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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

I'm bored with it all.

何もかも嫌になったよ。

ウィンストン・チャーチルの最期の言葉。サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(英語: Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA、1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリスの政治家、作家、軍人。1900年に政界入りした。はじめ保守党の政治家だったが、1904年に自由党へ移籍し、自由党政権で閣僚職を歴任した。第一次世界大戦時には海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導した。1925年に保守党へ復党し、大蔵大臣を務める。1930年代の停滞期を経て、第二次世界大戦の開戦とともに海軍大臣となる。1940年に首相となり、1945年に退任するまでイギリスの戦争を主導した。チャーチルの半ば独裁的な指導のもとにイギリスは戦争を戦い抜き、アメリカとソ連に並ぶ戦勝国の地位を得た。しかしイギリス軍は大戦中にドイツ軍や日本軍に惨敗して威信を傷つけられることが多く、植民地での反英闘争激化を招いた。その結果、イギリスは戦後に植民地のほぼ全てを失うこととなり、世界一の植民地大国の座を失って米ソの後塵を拝する国に転落した。1951年に再び首相を務め、米ソに次ぐ原爆保有を実現した。1955年4月にアンソニー・イーデンに首相職を譲って政界の第一線から退いた。ノンフィクション作家としても活躍し、1953年にはノーベル文学賞を受賞している。1874年に第7代マールバラ公爵の三男で政治家のランドルフ・チャーチルの長男としてオックスフォードシャーのウッドストックにあるブレナム宮殿で生まれる。母はアメリカ人のジャネット夫人。祖父がアイルランド総督に任じられ、また父のランドルフがその秘書となった関係でアイルランドで幼少期を過ごす。1888年にパブリックスクールのハーロー校に入学するも、成績が悪かったため、大学に進学せず、1893年6月にサンドハースト王立陸軍士官学校に入学した。父の死後の1895年4月に第4女王所有軽騎兵連隊の騎兵将校となった。1895年11月にはスペイン軍に従軍して蘭領キューバの反乱軍と戦い、初めての実戦経験を得る。1896年より連隊とともに英領インドに派遣され、セカンダラバードでインド人召使に囲まれた生活を送る。1897年にはインド西北部のパシュトゥーン人の反乱の鎮圧戦に参加した。この時の戦争体験を初めての著作『マラカンド野戦軍物語』に記した。1898年のスーダン侵攻にも第21槍騎兵連隊に所属して従軍し、オムダーマンの戦いに参加した。戦後この戦いについての『河畔の戦争』を著した。1899年に一度除隊し、オールダム選挙区の庶民院議員補欠選挙に保守党候補として出馬するも落選した。1900年の第二次ボーア戦争には従軍記者として従軍したが、ボーア人の捕虜となる。しかし同年のうちに捕虜収容所から脱走し、これが話題となって知名度を上げる。その後再び騎兵将校として再入隊し、ボーア戦争の第1段階の終わりであるトランスヴァール共和国首都プレトリアの占領まで戦った。この後のゲリラ戦と化した第2段階には従軍せず、帰国。ボーア戦争に関する『ロンドンからレディスミスへ』と『ハミルトン将軍の行進』の2作を著した。ボーア戦争中のカーキ選挙である1900年の解散総選挙にオールダム選挙区から保守党候補として出馬し、初当選を果たす。しかし植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンが大英帝国外に対する保護貿易論である帝国特恵関税制度の導入を主張するようになると、自由貿易主義者としてそれに反発し、自由貿易護持の立場を明確にしようとしないアーサー・バルフォア首相や保守党を見限り、1904年5月には自由党へ移籍した。関税問題に揺れるバルフォア保守党政権は1905年12月に総辞職し、ヘンリー・キャンベル=バナマンを首相とする自由党政権が発足すると、植民地省政務次官として政府に参加。植民地省政務次官としてイギリスに併合されたボーア人に対する融和政策や中国人奴隷問題の処理など英領南アフリカにまつわる問題に取り組み、また英領東アフリカの視察旅行を行った。