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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

( "may the lord have mercy on your soul".「主はあなたの魂に慈悲をお与え下さるだろう。」という僧侶に答えて)

Why not? After all, it belongs to him.

もちろんそうだよ? 何と言っても、いつも彼と共にいたからね。

チャールズ・チャップリンの最期の言葉。チャールズ・スペンサー・"チャーリー"・チャップリン(Charles Spencer "Charlie" Chaplin、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリスの映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。左利き。映画の黎明期において、数々の傑作コメディ映画を作り上げ、「喜劇王」の異名をもつ。同年代に活躍したコメディアン、バスター・キートンやハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。チャップリンは、ハリウッドにおいて極めてマルチな才能を示した人物であり、徹底した完璧主義で知られていた。依然多くのファンを獲得する不世出の天才であるが、その作品には毒性もあり、ユーモアの陰に鋭い社会諷刺、下町に生きる庶民の哀愁や怒り、涙までも描かれているため、純粋に笑いのみを追求する他のコメディアンとは一線を画す存在であることは特筆すべきである 。各種メディアを通じ、現在においても彼の姿や作品に触れることは容易である。 今以て研究が続けられ、作品の修復プロジェクトは進行中である。関連書やオリジナルグッズも多く発売され、新発見と驚きでファンを魅了しつづける。1889年4月16日、イギリス・ロンドンのケニントン地区、ランベスのイースト・レーンで生まれた。父はチャールズ・チャップリン・シニア、母はハンナ・チャップリンで、ともにミュージック・ホールの俳優である。1歳のときに両親は離婚し、以降は母親のもとで育てられた。5歳のとき、オルダーショットの劇場での公演で、舞台に立っていた母親が喉の調子を悪くし、舞台出演中に喉をつぶしてしまう。そこで支配人は、チャップリンが舞台裏で様々な芸で母親の友人たちを笑わせているところを見たため、彼を急きょ舞台に立たせることにした。チャップリン はそこで歌を歌って大喝采を浴びた。これがチャーリーの初舞台となった。しかし、これによって母親は二度と舞台に立つことができず、チャップリンは貧窮生活に陥った。そして1896年頃に母親は精神に異常をきたし施設に収容された。どん底生活を余儀なくされたチャーリーは、4歳違いの異父兄シドニーといくつかの貧民院や孤児学校を渡り歩き、生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職を転々とし、時にはコソ泥まで働いた。その傍ら俳優斡旋所に通い、1899年に木靴ダンスの一座「エイト・ランカシア・ラッズ」に加わった。1901年、父親がアルコール依存症によって死去。1903年、『ロンドン子ジムの物語』のサム役、『シャーロック・ホームズ』のビリー役を演じ、 地方巡業にも参加。その後、様々な劇団を転々とし演技のスキルを積んでいった。1908年、兄の勧めで名門フレッド・カーノー劇団に入り、寸劇『フットボール試合』のけちんぼ役、『恐れ知らずのジミー』などで成功。一座の若手看板俳優となった。この頃15歳のコーラス・ガールヘティ・ケリーに恋をする。1909年、パリ巡業。1910年、寸劇『スケート』や『ワウワウ』に主演し好評を博す。 アメリカおよびカナダ各地を巡業。 ことにボックス席の酔っ払いが騒動を巻きおこす『マミング・バーズ(唖鳥)』は当たり役となり、以後『ロンドン・クラブの一夜』と題されて大成功をおさめた。1913年、カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業の際に、映画プロデューサーマック・セネットの目にとまり、週給150ドルの契約で、「キーストン・コップス」で有名なキーストン社(英語版)に入社する。翌1914年、『成功争ひ』で映画デビュー。セネットに“面白い格好をしろ”と要求され、チャップリンは楽屋にいって山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装で、2作目の『ヴェニスの子供自動車競走』に出演。以降『独裁者』(1940年)までこの扮装が彼のトレードマークとなった。キーストン社のトップスタ ーであるフォード・スターリングやメーベル・ノーマンド、ロスコー・アーバックルらと共演し、たちまち人気者となったチャップリンは、同年に『恋の二十分』で初めて監督・脚本を務めた。この年だけでチャップリンは35本の短編と、『醜女の深情』というマック・セネット監督の長編に出演している。1915年、シカゴのエッサネイ社(英語版)に週給1250ドルの契約で移籍。自身で監督・脚本・主演した作品を14本作り、チャップリン演じる浮浪者が繰り広げるドタバタコメディは人気を博した。エッサネイ社第2作の『アルコール夜通し転宅』でエドナ・パーヴァイアンスが起用され、以後8年間、公私ともに良きパートナーとして過ごす。1916年、週給1万ドルにボーナス15万ドル、年額67万ドル(アメリカ大統領の 年俸の7倍)という破格の契約金でミューチュアル社(英語版)に迎えられる。ここでは製作の自由を与えられ、よりよい環境とスタッフの下12本の傑作を世に送った。この年に兄シドニーが弟のマネージャーとなり、運転手として日本人の高野虎市が雇われた。チャップリンは、「ミューチュアルで働いていた頃が、一番幸福な時期だったかもしれない」と語っている。またこれらの作品はアメリカのみならず、イギリスやフランス、日本など世界各国に配給され、高い人気を得た。1918年、ハリウッドのラ・ブレア通りに自身の撮影スタジオを設け、ファースト・ナショナル社(英語版、後にワーナー・ブラザーズと合併)と、年間100万ドル超の契約を結び、名実ともに世界的ビッグスターとなる。