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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Sparami nel petto!

Shoot me in the chest!

胸を打て!

ベニート・ムッソリーニの最期の言葉。ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini、1883年7月29日 - 1945年4月28日)は、イタリアの政治家、教師、軍人。第40代イタリア王国首相。イタリア社会党で活躍したのち追放され、ファシズム理論を独自に構築し、国家ファシスト党による一党独裁制を確立した。王政後期のイタリア政界でイタリア社会党(PSI)の政治家として活躍し、第一次世界大戦後に自らの政党として結党した国家ファシスト党(PNF)のドーチェ (統帥)としてファシズム(結束主義)運動を展開、ローマ進軍によって首相に任命され、ファシズム政権を樹立した。1925年1月3日の議会演説で実質的に独裁体制を宣言し、同年12月24日に従来の閣僚評議会議長(首相職)より権限の強い「国家統領(イタリア語版)」(イタリア語: Capo del governo primo ministro segretario di Stato)を創設して自ら初代統帥に就任、同時に首相職を含めた複数の大臣職を恒久的に兼務することで独裁体制を確立した(ムッソリーニ政府)。1936年にエチオピア帝国征服によりサヴォイア家が帝位を兼ねる様になると(イタリア植民地帝国)、統帥職に加えて「帝国の創設者」「ファシストの指導者」という肩書きが加えられた。議会の指導下にあった軍の掌握にも努め、国王・皇帝ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世との共同就任という形で統帥権(元帥首席)を奪取した。零落の切っ掛けは第二次世界大戦に対する判断であった。当初、第一次世界大戦の様な塹壕戦による泥沼化を予想して、中立的な態度を維持していた。だが一ヶ月間という短期間でフランスが降伏に追い込まれた情勢から、準備不足の中でドイツ側での世界大戦参加を決断した。戦況が悪化する中の1943年7月25日、ファシスト党内でのクーデターによって失脚。その後、北イタリアを占領したドイツの支援によってイタリア社会共和国(RSI)及び共和ファシスト党(PFR)の指導者となるも、ドイツ当局の傀儡に近い状態だった。枢軸軍の完全な敗戦に伴い再び失脚し、1945年4月25日、連合軍に援助された共産パルチザンに捕らえられ、法的裏付けを持たない略式裁判により銃殺され、生存説を避けるために遺体はミラノのロレート広場に吊るされた。ムッソリーニは政治思想の一潮流であるファシズムの創始者という点において、政治理論家としても重要である。ムッソリーニは既存の様々な思想(ナショナリズム、コーポラティズム、国家サンディカリスム、帝国主義、反共主義)を理論的に結合し、新しい政治思想としてファシズムを構築した。政治家としての主な業績はまず政権初期の1924年から1939年まで行われた経済政策が挙げられる。この政策はラツィオ州の湿地帯(en:Pontine Marshes)の開拓に代表される公共投資や労働者保護、公共交通機関の統制など多岐に亘った。宗教政策では普仏戦争以来の教皇領問題に解決案を提示して、ラテラノ条約の締結によるローマ・カトリックとの和解に成功した。対外政策では植民地、および経済植民地への影響力強化を推進して海外市場の拡張に努めた。戦後も共和ファシスト党(PFR)を事実上の前身とするイタリア社会運動(MSI)や、MSIが合流したイタリア国民同盟(AN)、自由の人民(PdL)、イタリアの同胞(FdI)などが国政で議席を獲得している。