1908年、33歳のときにはハーバート・ヘンリー・アスキス内閣の通商大臣に就任した。デビッド・ロイド・ジョージとともに急進派閣僚として社会改良政策に尽力した。1909年には職業紹介所設置法制定を主導し、また社会保障費を乏しくするとして自由帝国主義派閣僚たちの主張する海軍増強案に反対した。1908年、11歳年下のクレメンタイン(1885年 - 1977年)と結婚した。1910年2月に内務大臣に就任。1911年には国民保険法第2部の失業保険制度の構築を担当した。一方でトニパンディの暴動をはじめとするストライキ運動の鎮圧を指揮したことで社会主義への敵意を強めるようになり、社会改良政策に取り組んだ急進派政治家としての面もこの頃から無くなっていく。ドイツとの建艦競争が激化する中の1911年10月に海軍大臣に就任。ドイツとの戦争準備を進めた。1914年8月に第一次世界大戦が開戦すると陸軍を大陸へ輸送させつつ、海軍からも航空部隊や水兵を上陸させ、ベルギーのアントワープの防衛に当たろうとしたが、失敗。同年12月のフォークランド沖海戦に勝利したものの、1915年3月より開始させたガリポリ上陸作戦には惨敗を喫した。第一海軍卿ジョン・アーバスノット・フィッシャーがチャーチルに抗議して辞職するとチャーチル批判が強まり、1915年5月に自由党と保守党の大連立政権として再発足したアスキス挙国一致内閣では、海軍大臣を外され、ランカスター公領担当大臣に左遷された。さらにガリポリ作戦の中止が決定された後の同年11月には閣僚職を辞した。1916年12月にアスキスが失脚してロイド・ジョージが首相となると転機が訪れ、1917年7月に軍需大臣として再入閣を果たした。戦車の増産に努め、イギリスの勝利に貢献した。戦後の1919年1月には戦争大臣兼航空大臣に転任。動員解除を指揮しつつ、ロシア革命を阻止すべく反ソ干渉戦争を主導した。ロシアの共産化は防げなかったが、赤化ロシア軍のポーランド侵攻は撃退できた。だが、干渉戦争を快く思わないロイド・ジョージにより1921年1月に植民地大臣に転任させられた。イギリスの委任統治領となったイラクやパレスチナのアラブ人を懐柔すべく、カイロ会議を主宰し、ハーシム家の者たちをイラク王やヨルダン王に据える一方、国際連盟の委任状に基づき、裕福なユダヤ人のパレスチナ移民を推し進めた。1922年10月の保守党の政権離脱に伴うロイド・ジョージ内閣の総辞職につき、閣僚職を辞した。さらに同年11月の総選挙で落選。この頃に一次大戦に関する『世界の危機』を著した。1923年11月の総選挙で保守党・労働党・自由党のいずれも単独で政権が取れない状況になると自由党は労働党に接近し、ラムゼイ・マクドナルド内閣の成立に協力した。チャーチルは反社会主義の立場からこれに反発し、自由党を離党。1924年10月の総選挙には保守党候補として出馬し、反共演説で人気を博し、当選を果たした。同選挙の保守党の圧勝でスタンリー・ボールドウィン内閣が成立すると大蔵大臣として入閣した。新興国アメリカや日本の勃興でイギリス貿易が弱体化し、また戦争の影響で海外投資が減少し、貿易外収支も大幅に減る中、イギリス金融を再び世界をリードする地位に戻そうと戦前レートでの金本位制復帰を行った。だがこれはポンドの過大評価であったため、石炭産業をはじめとするイギリス輸出業に更なる打撃を与える結果となり、炭鉱労働者を中心としたゼネストを招いた。1929年の総選挙の保守党の敗北でボールドウィン内閣は総辞職し、マクドナルドの労働党政権となった。その後の世界大恐慌の中で保守党はマクドナルドと挙国一致内閣を組むも、チャーチルは閣僚職から遠ざけられた。1930年には『我が前半生』、1931年には『マールバラ公 その生涯と時代』を出版した。1930年から1935年頃にかけてインド総督アーウィン卿やマクドナルド挙国一致政権が推し進めようとしたインド自治に強く反対し、保守党執行部との対立を深めた。1935年にマクドナルドが退任し、保守党首班政権となるもチャーチルは干され続けた。この間、ナチ党党首で1933年にドイツ首相に就任したヒトラーによる軍拡・領土拡張方針に対する融和政策に反対し続けた。1939年9月にネヴィル・チェンバレンが融和政策を破棄してドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が勃発。これを機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰した。1940年4月の北欧戦を主導したが、惨敗。しかしこの惨敗の責任はチェンバレンに帰せられ、1940年5月にその後任として首相職に就いた。