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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

主席,你的学生和战友来见你了!

毛主席 あなたの生徒 あなたの戦友が いま…会いに行きます

江青の遺書。江青(こう せい、ジャン・チン、ピンイン:Jiāng Qīng。1914年3月 - 1991年5月14日)は、中華人民共和国指導者の毛沢東の4番目の夫人で政治指導者、女優。山東省出身。文化大革命(文革)を主導し「紅色女皇」と呼ばれた。文革末期には王洪文・張春橋・姚文元と「四人組」を形成し、中国共産党内で影響力を持ったが、毛沢東の死後に逮捕、投獄され、死刑判決を受ける。無期懲役に減刑ののちに、獄中で自殺した。「江青」は女優時からの名乗りであり、出生時の名は李淑蒙とも李進(李進孩)ともいう。毛沢東の漢詩に「李進同志」に宛てたものがある。小学校入学時には李雲鶴と名乗る。「江青」と改名する前には「藍蘋」として広く知られた。中華民国の山東省諸城県で生まれ、済南市の中流家庭で育つ。良家への結婚を求めた母は、李に纏足を施したが、李はすぐにこれを解いた。 演劇学校に進んだのち青島大学の図書館で副司書として働く。1931年に最初の結婚をするも2ヶ月で離婚した。この頃青島大学での学生運動の指導者で共産主義者であった兪啓威(黄敬)と知り合い同棲するようになる。その影響で1933年に中国共産党に入党した。しかし同年、その愈啓威が中国国民党政府に反政府活動のかどで逮捕され死刑宣告を受けた(後に釈放)。その後一時済南に戻ったが、後上海へ移った。その後、上海において「藍蘋」の芸名で女優活動を始める。上海の外国租界における社交界でも有名人となり、「ブルー・アップル」と呼ばれ持て囃された。しかし主演映画には恵まれず、唯一の主演話劇「娜拉(人形の家)」(1935)のノラ役以外の作品は皆脇役、端役であった。また同時期、時代の寵児であった才媛・王瑩を藍蘋時代から一方的にライバル視するが、主演をめぐり女優の世界ではことごとく王瑩に敗れており、これに恨みを飲んで後の文革での迫害につながった。1934年に俳優・映画監督・映画評論家で知られた唐納と結婚した。結婚式は趙丹ら当時の上海芸能界のスター3組の合同結婚式であり、たいへん華やかなものであった。しかし結婚生活はうまくいかず、挙式2ヶ月後には藍蘋は他の男性のもとへ走る。唐納は精神的に不安定になり、2度自殺未遂を起こしている。これらの騒動は大スキャンダルとなり、姦淫を犯した藍蘋が上海芸能界で活動することは事実上不可能になった。この間に江青の出演した映画『王老五』(1937年)はヒット作となり、「王老五」の役名そのものが「独身期間の長い男」をあらわす慣用句となった。内容は、独身期間が長い、貧しい労働者の王老五の人生と抜け出せない貧困の苦しみを描いたもので、江青は貧困の苦しみにあえぐ王老五の妻を演じている。1937年にようやく唐納との離婚が成立したが、8月には第二次上海事変が勃発。藍蘋はかつて同棲していた俞啓威と共に上海から脱出し、中国共産党の本拠地延安まで歩いて移動した。この時から藍蘋は「江青」と名乗っている。延安に到着後、魯迅芸術学院で演劇を教えていた。かつての人気女優であった江青は都会的で比較的スリムな美人で、男ばかりの延安で羨望の的だったという。やがて毛沢東と出会い、二人は交際を開始するようになった。この時江青は25歳、毛沢東は45歳だった。しかし当時の毛沢東は賀子珍(毛沢東にとって3番目の夫人)と結婚しており、江青との関係は不倫であった。毛沢東は賀子珍と離婚して江青と結婚をすることを決めた。しかし不倫関係が元であり、さらにスキャンダルで広く知られた江青を毛沢東の妻とすることに対する危惧感が、朱徳や周恩来といった幹部達の反発を招くことになる。結局、毛沢東は結婚の条件として江青を政治の表舞台に立たせないことを約束させられたという。幹部たちの反発はあったものの、日中戦争真っただ中の1939年に毛沢東と江青は正式に結婚した。