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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

französisch: Ètiez-vous à Sedan?

私たちはセダンで卑怯者ではなかっただろう?

ナポレオン3世の最期の言葉。ナポレオン3世(Napoléon III, 1808年4月20日 - 1873年1月9日)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年 - 1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 - 1870年)。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)であり、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る以前については一般にルイ・ナポレオンと呼ばれている。本項でもそのように記述するものとする。1808年にフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟ルイ・ボナパルトの息子として生まれるが、1815年にナポレオンが反フランス連合軍に敗退すると、新たにフランスの統治権を握ったブルボン家の復古王政によって国を追われ、亡命生活を余儀なくされた。1830年に復古王政が倒れてルイ・フィリップの7月王政が樹立されるも、帰国は認められなかった。ボナパルト家の帝政復古を夢見て国外から策動し、1836年にストラスブール、1840年にブローニュで武装蜂起するも散々な失敗に終わり、終身刑に処されてアム要塞に投獄された。5年半に及ぶ獄中生活を利用して政治研究に明け暮れ、1844年に著した『貧困の根絶』の中で労働者階級の保護を主張し、貧困層に新たなボナパルティズムをアピールした。1846年にアム要塞を脱獄する。1848年革命で7月王政が倒されて第二共和政が樹立されると、フランスへ帰国して大統領選挙に出馬し、王党派の消極的な支持や「ナポレオン」の名の高い知名度によって当選を果たした。しかし第二共和政の大統領の権力は弱く、はじめ共和派、のち王党派が牛耳るようになった国民議会によって主導権を奪われ続けた。1851年に国民議会に対するクーデタを起こし、大統領権限を大幅に強化した新憲法を制定して独裁体制を樹立する。1852年には国民投票のうえで皇帝即位を宣言し、第二帝政を樹立、「ナポレオン3世」と名乗るようになった。その治世の前期は「権威帝政」と呼ばれる強圧的な統治だったが、1860年代には「自由帝政」と呼ばれる自由主義的な統治に転換した。内政ではサン=シモン主義を背景に金融改革を起こして産業融資を行う近代的金融業の確立に努め、鉄道建設に投資を振り向けさせた。またパリ改造によって現代のパリの基礎を築いた。一方外交面ではクリミア戦争でイギリスと同盟してロシア帝国に対して勝利したことでヨーロッパ国際政治の中心・バランサー的存在となった。イタリア統一戦争ではサルデーニャ王国とともにオーストリア帝国と戦うも、サルデーニャに独断で早々にオーストリアと休戦協定を結び、以降教皇領の保護にあたるなどイタリア統一にブレーキをかけるようになった。非ヨーロッパ諸国に対しては帝国主義政策をもってのぞみ、アフリカやアジアの諸国を次々とフランス植民地に組み込んでいった。その治世下にフランス植民地帝国は領土を3倍に拡張させた。ナポレオン3世の権力はこうした外交的成功によって支えられている面が多かったが、メキシコ出兵の失敗で国内的な地位を弱めた。さらに小ドイツ主義統一を推し進めるプロイセン王国と対立を深め、スペイン王位継承問題を利用したプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクの策動により、1870年にプロイセンに対する宣戦布告に追い込まれ、何の準備も出来ていない状態で普仏戦争へ突入する羽目になった。フランスは緒戦から連敗し、セダンの戦いにおいてはナポレオン3世自身がプロイセン軍の捕虜になった。これにより求心力を決定的に落とし、パリではクーデタが発生して第二帝政は打倒され、フランスは第三共和政へ移行した。プロイセン軍から釈放された後、ナポレオン3世はイギリスへ亡命した。復位を諦めず、クーデタを起こすことを計画していたが、実行に移す前に1873年に同国で死去した。皇后はスペイン貴族のウジェニー。彼女との間に唯一の子である皇太子ルイ(ナポレオン4世)を儲けた。この息子は1879年に南アフリカのズールー戦争に従軍し、戦死した。ルイに子はなかったため、フランス皇位請求者の地位はナポレオン3世の従弟ナポレオン公の子孫に移り、現在に至っている。