一作ごとにかける 時間と労力を惜しまず、マイペースで作品を作れる環境を整え、多くの名作を生みだした。また同年には、第一次世界大戦にイギリスや日本などとともに参戦した、アメリカ政府の発行する戦時公債促進キャンペーンに尽力し、プロパガンダ映画『公債』を製作。16歳の新進女優ミルドレッド・ハリスと初めての結婚も果した。1919年、盟友のダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、監督のD・W・グリフィスとともに配給会社ユナイテッド・アーティスツ(現メトロ・ゴールドウィン・メイヤー傘下)を設立し、俳優がプロデューサーを介さず映画製作が出来る公益な場を提供する。1921年、全米で大ヒット中の映画『キッド』を携え、故郷ロンドンヘ凱旋帰国。たいへんな歓迎ぶりで、小説家H.G.ウェル ズや各界著名人と親交を結んだ。パリ、ベルリンと、戦後のヨーロッパの各都市を一巡したチャップリンは、戦禍の傷跡を人々の間に目の当たりにする。帰国後、口述で『My Trip Abroad』をしたためる。1923年、初の自身が出演しない監督作品『巴里の女性』をユナイテッド・アーティスツから発表。1925年、『黄金狂時代』が記録的大ヒット。1928年、『サーカス』を製作し、同年度の第1回アカデミー賞で特別賞を受賞する。同年、母親が死去。1931年、トーキー隆盛の中、サイレントの孤塁を守って3年がかりで撮った『街の灯』が興行的な成功をおさめ、人気のピークを迎えていたチャップリンは、一年半に及ぶ世界旅行へと出立。10年ぶりに訪れたロンドンではチャーチルや劇作家のバーナード・ショーと、ベルリンでは『街の灯』のプレミアに招聘したアインシュタインやマレーネ・ディートリッヒと再会を果たす。1932年、シンガポールにジャワ、バリ島を経て兄シドニーとともに日本へ。訪 日中、たまたま発生した国粋主義的な士官によるクーデター未遂事件である五・一五事件の巻添えになりかける。「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者たちの間でチャップリンの暗殺が画策されていた。1936年、機械文明と資本主義を批判した『モダン・タイムス』と、1940年にナチスを批判した『独裁者』を発表。このあたりから欧米や日本における鋭進的な左右両派からの突き上げが激しくなっていく。1941年にはアメリカが第二次世界大戦に参戦したことで、映画製作の停止を余儀なくされた。1945年に第二次世界大戦が終結し、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国との冷戦が始まったアメリカで、『モダン・タイムス』以降の一連の作風が「容共的である」とされ、非難の的とされた。特に1947年公開 の『殺人狂時代』以降はバッシングも最高潮に達し、1950年代に入り、ジョセフ・マッカーシー上院議員指揮の下、赤狩りを進める下院非米活動委員会から、他の「容共的である」とされた俳優や監督とともに何度も召喚命令を受ける。しかしそのような中で1948年に、フランス映画批評家協会は彼をノーベル平和賞に推薦した。1952年、ロンドンで『ライムライト』のプレミアのために向かう船の途中、アメリカのトルーマン政権の法務長官から事実上の国外追放命令を受ける。自身の意にはそぐわなかったが、スイス・ローザンヌのアメリカ領事館で再入国許可証を返還。自らに名声や富、成功をもたらす大きな原動力となったアメリカと決別する。アメリカの一般国民はこのチャップリンの追放劇に激しく抗議。決 定した国務長官のもとに国内だけで数万通に及ぶ抗議の手紙が殺到した。国務長官は特別に、「チャップリン氏がアメリカにとって危険な人物である証拠は存在するが、今は明らかにできない」と苦し紛れの声明を出さざるを得なくなった。さらに1954年には左派団体の世界平和評議会が「平和国際賞」を贈るなど、この追放劇はチャップリンの名声を利用しようとした世界各国の右派、左派両方から政治的に利用される結果となった。アメリカを去ったチャップリンは、映画への出演もめっきり少なくなるが、スイスのブドウ畑を臨む広大な邸宅「マノワール・ド・バン」に移り住み、妻ウーナや8人の子供たちと幸せな晩年を送る。世界的な名士として尊敬され、クララ・ハスキルやパブロ・カザルス、ジャン・コ クトー、山口淑子らと交友関係を持った。1965年にエラスムス賞を受賞。その頃に公刊された『私の自叙伝』は空前のベストセラーとなった。1969年、3女ヴィクトリアのために新作を構想。「ザ・フリーク」(The Freak)の台本にとりかかる。また旧作を再公開するため、バックグラウンドミュージックの作曲を続けた。1971年、フランス政府によりレジオンドヌール勲章、パリ市議会からは名誉市民の称号を与えられる。1972年、アカデミー賞名誉賞に選ばれ、授賞式に出席するため、20年ぶりにアメリカの地を踏む(後述)。この授賞はチャップリンの国外退去を阻止できなかったハリウッドからの謝罪を意味した。舞台に登壇したチャップリンに対し、会場にいる全ての者がスタンディングオベーションで迎えた。1975年、それまでの活動を評価されエリザベス2世よりナイトに叙され「サー・チャールズ」となった。しかし、左寄りとされた思想や女性問題で叙勲がかなり遅れたことが分かっている。1976年の秋、地元スイスの「 クニー・サーカス」(Circus Knie)の公演に車イス姿で目撃される。これはチャップリンがスイスに居住して以来、毎年欠かさない鑑賞行事であった。1977年のクリスマスの朝、スイス・ヴェヴェイの街を見渡せる村コルズィエ=スュール=ヴェヴェイの自宅で永眠。88歳だった。生前は隣村に移住していたイギリスの俳優ジェームズ・メイソン(1984年没)と親交を深めていた。両者は死後、村のこじんまりとした墓地に3メートルほどの距離で埋葬された。死後、金銭目的で墓から柩が持ち出される事件があったが、柩は墓地から17キロメートル離れたレマン湖畔のトウモロコシ畑で発見された。後日、主犯のポーランド人ロマン・ワルダス(Roman Wardas)と、ブルガリア人ガンチョ・ガネフ(Gantscho Ganev)の2人が逮捕された。ヴェヴェイのレマン湖畔にはチャップリンの銅像が建立され、世界各国から多くのファンが訪れる観光スポットの一つとなっている。なお、ロンドンのレスター・スクウェアにも同型のチャップリン立像がある。

