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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Wir sind Bettler, das ist wahr.

我々は物乞いである。それが真実である。

マルティン・ルターの最期の言葉。マルティン・ルター(Martin Luther、1483年11月10日 - 1546年2月18日)は宗教改革の創始者。聖アウグスチノ修道会に属するドイツ人神学教授として、ルターは「人の姿となられた神の言葉としてのイエス・キリストにのみ従う」ことによって、信仰と思想において宗教改革という転換をもたらした。キリスト教会の分裂(シスマ)はルターの本来の意図ではなかったが、彼の影響下で福音主義教会(ルター派教会)とアウクスブルク信仰告白が形成された。宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、対抗改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えた。宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化、思想にも大きな足跡を残した。たとえばルターの手によるドイツ語聖書が、近代ドイツ語の成立において重要な役割を果たしたことや、自ら賛美歌をつくったことなどが挙げられる。カタリナ・フォン・ボラという元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における教職者、牧師の結婚という伝統をつくったことでも知られる。

マルティン・ルターは宗教改革の中心人物となり、プロテスタント教会の源流をつくった人として知られていますが、その業績の影響は計り知れないものがあります。ルターの影響は、宗教の枠を遥かに超え社会そのものを変えてしまいました。マックス・ヴェーバーはプロテスタントの世俗内禁欲が資本主義の「精神」に適合性を持っていたという、逆説的な論理を提出し、近代資本主義の成立を論じました。ルターは聖アウグスチノ修道会士でしたが、彼の思想に最初に大きな影響を与えたのは、ウィリアム・オッカムの思想でした。ルターはアリストテレスの手法を適用したトマス・アクィナス流のスコラ学的なアプローチを批判することになるのですが、オッカムはフランシスコ会士として、トミスト(トマス・アクィナスの継承者)の立場をとる学長、ジョン・ラットレルと対立し、最終的に異端として破門された人でした。もちろんルターの思想は唯名論ではありませんでしたが、神を理性で捉えることは困難であることには、早くから気づいていました。これは「信仰によってのみ人間は神学的真理に到達できる。神の道は理性に開かれていない」というオッカムの思想と合致しています(オッカムは信仰と理性が矛盾しないという考えを支持していましたが)。しかし、いくら勉強しても救いの確信を得られなかったルターは、あるとき突如光を受けたように新しい理解が与えられるという経験をしました。つまり、人間は善行(協働)でなく、信仰によってのみ (sola fide) 義とされること、すなわち人間を義(正しいものである)とするのは、すべて神の恵みであるという理解に達し、ようやく彼は心の平安を取り戻しました。ここでルターが得た神学的発想は、のちに「信仰義認」と呼ばれることになり、聖書のみ、万人祭司とともに、宗教改革の三大原理の一つとなりました。当時、盛んにドイツ国内で販売が行われていた贖宥状(一般的に「免罪符」として知られるもの)の問題は彼には見過ごすことができないものでしたが、一般に思われているように、教会がお金を取ったことについては何も言っていません。彼が問題にしたのは、贖宥状によって罪の償いが軽減されるという文句は「人間が善行によって義となる」という発想そのものであると思え、これは聖書の教えに反しているだけでなく教会が神の権威を簒奪しているようなものでした。1517年10月31日、ルターはマインツ大司教であったアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして、『95ヶ条の論題』を送りましたが、ドイツにおける贖宥状の大量販売にはドイツ諸侯の思惑もからんでいたため、ルターのテーゼがもたらした議論は単なる神学論争から一大政治論争へと発展し、「プロテスタント」と呼ばれる新しいキリスト教グループを生み出されるきっかけとなりました。1518年10月アウクスブルクでの審問において、教皇使節トマス・カイェタヌス枢機卿が免償の問題に対するルターの疑義の撤回を求めましたが、ルターは聖書に明白な根拠がない限りどんなことでも認められないと主張しました。逮捕を恐れたルターはアウクスブルクから逃亡し、自らの身の潔白を主張しするため、公会議の開催を求めました(ルターの求めた公会議は、やがて宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を明確にした、トリエント公会議において実現することになりました)。教皇庁では事態を穏便に解決するため、特使カール・フォン・ミルビッツを派遣してルターと会談させましたが、結局事態は解決できなかったので、今度は名うての論客であった神学者ヨハン・エックを使い、ルターの盟友ルドルフ・カールシュタットに論戦を挑ませました。