を焼いたことでしょうに」と、微笑んでいたそうです。ユダヤ人である弟子たちも亡命し始め、弟子がヨーロッパにはアーネスト・ジョーンズ1人となり、ドイツでは精神分析が一掃され、ナチス支配下の精神療法学会の会員は『我が闘争』の研究を要求されたため、これに反発したクレッチマーが辞職しました。後任の会長はユングとなり、精神分析の用語(エディプス・コンプレックスなど)さえも規制されました。1936年、迫害と癌の進行が激しさを増すなかで、ジュール・ロマン、H・G・ウェルズ、ヴァージニア・ウルフら総勢191名の作家、芸術家からの署名を集めた挨拶状が80歳の誕生日にトーマス・マンによって送られ、9月には4人の子供たちから金婚式のお祝いを受けました。1938年、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツがオーストリアに侵攻し、フロイト宅にもゲシュタポが2度にわたって侵入して、娘アンナが拉致されました。夜には無事に帰ってきたものの、フロイトは拷問されて強制収容所に送られるのでは、と不安になり、1日中立て続けに葉巻を吸ってはうろうろと部屋を歩き回っていました。アシュケナジーを学会から追放した時、ユングは自身が会長を務める『国際心理療法医学会』の会員としてドイツ帝国内のアシュケナジー医師を受入れ身分を保証すること、学会の機関紙にアシュケナジーの論文を自由に掲載することの2点を決定し、フロイトに打診しました。だが、フロイトは「敵の恩義に与ることは出来ない」と言って援助を拒否し、この為アシュケナジーの医師たちは仕事を失い、強制収容所のガス室に送られることとなりました。ロンドンへの亡命を説得するためにジョーンズが危険を冒してウィーンに入るも、故郷を去ることは兵士が持ち場を逃げ出す事と同じだ、としてなかなか同意しませんでしたが、最後はジョーンズの熱意に動かされ、愛するウィーンを去る決心をしました。出国手続きで3ヶ月かかりましたが、その間にブロイアーの長男の妻の助けに応じて、アメリカ大使ブリットに働きかけて亡命を助けるなど、ここに彼の温かい人柄の一端を忍ばせています。それでも残して来ざるをえなかった4人の妹たちは数年後に収容所で焼き殺されてしまいました。6月4日にウィーンを発ち、パリを経由して6月6日にロンドンに到着すると熱狂的な歓迎を受け、亡命先でも毎日4人の患者の分析治療をし、ユダヤ人はなぜ迫害されるかを改めて問い直した『モーセと一神教』を発表しました。その他にも未完に終わった『精神分析概説』や『防衛過程における自我分裂』を執筆するなど、学問活動を続けました。この頃には癌の進行により、手術不能の状態となっていました。癌性潰瘍によって眼窩と頬が瘦せ細り、手術による傷口からは異臭が漂うほどの状態となりました。1939年9月21日、10年来の主治医を呼び、「シュール君、はじめて君に診てもらった時の話をおぼえているだろうね。いよいよもう駄目と決まった時には、君は手をかしてくれると約束してくれたね。いまではもう苦痛だけで、なんの光明もない」と言い、翌朝に過量のモルヒネが投与されて、23日夜にロンドンで83歳4か月の生涯を終えました。遺体は火葬された後、骨はマリー・ボナパルトから送られたギリシャの壺に収められ、現在グリーン・ガーデン墓地に妻マルタと共に眠っている。最後の日々を過ごした家は現在フロイト博物館になっています。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/1152-901c196e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。