一般的な日本人にはベニート・ムッソリーニは、恐らく人類史上最悪な人間の一人として認識されている人でしょう。彼は国家ファシスト党(PNF)のドゥーチェ (統帥)としてファシズム(結束主義)運動を展開し、既存の様々な思想させ政治思想の一潮流であるファシズムの創始しました。ドゥーチェ(Duce)の称号は直訳すると「指導者」の意味で、イタリア三英傑の一人である軍事指導者ジュゼッペ・ガリバルディに対する尊称として広まった言葉でした。ムッソリーニは父から強い影響を受けて社会主義と、第一インターナショナルにも参加していたジュゼッペ・ガリバルディやジュゼッペ・マッツィーニら、愛国主義的な共和主義に傾倒していたので、この尊称は彼にとってもお気に入りだったようです。少年期のムッソリーニは「手が早い乱暴者」という扱いを受けており、実際に腕っ節の強さで村の少年達のリーダーでしたが、勉学面では教養深い両親の間に生まれ、田舎町の生まれでありながら正確な標準イタリア語を話す事ができました。前途有望な当時のムッソリーニでしたが、学費の大小によって生徒の待遇が異なるファエンツァ寄宿学校に入ったことによって、彼の人生は決定してしまったのかもしれません。常に自身が農民の子であり、鍛冶屋の子であることを誇りにしていた彼は、この学校で「社会の不公平さ」を実感し、また偽りの平等を説く教会を憎みました。教師の側もムッソリーニを警戒し、風紀委員を通じて監視下に置いており、こうした状況から学業成績こそ「鋭敏な知性や記憶力に恵まれている」「どの科目も一読するだけで暗記している」「試験成績では他の生徒を圧倒している」と高く評価されていながらも、教師にインク瓶を投げつけ、上級生をナイフで刺し、ミサを妨害するなど暴力事件を引き起こす問題児になってしまいました。手に負いかねた修道会は五年生の時に退校処分とし、ムッソリーニは宗教色のないジョズエ・カルドゥッチ寄宿学校に転校しました。そこは共和主義と愛国主義の両立を信念としている学校でした。イタリア統一の障害となった教会を嫌う世俗主義者でもあったカルドゥッチらが運営する無宗教学校は、ムッソリーニの価値観と一致し、以前とは一転として優等生として過ごし、優秀な成績を収めて卒業し、彼はその思想を広めることに生涯をかけてしまいました。1898年、師範予備学校を修了して師範学校の正規課程に進み、1901年7月8日、ムッソリーニは師範学校を首席卒業し、政府から教員免状を付与されました。こうしてムッソリーニは教師から独裁者になるという、世界的に見ても珍しい経歴を残すこととなりました。その後、イタリア社会党の町長が選出されているグァルティエリという町に赴任したのですが、彼の最初の教師としての生活は長く続きませんでした。町での教師としての評判は上々だったのですが、彼は退職すると見聞を広めるべくスイスに移住し、石切職人や左官屋として働き、一時は浮浪者にもなるという不安定な生活を送りました。様々な人々と交流を持ち、またスイスでイタリア語と共に話されているドイツ語・フランス語を習得しました。この時期は、様々な文献を読み漁ってジョルジュ・ソレルやシャルル・ペギー、フリードリヒ・ニーチェ、エルネスト・ルナン、ギュスターヴ・ル・ボンらの思想を学び、ヴィルフレド・パレートのローザンヌ大学での講義を聴講し、政治学の教養を高めてもいました。。特にソレルの思想には多大な影響を受け、後に「ファシズムの精神的指導者」「私の師」「私自身はソレルに最も負っている」とまで賞賛しているのですが、マルクスの左派修正主義を主張し、ドレフュス事件の際に反ユダヤ主義への反対もして後にベンヤミンも影響を受けたソレルを、ムッソリーニが高く評価していることは、今から見れば皮肉なことです。こうした経験の中で最も特筆されるのはウラジーミル・レーニンとその秘書アンジェリカ・バラバーノフらとの出会いであり、ムッソリーニはレーニンの狂信的な支持者であるバラバーノフからマルクス主義、及びレーニンがそのマルクス主義に独自の解釈を加えて成立したマルクス・レーニン主義についての徹底的な教育を受けました。またレーニン自身もムッソリーニの演説会に足を運んでその才能を高く評価し、後にイタリア社会党が彼を除名した際には「これでイタリア社会党は革命を起こす能力を失った」「あの男を追放するなんて君らはバカだ」とまで叱責しています。ムッソリーニは本格的に政治運動へのめり込み、スイスのイタリア語圏で労働運動に加わって、イタリア社会党の若手政治家として注目を集めました。1905年1月、徴兵に応じて入隊して王国軍の選抜部隊である狙撃部隊(ベルサリェーリ)に配属されました。兵役の間も勉学を続け、ドイツロマン主義、ドイツ観念論、ベルグソン、スピノザについて研究し、1906年9月に兵役を終えて除隊すると、オーストリアとの国境に近い東北部の小さな町トルメッツォで教師に復職しました。