07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

自食其力,实实在在为国为人民做些好事。

自力で生活して、地道に国のため人民のために少し良いことをしなさい。

劉伯承の最期の言葉。劉伯承(りゅう はくしょう、リュウ・ボーチョン、1892年12月4日 - 1986年10月7日)は中華人民共和国の軍人、政治家。中華人民共和国元帥。四川省(現在は重慶市)開県で旅回りの楽士の子として生まれる。1911年の辛亥革命では重慶軍政府に参加。1912年重慶軍政府将校学堂に入学。1914年、孫文の指導する中華革命党に入党。朱徳らとともに北伐に参加。1926年中国共産党に入党。1927年の南昌蜂起で参謀長として指揮。1928年からモスクワのM.V.フルンゼ名称軍事アカデミーに留学。1930年帰国。長征では党中央軍事委総参謀長として指揮をとった。抗日戦線では八路軍第129師団長。1945年からは晋冀鲁予軍区、中原野戦軍、中国人民解放軍第2野戦軍の司令員として同郷の鄧小平(政治委員)と組み、国民党との戦いにたびたび勝利し、1949年の中華人民共和国建国に大きく貢献した。第2野戦軍 は当時、劉鄧軍と称された。1955年、十大元帥の一人(序列4位)に選ばれる。1956年9月28日、第8期1中全会で中共中央政治局委員に選出[1]。1958年林彪と対立して失脚。1966年党中央軍事委副主席、全人代常務委副委員長。過去の戦闘中に片目を失明したため、普段は眼鏡をかけていた。「独眼竜将軍」の異名を持ち、「軍神」とも呼ばれた。鄧小平との友好関係(「劉鄧不可分」)は生涯続いた。鄧小平の有名な「白猫黒猫論」は元々、四川の諺であり、最初に提唱したのは同郷の劉伯承であった。

劉伯承は1926年中国共産党に入党し、27年の南昌暴動に際し軍事委員会参謀長となりました。 28年モスクワ赤軍軍官学校に留学し、紅軍総参謀長として長征に参加。抗日戦争中の37年に八路軍の第129師長、戦後は第2野戦軍司令となり、最後は中華人民共和国元帥にまでなった輝かしい経歴の持ち主ですが、日本人で彼を知っている人はまずいないでしょう。劉伯承よりは大親友であった鄧小平の方が、書きたいことが多いのですが鄧小平の最期の言葉は見つからなかったのでここに書きます。いわゆる鄧小平理論とは、「先に豊かになれる人が豊かになり、豊かになった人は他の人も豊かになれるように助ける」というものであり、これは毛沢東、華国鋒が提唱した「横並び路線」とは全く異なる方針でした。鄧小平の有名な「白猫黒猫論(不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫。白猫だろうが黒猫だろうがネズミ を獲るのが良い猫だ)」とは、資本主義だろうが共産主義だろうが人民を済うのが経済(経世済民)だという現実主義的な考え方でした。上記のとおりこれは四川の諺で、最初に提唱したのは同郷の劉伯承です。市場経済に重点を置いたこの理論は今までの中華人民共和国の社会主義中心論とは趣が異なるため、当時の中国国内の特に保守層からのこの論に対する反発が多かったのですが、現在の中国の重要路線となっています。鄧小平は経済的には生産力の増大を第一に考える政策を採った一方で、政治的にはプロレタリア独裁、社会主義、中国共産党による指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想という、四つの基本原則を提唱し、民主化運動を押さえつけて天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束させました。鄧小平は何度も失脚したことで有名な人ですが、盟友である劉伯承も林彪と対立して失脚した経験があり、苦難を共にした者同士、肝胆相照らすものがあったのでしょう。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/1173-b28aa71e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。