ナポレオン3世は一般的には無能とされている人ですが、軍事はともかく政治的には中々優秀な人でした。特に非ヨーロッパ諸国に対しては非常に厳しい政策を取り、アフリカやアジアの諸国などをフランスの植民地にしました。彼はナポレオンがワーテルローの戦いに敗れると、国を追われ亡命生活を送ることを余儀なくされました。亡命生活中は、朝6時から夜9時まで続く猛勉強の生活を送るようになったかと思えば、旅行に出たり社交界で女性と親しくしたりと、ムラのある生活をしていました。ギムナジウムにも通いましたが、成績は並み程度でした。フランスで7月革命が発生し、ブルボン家の復古王政が打倒されると、ナポレオン2世による帝政復古のチャンスと見て色めき立ちましたが、肝心のナポレオン2世がオーストリア宮廷に事実上幽閉されている身だった上、病を患っていたため、ボナパルト家復興の先頭に立つことができず、オルレアン家のルイ・フィリップ公爵をフランス王に即位しました。しかもルイ・フィリップ王は9月にボナパルト一族の追放を法律で確定させ、これにはナポレオン3世も落胆したそうです。その後、イタリア統一運動に参加して挫折、1832年にスイス国籍を取得し、いつの日かルイ・フィリップから王位を奪ったり、あるいはルイ・フィリップが自分を必要とするようになる光景を妄想しながら、1832年5月には『政治的夢想』(Les Rêveries politiques)を書くなど文筆活動に勤しんでいました。1836年10月30日にストラスブール一揆を起こし失敗、ルイ・フィリップ王は一揆の惨めな失敗と世論の嘲笑を聞いて安堵し、寛大な処置を取り、ナポレオン3世は裁判にかけられることなく、アメリカ合衆国に国外追放されるだけで済まされました。アメリカでは社交界から歓迎されたものの、放蕩生活を送ったため、まもなくホテル代にも困って娼婦の所に身を寄せるはめになり、母親が亡くなり莫大な財産を相続してロンドンの豪邸へ移住しても、女遊びの放蕩生活が止められず、3年ほどで母の財産を全て使い果たしてしまいました。しかし、当時のフランスではナポレオンは実像よりもかなり左翼的に美化され、人気が復活し始めていました。この親ナポレオン・ムードを好機としてナポレオン3世はド・ペルシニーとともに再度の武装蜂起計画を企て、1840年8月4日にルイ・ナポレオンはシャルル=トリスタン・ド・モントロン将軍以下54名の部下を率いて、ブローニュ一揆を起こしましたが、前回の一揆同様に応じる将兵はおらず失敗しました。ナポレオン3世以下一揆勢は全員憲兵隊によって逮捕され、ナポレオン3世は終身刑となりました。1840年10月7日、パリ北方のソンム県アムにあるアム要塞に投獄され、ナポレオン3世は読書と政治研究に明け暮れる生活を送りました。父ルイ・ボナパルトの死期が迫っていることを知ると、ルイ・フィリップ王に仮出獄を求めましたが、認められなかったので、脱走の大義名分を得たと考えたナポレオン3世はかねてから計画していた脱走計画を実行しました。この脱走は成功し、父の莫大な財産を一人で相続しましたが、同志たちへの資金援助や女との交際費で激しく浪費し、あっという間に使い果たしてしまいました。1848年2月にフランス・パリで2月革命(1848年革命)が発生し、18年続いたルイ・フィリップの7月王政が打倒されると、穏健な共和主義者らが中心となって臨時政府が樹立さました。。第二共和政が失業者に仕事を与えるために創設した国立作業場の閉鎖後に起きた六月蜂起が容赦なく弾圧されると、労働者は共和国を支配するブルジョワに強い憎しみを持つようになり、そのためいよいよ右翼を頼りにするようになったブルジョワにより、議会は保守化しました。議会は12月の大統領選挙までの一時的政権として6月24日にカヴェニャック将軍に全権を委任、一種の軍事独裁政権を樹立したため、労働者から2月革命への幻想が消え、ルイ・ナポレオンが割って入る隙が生まれました。ナポレオン3世は代議士となり、議会は彼の追放を定めた法律を正式に破棄しました。1848年12月10日の大統領選挙に出馬すると、右翼の秩序党が「御しやすそうな神輿」としてナポレオン3世を支持し、オルレアン派の重鎮ティエールも「最小の悪」としてナポレオン3世を支持しました。彼はユダヤ金融業者アシーユ・フールやミス・ハワードらの資金援助を受け、あらゆる党派に対して八方美人的に支持を訴えました。選挙の結果、ルイ・ナポレオンは553万票(得票率74.2%)を獲得して圧勝し、かくして二年前には脱獄囚だった男がいまやフランス大統領となりました。大統領になったナポレオン3世は共和派への圧力を強め、秩序党のイニシアチブのもと次々と保守的な法案が可決されていきました。議会を人民裁判所に告発するという脅迫を行いつつ、議会に対して自分の俸給を60万フランから300万フランに増額するよう求めました。カール・マルクスはこのやり口を著書『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中で手厳しく批判していますが、マルクスによれば「国民一人から選挙権を奪う金額を1フランとして合計300万フランを要求した」のだという。議会はこの要求を拒否しましたが、結局今回限りの一時給与として216万フランの支給を認めるという弱腰を見せました。