このままで終わってくれれば、彼もイタリアも平和だったのですが、平和な生活に飽きたのか、故郷のプレダッピオを含むロマーニャ地方での革命的サンディカリスム(急進組合主義)が扇動した農民反乱に参加し、暴動の中で脅迫や無許可の集会などを理由に三度警察に拘束されました。この頃からムッソリーニは社会党の政治活動に専念する様になりましたが、全面的に社会党の路線を支持している訳ではありませんでした。元々ムッソリーニは少年期から多様な思想を学んでいた事から教条的な政治家ではなく、積極的に他の思想を取り込んでいく政治的シンクレティズムを志向する政治家でした。要するに何でもありです。左翼と右翼の政治的な見解を結合したイタリアの国家的なサンディカリストの中から、ファシズムという思想は生まれてきました。反平等主義的な選民主義を説いたフリードリヒ・ニーチェから選民主義と反キリスト思想の影響を受けていたムッソリーニは、社会主義の一般的な理念から見れば異端であり、マルクス主義の決定論や社会民主主義の改良主義の挫折によって社会主義全体が道を失い始めていると感じると、ニーチェの思想による社会主義の補強を試み、ソレル主義に代表される革命的サンディカリスムにも接近していきました。こうして、ムッソリーニの「階級の破壊」「万国の団結」を目指す平等主義・国際主義的な社会主義は、「民族の団結が社会に階層を越えた繁栄を齎す」とする民族主義的な社会主義へと変化していきました。1911年にイタリア・トルコ戦争が勃発すると、右派も左派も政府との協力体制を望んで植民地戦争に好意的な姿勢を取ったのですが、そうした中でムッソリーニのみが不毛な植民地戦争を腐敗した今の国内体制を打倒する事に転じさせるべきだという主張を貫き、政府との協調路線に傾斜する指導部に不満を持っていた社会党員内での再評価に繋がっていきました。ムッソリーニは未だ30歳にもなっていませんでしたが、レッジョ・エミリアで開かれた1912年の全国党大会では急進派の指導者として演説し、完全に党員達の心を掴みました。1912年12月1日、党指導部は党中央の日刊紙であり、最大の機関誌である『アヴァンティ!(前進!)』編集長にムッソリーニを任命し、着任から2年足らずで発行部数を2万部から10万部にまで急増させました。この辺りの彼のプロパガンダを重視する戦略と才能は、後にヒトラーにも影響を与えました。1914年第一次世界大戦が勃発した際に、各国の社会主義者は祖国の戦争遂行に必ずしも反対しませんでした。ムッソリーニも戦争が民族意識を高めると考えていたのですが、ムッソリーニが属する社会党は開戦前夜に戦争反対を議決してゼネストと暴動を決行していたので、一応それに従っていました。しかし、この暴動が失敗すると、ムッソリーニは社会党の路線を見限り、参戦を主張しました。協商国側への参戦熱を高めるキャンペーンを展開したため、イタリア社会党はムッソリーニに除名処分を行いました。参戦論への転向はしばしば「経済的理由」「栄達への野心」などが理由であると批判的に語られますが、もしムッソリーニが単なる私的な野心で行動する人物なら、指導部に地位を得ていた社会党に留まる方が自然であり、こうした日和見主義という批判はムッソリーニの離党後の混乱に危機感を抱いた社会党指導部の中傷による部分が大きいというのが事実です。1915年5月24日、イタリアが秘密協定に基づいて連合国側で参戦すると、かつての兵役時代と同じくベルサリエーリ部隊に配属され、頑強な肉体を持ち勇敢なムッソリーニはすぐに軍からの信頼を勝ち取り、また他の兵士達とも友情を結んで打ち解けていきました。自ら望んで最前線への配属を希望し、前線の山岳戦闘や塹壕戦で勇敢な戦いぶりを示して下士官(軍曹)にまで昇進しましたた。上官の推薦状において、ムッソリーニは「彼の昇進を推薦する理由は軍における手本とするべき行動――勇敢な戦い、落ち着き払った態度、苦痛に対する我慢強さ、軍務に対する熱意と秩序ある行動を見せたことによる」と称賛されています。ムッソリーニは塹壕内での手榴弾による爆発で重傷を負い、傷痍軍人として名誉退役することになるのですが、治療後も彼のの全身には摘出できない40の砲弾の破片が残り、後遺症の神経痛に悩まされることになりました。この個人的な苦痛が、彼の政治政策を凶暴なものに変えたのかもしれません。大戦終結後、イタリア王国は戦勝国の地位と南チロル・イストリアの併合を勝ち取りましたが、民族主義者はスラブ系とイタリア系住民が混淆したダルマチアの併合が民族自決論の前に阻まれたことを不満に感じ、自国政府や旧連合国への批判を強めていました。