同時期に西方電撃戦を開始したドイツ軍に惨敗し、6月にフランスは陥落した。1940年8月から9月にかけてイギリス本土の制空権を狙うドイツ空軍の攻撃を受けるも、撃退することに成功した(バトル・オブ・ブリテン)。1940年11月にフランクリン・ルーズベルトがアメリカ大統領に三選したことでアメリカの反独姿勢が強まり、1941年3月には武器貸与法が制定され、アメリカのイギリス支援が本格化した。チャーチルはドイツの同盟国イタリアによるギリシャ侵攻、イギリス半植民地エジプトへの侵攻の撃退に力を注ぐも、精強なドイツ軍の介入で苦戦を強いられ、ギリシャではドイツ軍に惨敗(ギリシャ・イタリア戦争)、北アフリカ戦線でもエルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ軍に追い込まれていった。しかし1941年6月からヒトラーがバルバロッサ作戦を発動して独ソ戦を開始したことで、スターリンが独裁するソビエト連邦と同盟関係になった。1941年8月にはソ連とともにイランへ侵攻し、同国の石油資源を確保するとともにソ連支援ルートを作った。1941年8月にカナダのニューファンドランド島沖に停泊する戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上でルーズベルトと会談を行い、「民族自決権」を盛り込んだ「大西洋憲章」と呼ばれる合意を行うも、チャーチルはナチス支配下のヨーロッパ諸国限定と解釈し、アジアやアフリカへの適用は拒否した。またドイツの同盟国日本に強硬な要求を突き付けることもこの会談で確認され、1941年12月にアメリカの強硬要求を拒否した日本がアメリカの真珠湾を攻撃したことでアメリカとも同盟関係となった。1942年3月には日本軍がシンガポールを陥落させ、また7月にはドイツ軍がトブルクを陥落させるなど、イギリスの威信が傷付く事態が連発。これによりインド人やエジプト人の間に独立の希望が広がり、反英闘争が激化、大英帝国のアジア・アフリカ支配体制は根幹から揺るがされた。しかし1943年からは敵国への空襲を強化して相手の足腰を弱め、北アフリカからドイツ軍を駆逐し、イタリア上陸を開始するなど攻勢に転じた。イタリア戦線はドイツ軍の勇戦で膠着状態となったが、1943年11月のテヘラン会談でチャーチル、ルーズベルト、スターリンの「三巨頭」は英米軍のフランスへの上陸作戦、それに乗じたソ連の攻勢を約し、これに基づき1944年6月にノルマンディー上陸作戦が決行され、膠着状態は崩れた。1944年11月には三巨頭でヤルタ会談を行い、ドイツの分割占領、ポーランドのソ連支配が約束されるとともに、ソ連の対日参戦の密約が結ばれた。1945年5月にドイツが無条件降伏すると、労働党が挙国一致内閣を解消。7月に解散総選挙を行うも、保守党は惨敗し、政権を失った。チャーチルは野党党首に落ちたものの、以降も自らの知名度を生かして独自の反共外交を行い、ヨーロッパ合衆国構想などを推し進めた。1946年3月にはアメリカのフルトンで「鉄のカーテン」演説を行う。また労働党政権がインドをはじめとする植民地を次々と手放していくことを帝国主義者の立場から批判した。また二次大戦の回顧録『第二次世界大戦』全6巻を1948年から1巻ずつ出版して話題となり、1953年にはノーベル文学賞を受賞している。1951年10月の総選挙での保守党の勝利で政権を奪還。1953年のスターリンの死で米ソが雪解け時代に向かう中、チャーチルも共産主義国に対する融和的態度を取るようになった。一方で核武装、東南アジア条約機構(SEATO)参加など反共政策も粛々と進める。また植民地独立を阻止することに力を注いだが、時代の趨勢には抗えず、ほぼ失敗に終わった。老衰が原因で1955年4月にアンソニー・イーデンに首相職を譲って引退した。『英語圏の人々の歴史』を出版した後、1965年にこの世を去った。

ウィンストン・チャーチルはイギリスの首相として、ディズレーリやサッチャーと並び称される人です。彼の政治や外交にはかなりあくどい部分もあり、言ってしまえば彼は戦争屋でした。しかし、ヒトラーの野望を挫き、英国没落の歴史を栄光の歴史に塗り替えた、その手腕は評価されてしかるべきでしょう。チャーチルは元々は軍人であり、政治家となってからも海軍大臣や軍需大臣など軍事と関わる養殖に就き戦争を主導しましたが、残念ながら軍事において天才的な才能を発揮することはできませんでした。彼の戦績は当時すでにイギリスが往年の力を失っていたこともあって、第一次世界大戦、第二次世界大戦共にかなり負けが込んでいました。その全てを書き尽くすことは出来ませんが、いくつか紹介しておきましょう。