翌1940年には1人目の娘の李訥が生まれた。国共内戦の結果、1949年に毛沢東を国家主席とする中華人民共和国が建国され、江青はファーストレディとなったが、この頃には体調を崩しソビエト連邦で療養生活を送る。帰国後の1960年代前半から、江青は政治活動に参加するようになり、かつての約束は反故となった。当時、毛沢東が複数の女性との関係を持っていたために、夫妻は事実上離婚状態となっていた。そのため毛沢東は江青をなだめる必要があり、他の党幹部も政治活動を容認したという。江青は王光美(劉少奇夫人)や宋慶齢(孫文未亡人)といった女性政治家にライバル心を持った。1962年9月、インドネシアのスカルノ大統領夫人であるデヴィ・スカルノが訪中した際に、毛沢東とともに歓待の席に姿を見せ、「人民日報」に初めて毛夫人として取り上げられ公けにされた。これはその前に接待した王光美とデヴィ夫人の模様が連日「人民日報」に報じられたことに反発した江青が、毛沢東を通じて公式の場に出ることを計ったものだった。数千万人の餓死者を出した大躍進政策の失敗で国家主席から失脚した毛沢東を支え、劉少奇の打倒を毛沢東に勧めるようになった。これがやがて文化大革命につながった。やがて1966年に始まる文化大革命で「四人組」の1人として活躍し、世界中に名を轟かせることになる。1966年8月に中央文革小組第1副組長(陳伯達組長)に就任。革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥し、京劇界は多くの名優と演目を失うことになる。この背景として、女優として活動していた彼女はそれなりの評価をもらっていたものの、正当な演技の訓練を受けていない自分を「演技派女優」として高く評価してくれなかった演劇界に対して個人的怨嗟があったといわれる。1969年の9全大会、1973年の10全大会で中央政治局委員に選出。康生、謝富治らを使って多くの人物を冤罪に落とし入れ、張春橋、王洪文、姚文元との四人組を政治局で結成。林彪の失脚後の10全大会以降は文化大革命の主導権を握る。表むきは夫毛沢東の忠実な部下を装い、「わたしは主席のためにパトロールする歩哨にすぎません」とよく口にしていた。嫉妬深く自分より優れた所のある女性は容赦なく攻撃し、王光美を逮捕・投獄したり、周恩来の養女で女優の孫維世を死に至らしめた。また、1967年には、女優生命を自分で絶つきっかけとなった『芸能界最大のライバル』、中国演劇界の寵児・王瑩を、彼女の夫・謝和庚とともに牢獄に送って迫害し、緩慢死に至らしめている(夫は生き延び、2005年に逝去)。江青は個人的に伝統芸能を好んでいたが、それを自分以外から取り上げることにまったく良心の呵責を感じていなかった。文革中は伝統芸能の打破を積極的に進めていたが、自身は景徳鎮などを愛し、熱心に収集していた。さらに、1976年には復活した鄧小平を再度失脚に追い込み、批林批孔運動によって周恩来の追い落としも図ろうとした。しかし同年の毛沢東の死の直後に、「四人組」の1人として逮捕された。1980年より他の「四人組」や林彪事件の関係者とともに裁判(「四人組裁判」)にかけられ、1981年に死刑(2年間の執行猶予付き)判決を受ける。「四人組裁判」の法廷においては、これが一種の「政治裁判」であることを批判・嘲笑する言動をたびたびおこない、何度も退廷処分を受けている。もっとも裁判では毛沢東の責任を検証しないなどそうした側面があったのは事実で、それ故に江青の言動が裁判を「茶番劇」から救ったと逆説的に評価する見解もある(辻康吾『転換期の中国』『文化大革命と現代中国』、いずれも岩波新書)。1983年には無期懲役に減刑された。1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平区にある小湯山秦城監獄で癌の療養中に首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの戦友が いま…会いに行きます」というのが遺書である。江青の自殺については6月4日になってようやく新華社より発表された。