ムッソリーニは主流派の社会主義に幻滅しており、1919年3月23日、自身と同じ復員軍人や旧参戦論者を中心とする新たな政党「イタリア戦闘者ファッシ」を設立し、200名が参加しました。初期段階のファシズムは国家サンディカリズム(国家組合主義)とフューチャリズム(未来派)の強い影響を受け、社会問題の解決を階級闘争ではなく階級協調に求める部分に特徴がありました。イタリア戦闘者ファッシによるファシズム運動が開始されましたが、当初ムッソリーニは創設者ながら積極的に組織運営に関与せず、部下に実務を任せており、「戦闘者ファッシ」は特に存在感を示せませんでした。集まった創設メンバーの90%が2、3年で脱退し、党内の左派勢力が退潮していくとムッソリーニ自身も党内右派の主張に舵を切りました。1921年5月15日の選挙(1921年イタリア総選挙)ではジョリッティ政権の仲介でイタリア・ナショナリスト協会など複数の国粋政党からなる民族主義政党の統一会派国民ブロックが結党され、ムッソリーニのイタリア戦闘者ファッシもジョリッティからの要請を受託して参加しました。国民ブロックは全体票の19.1%となる約126万票を獲得する勝利を得て、第1党のイタリア社会党と第2党のイタリア人民党に続いて第3党となりました。議会では代議院の535議席中105議席を与えられ、その内の35議席がムッソリーニを含めたファシスト運動に賛意を示す議員であり、20議席がファシズムに理解を示すナショナリスト協会出身でした。ファシズム派が多数を占めた国民ブロックはやがてムッソリーニの支持基盤として機能していくことになります。国政に進出したムッソリーニは退役兵・民兵団体の緩やかな連合体であったイタリア戦闘者ファッシを正式に政党化すべく、駆け引きによって地方の指導者層を抑え、1921年11月9日にローマで開かれた党大会で「イタリア戦闘者ファッシ」を国家ファシスト党(ファシスト党)へ発展的に解散させる事を宣言し、結党後は自らは書記長(党首職)に立候補せず、政治的盟友でサンディカリストの政治家であったミケーレ・ビアンキを初代書記長に任命しました。議席を得た後も議会政治に頼らず、早期に権力掌握を目指すムッソリーニの意思は変わらず、第二次ルイージ・ファクタ政権に対して、民族主義・国家主義を掲げる政権を打ち立てるべくクーデターの準備を始めました。ミケーレ・ビアンキ党書記長、イタロ・バルボ党支部書記、チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ代議員、エミーリオ・デ・ボーノ陸軍元帥らファシスト四天王を始めとするファシスト党の議員・私兵組織(黒シャツ隊)が各地で武装蜂起し、最終的に首都ローマを占拠してムッソリーニを首相に擁立する計画が実行されました。1922年10月26日、ルイージ・ファクタ首相は第一次世界大戦開戦時に宰相職を務めたアントニオ・サランドラ元首相から、退陣に応じない場合はムッソリーニがこのままローマを武装占拠する構えであることを通告されましたが、ファクタ首相はサランドラ元首相やムッソリーニの提示した和解案を信用せず、最終的に戒厳令の発動に踏み切る決意をしました。黒シャツ隊は退役兵の民兵組織であり、戒厳令による鎮圧が始まれば容易に抑え込めることが予測されており、また一部の軍将官による協力も、王軍の総司令官たる国王の命令があれば直ちに停止することは明白でした。しかし謁見したファクタ首相に対して、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は戒厳令の発動を拒否して命令書に署名しませんでした。反王党派のイタリア社会党・共産党にファクタ連立政権は弱腰で王党派から不信感を抱かれていたのが原因だったのですが、このことはイタリアの歴史を変えてしまいました。1922年10月29日、首都ローマに黒シャツ隊2万5000名が入城する中、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は謁見したムッソリーニに対して組閣を命じる勅令を出しました。1922年10月31日、新たに国家ファシスト党と人民党・自由党・社会民主党の連立による第一次ムッソリーニ政権が成立し、以後イタリア王国は1943年までの約20年にわたるファシスト政権時代に入りました。スペインでは失敗した「ファシストによる立憲君主制維持」は、イタリアでは成功しました。