第一次世界大戦中、連合軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブル占領を目指したガリポリの戦いでは、オスマン帝国軍を軽んじて短期決戦を想定して挑み、後にトルコの初代大統領となるケマル・アタテュルク率いるオスマン側の予想外の頑強な抵抗にあって多大な損害を出して撤退させられました。この作戦の立案者であったチャーチルは失脚し、以後海軍大臣に復帰するまで汚名を背負い雌伏を余儀無くされました。ヒトラーによる軍拡・領土拡張方針に対する融和政策に反対し続けるも無視され続けましたが、チェンバレンの融和政策は結局破綻し第二次世界大戦が勃発したため、彼の方が正しかったことが証明されました。第二次世界大戦が始まったため、チャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰し、1940年4月の北欧戦(ドイツのノルウェーとデンマークへの侵攻作戦への対抗作戦)を主導したが、惨敗。首相職に就任した同時期に西方電撃戦を開始したドイツ軍に惨敗しました。かねてから、チャーチルはフランス軍が弱小であると指摘し、要塞マジノ線の建設に軍事費の多くを費やす方針を批判してきたのですが、フランスは軍備拡張がドイツを刺激するのを恐れ、チャーチルの苦言に耳を貸さず、陣地防衛中心の戦略を立てていました。よってフランスが侵攻されたことをチャーチルの責任にすることはできないのですが、彼が首相就任早々から大変な重荷を背負わされていたことは確かでした。ドイツによるイギリス本土上陸作戦の前哨戦であるバトル・オブ・ブリテンにおいて、数において劣るイギリスは、軍民一体となって空軍を支援し、これを撃退するとドイツはイギリス上陸作戦を断念しました。これにて何とかイギリス軍は体勢を立て直すことが出来ましたが、精強を誇るドイツ軍の前に外地では惨敗を続け、ギリシャではドイツ軍に惨敗(ギリシャ・イタリア戦争)、北アフリカ戦線でもエルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ軍にすんでの所まで追い込まれました。1941年6月からヒトラーがバルバロッサ作戦を発動して独ソ戦を開始し、自滅しなければアフリカ戦線は負けていた可能性が高かったと言えます。日本が参戦してからも、1942年3月に日本軍がシンガポールを陥落させ、また7月にはドイツ軍がトブルクを陥落させるなど、イギリスの威信が傷付く事態が連発しました。これらの敗北は後に植民地での反英闘争の激化を招き、大英帝国は瓦解していくこととなりました。1943年11月のテヘラン会談でチャーチル、ルーズベルト、スターリンの「三巨頭」は英米軍のフランスへの上陸作戦、それに乗じたソ連の攻勢を約し、これに基づき1944年6月にノルマンディー上陸作戦が決行され、膠着状態は崩れ戦局は一気に連合国側へと移りました。1944年11月には三巨頭でヤルタ会談を行い、ドイツの分割占領、ポーランドのソ連支配が約束されるとともに、ソ連の対日参戦の密約が結ばれました。これほどの国難を乗り切ったチャーチルでしたが、1945年5月にドイツが無条件降伏すると、労働党が挙国一致内閣を解消し、7月に解散総選挙を行うも、保守党が惨敗したため、彼は政権を失いました。チャーチルは二次大戦の回顧録『第二次世界大戦』を書いて1953年にはノーベル文学賞を受賞したことからも分かるように、非常に頭の良い人でしたが、その政治的には黒い部分が付いて回りました。彼の学生時代は意外なことに完全な落ちこぼれで、成績は全教科で最下位、体力もなく、遊びも得意なわけではなく、クラスメイトからも嫌われていた上に、校長からもよく鞭打ちに処されていました。後年、チャーチルはの学校については良い思い出がなく、悲惨な生活をさせられたと回顧しています。チャーチルの最期の言葉の憂鬱な響きは、これらの苦難と無縁ではないでしょう。晩年のチャーチルはひどく老衰し、1965年1月8日になると脳卒中を起こし、左半身がマヒした。持ち直すことはなく、1月24日午前8時頃、家族に見守られながら永眠しました。エリザベス2世女王の叡慮により、チャーチルの遺体を入れた棺は3日間ウェストミンスター・ホールに安置された、30万人もの人々が参拝に訪れました。イギリスには君主は臣民の葬儀に出席しないという慣例を破って、セント・ポール大聖堂での葬儀にはエリザベス2世女王も出席しています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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