江青本人は「生家の山東省諸城に埋葬してほしい」と遺言状に残していたが、トラブルを懸念した江沢民が娘の李訥(毛沢東との唯一の娘)を説得し、2002年に北京の北京福田共同墓地に埋葬された。また、葬儀費用約5~6万元は李訥が負担させられた。墓石には「先母李雲鶴之墓 1914年~1991年 娘 娘婿 外孫建立」と彫られ、江青の墓とは分からないようになっており、また埋葬者の名前も刻まれていない。死後も、「悪女」として名を馳せ娘の李訥が迫害を受けたり、日本では西太后らと共に悪女として名を連ねた番組が放映されたりしていたが、21世紀の中華人民共和国内では、毛沢東を主役にしたドラマで「賢女」として描写されるなど、一部で「名誉回復」もうかがわれる。

中国では女性である皇太后は、朝臣と直接対面するのを避けるため、皇帝の玉座の後ろに御簾を垂らし、その中に座っていたことより、皇帝が幼い場合、皇后・皇太后のような女性が代わって摂政政治を行うことを垂簾聴政(垂簾の政)と言うのですが、江青はそれをやり損なった人です。彼女はは王洪文・張春橋・姚文元と「四人組」を形成し、中国共産党内で強大な影響力を持ちましたが、毛沢東の死後に権力の奪取に失敗し逮捕されました。元より中国国民から極めて嫌われていた彼女ら四人組が、国家の中枢に居座るのは無理がありました。1960年代半ばから約10年間にわたる文化大革命(文革)において、江青は中国共産党中央政治局委員、中央文革小組副組長、張春橋は国務院副総理、党中央政治局常務委員、姚文元は党中央政治局委員、王洪文は党副主席と、1973年8月の第10回党大会では四人全員が中央政治局委員となり勢力を伸ばしていきました。1976年9月9日の毛沢東の死去で、四人組はその象徴を失ったにもかかわらず、文革路線の堅持を主張して支配を確立しようとしましたが、政権は華国鋒に引き継がれました。国防部長(大臣)で反文革派の葉剣英(中華人民共和国元帥)から支持を受けた華国鋒らと文革堅持を主張する四人組の対立は毛の死の直後から急激に表面化し、上海の文革派民兵による砲台明け渡し要求をきっかけに反文革派は四人組の逮捕を決断しました。1976年10月6日、四人組は汪東興が率いる8341部隊によって北京で逮捕され、四人組の横暴は終焉を迎えました。四人組は1977年7月の第10期3中全会で、党籍を永久剥奪され、続く8月の第11回党大会では、1966年以来11年にわたった文革の終結と四人組の犯罪が認定されました。また実権派として迫害・追放されていた党員の名誉は回復されて復職しました。江青は元女優だったことで有名ですが、若かりし日はそこそこの美人でした。しかし、女優として大成することはできず、第二次上海事変によって逃亡した先の延安で、毛沢東と結婚しました。1960年代前半から、江青は政治活動に参加し始めたのですが、女好きの毛沢東が複数の女性との関係を持っていたため、夫婦としての関係はその頃にはありませんでした。極めて嫉妬深い性格であった江青は、夫の愛情の代わりに政治にのめり込み、王光美(劉少奇夫人)や宋慶齢(孫文未亡人)といった女性政治家にライバル心を持っていました。江青は文化大革命において、宋慶齢を批判し、王光美は逮捕・投獄させ、周恩来の養女で女優の孫維世を死に至らしめました。江青は個人的に伝統芸能を好んでいましたが、同時に最悪の文化の破壊者でもありました。彼女は革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥し、京劇界は多くの名優と演目を失っています。1981年に死刑(2年間の執行猶予付き)判決を受け、最期は1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平区にある小湯山秦城監獄で癌の療養中に首吊り自殺しましたた。上記の言葉は古新聞の片隅に書かれていたものです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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