政権の座に就いたムッソリーニであったが、この時点では武力を背景にしつつも独裁的な政権というわけではありませんでした。しかし、1922年12月、党と政府の意見調整の場としてファシズム大評議会が設立され、更に翌年2月1日には黒シャツ隊を正式に予備軍事組織として政府軍の指揮下に収められて国防義勇軍(Milizia Volontaria per la Sicurezza Nazionale、MVSN)に改称、国家ファシスト党の権限は着実に強化されていきました。1924年4月6日の選挙(1924年イタリア総選挙)で国民ブロックと合併した国家ファシスト党が優勢を維持し、最終的に有効票の64.9%を得た国家ファシスト党が選挙法改正に基いて374議席を配分され、野党と明確な差をつけました。ムッソリーニは建前上は議会政治・多党制を維持していましたが、今や政権内の全閣僚がファシスト党出身で占められ、ムッソリーニ自身も首相職以外に外務大臣・内務大臣・植民地大臣・国防大臣を兼任する立場となっていました。1927年には控訴が認められない国家防衛裁判所を設置して治安権力を掌握し、1928年9月、ファシスト党の諮問機関である大評議会が国家の最高諮問機関に定められ、党を王家や議会に並ぶ国家の権威に位置付けられました。1929年3月24日の選挙(1929年イタリア総選挙)は国家ファシスト党以外の参加が認められず、投票用紙には「Si(スィ、はい)」「No(ノ、いいえ)」の二項目だけしか記されていませんでした。事実上の翼賛選挙となった選挙を経て、国家ファシスト党は全議席を獲得した(一党独裁)。当時のイギリスやアメリカなどの民主主義国家でも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える動きがあり、1920年代前半のアメリカの新聞でも好意的に報道されていました。初期にはアルベルト・デ・ステファニに経済政策が任され、民間企業を国有化することなく、一時過剰であったストライキが衰退し、景気は回復し失業者も減少し、生産力も増しました。しかし、1929年の世界恐慌の影響で失業者が100万人以上に膨れ上がり、次第に財政支出を増やし始め、第二次世界大戦が開戦する1939年までイタリアはソビエト連邦の次に国有企業が最も多い国となりました。ドイツに比べイタリアは軍事費より公共事業費が多かったことも大きな特徴です。ムッソリーニはパリ講和会議によって傷つけられたイタリアの威信回復には実力が不可欠であると考えており、バルカン諸国やトルコを牽制するための軍備充実と、就任後まもなくからドデカネス諸島への遣艦計画やコルフ島事件に見られるような積極政策を取りました。軍備の拡張が大いに進められ、空中艦隊構想や新型戦艦や空母の建造など海軍力の強化、著しく旧式化していた陸軍装備を更新されました。この軍拡と対外強行主義は国民の歓心を呼びましたが、一方でイタリアを外交的に孤立させ、資源輸入で重要な米英と敵対してしまうという致命的な結果をもたらしました。そのため農業国であったイタリアの軍備増強は名前だけのものと化し、結局第二次世界大戦開戦時の時点で軍備増強は何一つとして成果を挙げられないまま、海軍は旧式戦艦や小型艦艇の運用で急場を凌ぎ、陸軍は師団の半数以上が定員割れを起こした状態で戦地へ向いました。もう一つ重要な対外政策として、運命の同志ヒトラーとの関係があります。最初アドルフ・ヒトラーはムッソリーニを尊敬していましたが、ムッソリーニは学識や政治経験の差、および外交路線の利害からヒトラーを嫌っていました。その後の独伊関係の進展により、ムッソリーニとヒトラーの関係は次第に良好となったのですが、イタリアの敗勢が明らかになるとムッソリーニに対するヒトラーの態度は次第に冷淡になり、1943年の失脚後は完全に格下の扱いとなりました。同じファシストの独裁者でもスペインのフランコ将軍と違い、ドイツと組んだことはムッソリーニにとって最大の失敗でした。第二次世界大戦開戦時にはイタリアは中立的な態度を維持していましたが、一ヶ月間という短期間でフランスが降伏に追い込まれた情勢から、準備不足の中でドイツ側での世界大戦参加を決断してしまいました。イタリアの戦いは地理的な要因から概ねイギリスとその衛星国および植民地を相手にしたものでしたが、工業力に乏しいイタリア王国の軍勢は装備や物資面でイギリス軍に大きく差を付けられており、ソマリランドの占領や遣露部隊の活躍など部分的な成果はあったものの、イギリス領ケニア、英・エジプト共同領スーダンへの侵攻、ギリシャへの侵攻などは不調に終わりました。