05 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 07

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

我很难受,叫医生来。

病気になった。医者を呼んでくれ。

毛沢東の最期の言葉。毛 沢東(もう たくとう、マオ・ツォートン、1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之。筆名は子任。初代中華人民共和国主席。中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中華人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。現代世界史において大きな業績を遺した人物とみなされており、タイム誌の「20世紀の重要人物」の1人に名を連ねている。毛は、思想家、戦略家として評価されており、詩人としても名高い。一方、毛の政策については現在でも議論の対象となっている。研究者は、毛の引き起こした大躍進政策と文化大革命のような、文化、社会、経済、外交に重大な損害をもたらした問題について非難するとともに、彼の政策による犠牲者を数千万と推定する。そして、マルクス主義・ソ連型社会主義を中国社会に導入しようとした毛の政策は、産業の面において、結局失敗に終わったと論じる。

毛沢東は中国最後の皇帝と言ってしまっても良いでしょう。良きも悪しきも彼の業績の全てを書き尽くすことは出来ませんが、その影響は現在においても中国だけでなく世界中に及んでいます。1918年夏、湖南省立第一師範学校を卒業し、翌1919年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となりました。1921年7月23日、毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会(党大会)に出席し、1923年6月、第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれました。1926年12月に長沙で開かれた労働者と農民の代表大会に出席するために湖南省に戻っていた毛沢東は、翌年1月から2月にかけて、湖南省における農民運動の報告書を作成した。これは「農民に依拠し、農村を革命根拠地とする」という毛の革命理論の構築の初期段階と考えられています。毛沢東は国共合作において重要な役割を果たしていましたが、1927年4月12日の上海クーデターで国共合作は崩壊し、毛沢東が「武力で政権を打ち立てる(槍杆子里面出政権)」方針を提案、国民党との武装闘争が党の方針として決議されました。湖南省で武装蜂起するも失敗(秋収起義)、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井崗山に立てこもりました。井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していきました。毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月、瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となのですが、国民党に対するゲリラ作戦をたてたため、積極策を進めようとするソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、1932年10月、毛は軍の指揮権を失い、さらには毛が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれました。国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日、ついに江西ソビエトを放棄して敗走、いわゆる「長征」を開始しました。現共産党政権は、長征を現代中国形成に至る歴史的転換点と捉え、この逃避行を英雄叙事詩に仕上げていますが、長征の過程で内部粛清もあり共産党軍が延安に着いた時は壊滅状態になっており、コミンテルンの資金援助で何とか食いつないでいる状態でした。また行く先々で、人民裁判による地主・資本階級の処刑と資産没収、そして小作人からの「革命税」徴収を行っており、言わば当時の共産党軍はほとんど山賊同然でした。その共産党が壊滅状態から復活し得たのは、コミンテルンの指示で国民党との協力に抗日統一戦線結成の呼掛けて方針を転換したのと、西安事件と盧溝橋事件の発生により、国民党蒋介石政府が剿共政策から抗日の為に国内統一政策に優先順位を切り替えざるを得ない状況に追い込まれた為です。西安で起きた張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件(西安事件)で、コミンテルンの仲介により宿敵である蒋介石と手を結び、第二次国共合作を構築され、翌年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」に、紅軍は「国民革命軍第八路軍(八路軍)」に改組されました。1937年7月7日に始まった日中戦争では抗日戦線を展開したと共産党は主張していますが、実際は日本軍と国民党軍の交戦を傍観し、戦力を温存していました。毛沢東は延安で、日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだそうです。毛沢東は裏で日本軍と手を結び、蒋介石と日本を戦わせて漁夫の利を得ていた上に、延安で八路軍が栽培していたアヘンの販売で日本軍と結託していました。遵義会議以降、党の実権を掌握していった毛沢東でしたが、1942年からの整風運動によって党内の反毛沢東派を粛清していき、党内の支配権を確実なものとしました。1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任しました。1945年8月14日、日本がポツダム宣言受諾を連合国側に通告し、8月15日に終戦を迎えると、蒋介石と毛沢東は重慶で会談し、国共和平・統一について「双十協定」がまとめられました。しかしこの協定では、実質的に両党の間の核心的な矛盾に対し何ら解決が行われておらず、分裂状態は変化はありませんでした。この政治協議が閉幕すると、短い平和は破られ、共産党による反乱(国共内戦)が勃発しました。国共内戦が起きると、毛沢東は、地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得していきました。国共内戦では「全面侵攻」を進める蒋介石に対して毛沢東はゲリラ戦を展開し、国民党の戦力を消耗させていきました。