1851年12月2日「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター」を決行し、12月20日と21日に行われたクーデタの信任投票では743万票の賛成、64万票の反対、170万票の棄権という圧倒的信任を受けました。クーデタに成功したルイ・ナポレオンは伯父ナポレオンが制定した共和暦8年憲法をモデルにした憲法草案を作らせ、これを1851年12月21日と22日に国民投票にかけて92%の賛成票を得たうえで、1852年1月14日に新憲法として公布しました。この憲法により大統領はほとんど絶対君主も同然の独裁権を得ました。当初は多少のためらいがありましたが、1852年11月に入るとルイ・ナポレオンは皇帝即位を最終的に決断し、国民投票は11月21日と22日に行われ、782万票の賛成、25万票の反対、200万票の棄権により国民から承認され、12月2日にルイ・ナポレオンはサン=クルー城を出てパリへ入り、正式に帝政宣言を行って「ナポレオン3世」と名乗りました。第二帝政期にフランス経済は急成長したのですが、その原因については、第二帝政期以前の産業革命の結果であり、第二帝政期はその歩みを継続させただけにすぎないとする説もあれば、ナポレオン3世のサン=シモン主義的な経済問題への取り組みのおかげとする説もあります。たしかにナポレオン3世はテクノクラート重用、関税大幅引き下げ、道路・鉄道の整備、スエズ運河建設、アジアへの積極的な植民地化政策などサン=シモン主義的な政策を遂行し、フランスの国力を充実させました。その他、パリ改造を行ってパリを近代的な都市に作り変えたり、ロシアに対してクリミア戦争を主導して勝利し、フランスの国際的な地位を高めたりもしました。さらに、ナポレオン3世は植民地支配を強化して行き、アルジェリア、サハラ以南アフリカ、マダガスカル、アジア太平洋地域らを植民地としました。得意になったナポレオン3世はメキシコにも出兵しましたが、1863年6月にはフランス軍がメキシコシティを占領した辺りから反仏ゲリラ闘争が激化し、さらにはアメリカと事を構えるのは危険と判断しメキシコから撤兵しました。メキシコ出兵の失敗で第二帝政の権威は地に落ち、ナポレオン3世の治世に暗雲が立ち始めました。普墺戦争をめぐっては両国の対立を激化させてフランスが漁夫の利を得ることを考え、戦争の開始時に中立を宣言しましたが、ケーニヒグレーツの戦いでのプロイセンの勝利により、ナポレオン3世の予想に反してわずか3週間足らずで勝敗が決してしまいました。フランスは両国の仲裁を行いましたが、特に得るものもなくナポレオン3世の思惑は当てが外れてしまいました。ナポレオン3世がこの戦争において全体的に弱気・消極的であったのは、持病を悪化させていたためだとされています。その後、オランダ王ウィレム3世からルクセンブルクを購入しようとして、ドイツ人の逆鱗に触れウィレム3世は売却を中止しました。この問題により普仏関係は決定的に悪化し、スペイン王位継承問題において、ビスマルクがプロイセン国王ヴィルヘルム1世から受け取った電報に意図的な編集を行って世間に公表したため、全ドイツでドイツ・ナショナリズムと反仏感情が爆発し、一方でフランスでも反プロイセン感情が爆発したため、ナポレオン3世は戦争を望んでいなかったにも関わらず、普仏戦争へと引きずり込まれました。ほとんど戦争準備をしていなかったフランス軍は、アルジェリア兵も動員しても総兵力は35万人程度で、プロイセン軍を中心とするドイツ連合軍は50万の兵力を擁していました。さらに、フランス軍は弾薬が圧倒的に不足していた上に、プロイセン軍に比べて装備も貧弱でした。ロレーヌ地方フォルバックとアルザス地方ヴールトでプロイセン軍に敗北を喫し、プロイセン軍にモーゼル川を突破された後、ナポレオン3世はパリに退却することも考えましたが、結局セダン要塞に籠城することになり、同要塞は9月1日からプロイセン軍の激しい砲撃に晒されました。ナポレオン3世は「私に兵士を殺す権利はない」として、セダン要塞に白旗を掲げさせ、プロイセン王ヴィルヘルム1世のもとへ使者を送って降伏する旨の手紙を届けさせました。ナポレオン3世はヴィルヘルムシェーヘ城に幽閉され、オルレアン派のアドルフ・ティエールがフランス政府首班となると、ティエール政府は3月1日にこのような屈辱的な休戦協定を締結する羽目になったのはすべて第二帝政のせいであるとし、ナポレオン3世の廃位を正式に宣言しました。ナポレオン3世はイギリス亡命しまし、クーデタの計画を立てたりと未だに野望を捨てていませんでしたが、健康の悪化には勝てず1873年1月9日の午前11時頃に死去しました。64歳でした。ナポレオン3世が後世に大きく名を落とした大きな理由に、マルクスとユーゴーに批判されたことが挙げられます。ナポレオン3世は政治的に優れた業績もあったのですが、この二人の大偉人に口を極めて批判されたのでは、ナポレオン3世に名誉の回復の余地はありませんでした。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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