「喜劇王」ことチャップリンは映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー、作曲家を一人でこなした、スーパーマルチタレントでした。彼の醸し出した笑いには毒が含まれているものが多く、ヒトラーとナチズムに対して非常に大胆に非難と風刺をした『独裁者』など、社会的・政治的な作品も多いのが特徴です。ちなみに、チャップリンは、アドルフ・ヒトラーに強い反感を持っていたことから、一般的にユダヤ人だと思われていますが違います。主人公が処刑に向かう前のセリフ"One murder makes a villain; millions a hero. Numbers sanctify"(「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が(殺人を)神聖化する」。元は英国国教会牧師で奴隷廃止論者、ベイルビー・ポーテューズの言葉)で有名な、『殺人狂時代』で、彼は珍しく喜劇色が少なく、シリアスな展開の戦争批判を行い、そのために赤狩りによるチャップリン排斥の動きがますます加速し、1952年のアメリカから追放されるという悲惨な目にもあいました。チャップリンの最もよく知られている役柄は「小さな放浪者=The Little Tramp」でしょう。窮屈な上着に、だぶだぶのズボンと大きすぎる靴(ドタ靴)、山高帽に竹のステッキといったいでたちのちょび髭の人物で、アヒルのように足を大きく広げてガニ股で歩く特徴を持つ人です。チャップリンはこの姿を演じることで、ホームレスだが紳士としての威厳をもち、優雅な物腰とその持ち前の反骨精神でブルジョワを茶化し、権力を振りかざすものを笑い飛ばしました。赤狩りの被害を受けたことからも分かるように、彼の作風はプロレタリアートの立場から、資本主義社会に対する不平等への“怒り”を表現するに至りました。1929年には、アメリカの大半がトーキー(サウンド)映画に移行する中で、「パントマイム芸こそが世界共通語」だと疑わなかったチャップリンも、1940年公開の 『独裁者』で初めて、完全なトーキーに踏みきりました。私生活ではチャップリンの華やかな女性遍歴を指摘する声も多々ありますが、映画史家デイヴィッド・ロビンソンによると、チャップリンは女性との関係において、「ハリウッドの標準としては慎ましやかなものだった」そうです。チャップリンは非常に日本好きでもあり、運転手(後に秘書)として採用した高野虎市の仕事ぶりを高く評価していたため、一時家の使用人がすべて日本人で占められていたほどでした。1932年(昭和7年)5月14日に初来日。東京駅には推定4万人の群衆が押し寄せました。その翌日、首相官邸で歓迎会に出席する予定でしたが、五・一五事件に遭遇し相当なショックを受けました。5月19日に五・一五事件で殺害された犬養首相の葬 儀が総理官邸の大ホールでとり行われたのですが、その際にチャップリンは「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」との弔電を寄せています。チャップリンはその後も、4回日本を訪れています。手塚治虫は、生前「どうすれば、人々の記憶に残る漫画が描けるのですか?」という質問に対して「とにかくチャップリンの映画を観ろ。あれにすべての答えがある」と決まって答えている。また「私の漫画の手法はチャップリンなしに考えられない」と語っていました。

チャールズチャップリン独裁者
https://www.youtube.com/watch?v=0bOLrMGKkfk
Charlie Chaplin - The Great Dictator
https://www.youtube.com/watch?v=BR7VpE2gpdM
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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