毛沢東率いる中国人民解放軍(1947年9月、八路軍から改称)はソビエト連邦からの軍事援助を受けていた一方で、国民党軍はアメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によって軍事支援を削減されており、だんだんと劣勢に立たされていきました。1948年9月から1949年1月にかけて展開された「三大戦役」において人民解放軍は勝利を重ね、国民党軍に大打撃を与えました。1949年1月、人民解放軍は北平(北京)に入城し、4月23日には国民政府の根拠地・首都南京を制圧しました。毛沢東は1949年3月の第7期2中全会において、新政治協商会議の開催と民主連合政府の樹立を各界によびかけ、9月21日から9月30日にかけて北京に全国の著名な有識者や諸党派の代表が集まり、中国人民政治協商会議が開催されました。の会議では新国家の臨時憲法となる「中国人民政治協商会議共同綱領」が採択され、新国家の国号を「中華人民共和国」とし、毛沢東が中央人民政府主席に就任することが決議されました。その後に勃発した朝鮮戦争では、ソビエト連邦とともに北朝鮮を支持して中国人民志願軍を派遣しましたが、この戦争で毛は長男の岸英を国連軍の一国であるアメリカ空軍の爆撃で失いました。このことは、後に毛沢東が文化大革命において中国の伝統的な家族制度を破壊しようとするなど、後の彼の人生や政策に大きな影響を与えました。1950年6月20日、毛沢東は「穏健で秩序ある」改革をめざす「中華人民共和国土地改革法」を公布し、この改革によって、各種の農業生産高は一気に増大しました。毛沢東はまた、1951年末から汚職・浪費・官僚主義に反対する「三反運動」を、1952年初から贈賄・脱税・国家資材の横領と手抜き・材料のごまかし・経済情報の窃盗に反対する「五反運動」を展開しましたた。「三反運動」は行政組織のスリム化と透明化をめざすものであったが、「五反運動」は事実上民族資本家や金融関係者が対象となり、商工業者に深刻な打撃を与えました。毛沢東は、1952年9月24日、突如として穏健な政策を取りやめ、社会主義への移行を表明し、1953年1月よりソ連型社会主義をモデルとした第一次五カ年計画をスタートさせ、農業の集団化などの社会主義化政策を推進しました。1954年9月、全国政治協商会議に代わる最高権力機関として全国人民代表大会が設置され、9月20日に全人代第1回会議において中華人民共和国憲法が正式に制定され、9月27日、毛沢東は憲法に基づいて新たに設置された国家主席に就任しました。国家主席に就任した毛沢東は、自己に対する反対勢力を粛清していくのですが、毛沢東はまず中国共産党に対する党外からの積極的批判を歓迎するという「百花斉放百家争鳴」運動を展開し、多くの知識人から共産党の独裁化を批判されると、今度は逆にこれを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄しました。共産党に批判的な知識人層の排除に成功した毛沢東は、急進的社会主義建設路線の完成をめざし、1958年に大躍進政策を発動させ、農村では「人民公社」が組織されましたが、かえって農民の生産意欲を奪い、無謀な生産目標に対して実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になりました。こういったことから大躍進政策は失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出しまいた。このことで「世界三大大量殺戮者」として、ドイツのアドルフ・ヒトラーやソ連のスターリンと共に揶揄されることとなり、この失敗以降、毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていきました。大躍進政策の失政によって政権中枢から失脚していた毛沢東は、政治・社会・思想・文化の全般にわたる改革運動という名目の下に、文化大革命を起こしました。実質的に文化大革命は中国共産党指導部内の実権派による修正主義の伸長に対して、毛沢東の復権を画策して引き起こした大規模な権力闘争(内部クーデター)でした。党の権力者や知識人だけでなく全国の人民も対象として、紅衛兵による組織的な暴力を伴う全国的な粛清運動が展開され、多数の死者を出したほか、1億人近くが何らかの被害を被り、国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたらしました。毛沢東の奪権目標であった劉少奇・鄧小平らの「実権派」は次々と打倒されましたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥ってしまいました。文化大革命が発動されて以来、毛沢東の下で実権を掌握したのは党副主席兼国防部長の林彪と毛の妻で党中央政治局委員の江青らでした。とりわけ林彪は毛沢東の後継者とされていましたが、その後毛と対立し、1971年にクーデターを計画したが失敗。林彪は亡命しようとしたが、搭乗した空軍機がモンゴル領内で墜落し、死亡した(林彪事件)。林彪失脚後、毛は人材難から鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えました。1972年2月18日、北京において行われたアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンとの会談し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げ、世界中の注目を集めました。ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが判明し、秋には肺気腫から心臓病を引き起こして深刻な状況となりました。周恩来、朱徳(1976年7月6日没)と、「革命の元勲」が立て続けにこの世を去るなか、1976年9月9日0時10分、北京の中南海にある自宅において、毛沢東は82歳で死去しました。毛沢東の死の直後に腹心の江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結しました。毛沢東の遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されています。以上、毛沢東の激動の人生をなるべく短くまとめてみようとしましたが、無理でした。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/1169-20ad3369
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。