この論争はやがてルター本人も参加しましたが、エックの巧みな弁術によりルターが公会議の権威をも否定してしてしまったことにより、学問レベルでルター問題を解決しようという試みは失敗に終わり、事態は政治闘争の様相を帯び始めました。カトリック教会との断絶が決定的となったこのころ、ルターの周囲には賛同者たちが集まり始めたていました。その中にはフィリップ・メランヒトンやマルティン・ブツァー、トマス・ミュンツァーなどの姿もありました。ルターが1520年にあいついで発表した文書は宗教改革の歴史の中で非常に重要な文書であり、ルターの方向性を確定することになりました。それは『ドイツ貴族に与える書』、『教会のバビロニア捕囚』、『キリスト者の自由』であり、『ドイツ貴族に与える書』では教会の聖職位階制度を否定し、『教会のバビロニア捕囚』では聖書に根拠のない秘跡や慣習を否定、『キリスト者の自由』では人間が制度や行いによってでなく信仰によってのみ義とされるという彼の持論が聖書を引用しながら主張されています。そして、レオ10世は最後の手段として、回勅『エクスルゲ・ドミネ』(主よ、立ってください)を発布して自説の41か条のテーゼを撤回しなければ破門すると警告しましたが、ルターはこれを拒絶して自説を曲げずに、カトリック教会の方を蹴り飛ばしてしまいました。1520年12月に回勅と教会文書をヴィッテンベルク市民の面前で焼き、これを受けて1521年の回勅『デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム』(ローマ教皇として)によってルターの破門が正式に通告されました。1521年4月、ルター支持の諸侯たちや民衆の声に押される形で、ルターのヴォルムス帝国議会への召喚が行われ、ルター問題からドイツが解体へ至ることを恐れた皇帝カール5世からも自説を撤回するかどうか尋ねられ、拒絶したため帝国追放を通告し、異端者としてルターの著作の所持を禁止しました。ルターはザクセン選帝侯フリードリヒ3世の元に逃げ込み、一年余りをかけて聖書をドイツ語に訳しました。この聖書は、後にドイツ語の発達に大きな影響を与えるほど広く読まれることになりました。ルター不在の間に、過激派が教会の破壊から始まって市内を無法状態に陥れていたので、1522年5月7日に見かねたルターが一年の沈黙を破ってヴィッテンベルクで人々の前に再び姿を現し、数回にわたる説教で過激派を糾弾、暴力を伴う改革を否定し、行き過ぎを警告しました。ここでルターは新しい典礼の祭式を定め、説教や著述活動を続けました。「聖書に書かれていないことは認めることができない」というルターの言葉は、重税を負わされて苦しい生活を送っていた農民に希望を与えることになりました。なざなら、そもそも農民が領主に仕えることも聖書に根拠を見出せないのであり、かつてルターの同志であったトマス・ミュンツァーはこういった人々のリーダーとして社会変革を唱えるようになっていました。ルターはルターの説を根拠に農民たちが暴力行為に走ると、ルターはミュンツァーと農民たちを批判し、二人は敵対関係へとなりました。ローマ教皇と結ぶ神聖ローマ皇帝の集権化に反発する諸侯はルター派に転じ始め、没落しつつあった騎士たちは教会領を没収して勢力を回復しようとする反乱を起こし(騎士戦争)、教会や諸侯の抑圧に苦しんでいた農民も各地で反乱に立ち上がりました(ドイツ農民戦争)。最終的にルターは反乱側にではなく、市民・貴族・諸侯の側について暴徒の鎮圧を求め、民衆には平和な抵抗を訴えるようになるのですが、結果としてドイツ農民戦争は、10万人の農民が殺されて敗北に終わり、農民は一層農奴的抑圧下に置かれることになりました。また、南ドイツの農民は、このとき諸侯軍側についたルター派から離れ、現在でも同地ではカトリックが主流となっています。ドイツ農民戦争時におけるルターの言動は結果として彼の評判を傷つけることになりました。ルターはこの苦い経験から、教会と信徒に対してやはり何らかのコントロールが必要であると考えるようになり、こうして領邦教会という新しい教会のあり方が生まれていきました。ルターはその後、各地のルター派諸侯の間を回りながら領邦教会の成立を進め、ルターの改革と国家教会というシステムはドイツを越えて北欧にまで波及していきました。1529年の帝国議会ではカトリック教会の破壊などの行き過ぎを反省し、ルター派支持諸侯たちの立場を認めながら、カトリック教会の立場も保全するという布告が行われました。(一方でアナバプテスト(再洗礼派)とツヴィングリ派は禁止された。)しかし、ザクセン選帝侯を初めとするルター派諸侯はこれに対し抗議を行ったため。このことからルター派諸侯と諸都市は「プロテスタント(抗議者)」と呼ばれるようになり、やがてルター派の総称となりました。彼は終生ヴィッテンベルク大学における聖書講義を続け、宗教史と思想史、さらには文化史に大きな足跡を残しました。ルターの最期は、1546年2月18日に生まれ故郷のアイスレーベンで亡くなりました。上記の最期の言葉は、彼が宗教的天才の絶頂にいたときに辿り着いた、神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとする、予定説の思想を見事に言い表しています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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