またドイツの要請に応じて行ったエジプト遠征もイギリス軍に敗北し、日増しに拡大する戦局を前にイタリアは他の枢軸国同様、ドイツへの従属を深めていきました。振るわない戦局はムッソリーニの威信を失わせ、1943年7月に行われた連合国軍のシチリア上陸を契機として支配層内部のムッソリーニ批判が顕在化し、7月25日には国王に解任を告げられ、王宮を出た直後に逮捕され、アペニン山脈の「グラン・サッソホテル」に幽閉されました。9月12日にナチス親衛隊のオットー・スコルツェニー中佐に救出されローマへと連れ出され、その後ヴォルフスシャンツェでヒトラーと落ち合いました。ドイツが支配下に置いた北イタリア地域においてムッソリーニの利用価値があると感じていたヒトラーは、ドイツの支援を受けた政権の首班への就任を説得し、承諾して以後は完全に子分扱いでした。ムッソリーニは北イタリアにイタリア社会共和国(RSI)の樹立を宣言し、その首班に就任しました。RSI軍は義勇兵と正規兵・民兵が入り混じる状況下でドイツ軍と共に連合国軍に対して勇敢に戦いましたが、RSI軍は敗れました。戦いが終焉すると、勝者となったパルチザンが次々とRSI軍兵士やファシスト党員らを虐殺し始め、ムッソリーニの周囲は彼に政治的亡命を薦めました。日本政府も潜水艦で秘密裏に日本に亡命することをムッソリーニに打診しましたが、ムッソリーニは「好意はありがたいが、余はイタリアで人生を終えたい」と返答して丁重に断っています。ムッソリーニはスイスに向かい、そこから中立国でヨーロッパでファシスト政権が継続しているスペインへ向かう計画であったとされていますが、第52ガリバルディ旅団のパルチザン部隊に途中で捕捉されました。ガリバルディ旅団の指導部は予想外の出来事に動揺しつつも、他に拘束していたファシスト政権の要人たちと合わせて一挙に略式裁判で葬るという決断を下しました。最初から法の裁きを受けさせる気がなかったという点で、これは不法な人民裁判でした。ギウリーノの広場に用意された処刑場で彼らを並ばせると、ムッソリーニから離れようとしなかったクラレッタにまず銃撃が浴びせられた。ムッソリーニはクラレッタが倒れると自らの胸元を示して「心臓を撃て」と語り、胸を撃ち抜かれました。しかしムッソリーニは荒い息になりながらもこれを堪え、更に銃弾を胸に撃たれると遂に倒れましたた。他の要人たちは二人の処刑が終わった後、日が暮れるまでに全員が処刑されました。1945年4月29日、ガリバルディ旅団はムッソリーニの生存説を払拭することも含め、その死を公布するために遺体をトラックで辺境であるメッツェグラ市から主要都市の一つであるミラノ市へと移送し、衣服を着けたままの要人たちの遺体をロレート広場に投げ出して晒し者としました。やがて遺体は広場の屋根にロープで吊り下げられましたが、これはファシスト政権が政治犯に行っていた街頭での絞首刑に対する意趣返しの意味合いがありました。群集が散会した後、広場に下ろされたムッソリーニの遺体はミラノ郊外の墓地に埋葬されたましたが、墓には支持者による利用を防ぐために無名の石碑が設置されました。しかし、右派系の政治団体によって正式な墓を作るべきだとする運動が起こされ、遺体は生家のプレダッピオに記念碑を作りそこへ改葬されました。現在でも記念碑はファシズムやその系譜にある政治思想を支持する人々、およびムッソリーニを好意的に評価する人々による献花が絶えないことで知られています。ムッソリーニの人生を長々と書きましたが、彼はプラトンやアリストテレスと同様に、民主政を「衆愚政治」と考え、プラトンの「哲人政治」のような少数の政治的エリートが指導する体制でしか理想社会の建設はありえないという姿勢を崩しませんでした。それが彼を独裁者としてしまったのですが、民族虐殺などの戦争犯罪を行っておらず(単にイタリアが弱かっただけかもしれませんが)、人間的には案外良い人であり、マフィアを徹底して弾圧したり、積極的な雇用政策を進めたことから、現在のイタリアでもナチスの様に極端なタブー視はされずに、比較的に好印象を持たれていたりもします。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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