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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Here rests in peace the one who was the Joy of the People – Mané Garrincha.

人々の喜びであった人、ここに安らかに眠る。マヌエウ・ガリンシャ

ガリンシャの墓碑銘。ガリンシャ (Garrincha) こと、マヌエウ・フランシスコ・ドス・サントス(Manoel Francisco dos Santos, 1933年10月28日 - 1983年1月20日)は、ブラジルの元サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード(右ウイング)。サッカーブラジル代表の2度のワールドカップ制覇に貢献した20世紀最高のウイングの一人である。愛称の「ガリンシャ」とはポルトガル語で山岳に生息する小鳥、ミソサザイを意味する。この他にマヌエウの短縮形の「マネ (Mané) 」 、「マネ・ガリンシャ (Mané Garrincha) 」 、または身体的な特徴から「脚の曲がった天使(英語: The angel with bent legs、ポルトガル語: Anjo de Pernas Tortas)」と呼ばれていた。選手時代はトリッキーなドリブルの技術で注目を集め、サッカーの王様ペレと並び称された存在だったが、晩年はアルコール依存症を患い、肝硬変により49歳の若さで亡くなった。リオデジャネイロ近郊のパウ・グランデで生まれる。父はインディオ、母はアフリカ系ブラジル人という出自の混血児だった。6歳の時にポリオ、俗に言う小児麻痺にみまわれた。ガリンシャの家は貧しく医者にかかる金などはなかったため一人の無名の若い医者が無料で手術を施した。その結果、彼の背骨はSの字状に歪曲し両足が同じ方向にねじ曲がった。以後も軽度の知的障害が残り、小児麻痺の影響で左右の足の長さが異なる(右足が左足より6cm長かった)ハンデを背負うことになった。「ガリンシャ」の呼び名は姉が「ミソサザイのように小さい」と評したことに由来しているとも、ゴムのスリングショットでミソサザイを撃つ遊びが得意だったからとも言われている。生まれ育ったパウ・グランデは山や森、川などの自然に恵まれ、ガリンシャはそういった環境で伸び伸びと育ち狩りや釣りに才能を発揮していたが、同時にサッカーでも特異な才能を示し始めた。ハンデを背負ったはずの歪曲した足が予測のつかない動きを生み出し、いつしか街で一番のドリブルの名手となっていった。14歳の時にパウグランデの製織工場で働き始めたが、職務怠慢を理由に一旦解雇。後に社長が工場のサッカークラブ「エスポルチ・クルビ・パウ・グランデ」でプレーをさせるために復職させたこともあった。一方で自身はサッカーに然程は固執しておらず、地元開催の1950 FIFAワールドカップで国中が盛り上がりを見せていた際にもその姿勢は変わらなかった。決勝リーグ最終戦のウルグアイ戦でブラジルが敗れ優勝を逃した時(マラカナンの悲劇)も世間の喧騒を他所に釣りへ出かけており、この試合を観ていなかったという。また、ガリンシャのプレーを観た者がその実力を認め、自らのクラブでプレーするように勧誘したり、リオデジャネイロを本拠地とするビッグクラブの入団テストを受けるように勧めていたが、本人は乗り気ではなく、ある時はスパイクを忘れたためにテストを追い返されたり、「帰りの列車に間に合わなくなるから」と途中で帰宅してしまうこともあった。ガリンシャは18歳の時に工場労働者の女性と結婚した。ガリンシャはプロ選手となるとリオデジャネイロに移り住み、妻はパウ・グランデに残ったが、二人の間には8人の子供が生まれていた。一方で複数の女性と浮気を繰り返し、子供をもうけるなど生活は乱れたものだった。1966年頃からサンバ歌手のエルザ・ソアレスと交際するようになると妻と離婚したが、この結果娘のために多額の養育費を支払わなくてはならなくなり、経済的に破綻していった。このことはマスコミに報じられ批判の対象となったが二人の交際は続きやがて再婚、「ブラジルを代表するカップル」と評されるようになった。しかし1969年4月、ガリンシャは自身が運転する車で交通事故を引き起こし、同乗していたエルザの母を死に至らしめた。選手生命が半ば絶たれていたこと、義理の母を死なせたことでガリンシャは塞ぎこむようになり、何度も自殺未遂を図るようになった。1973年12月19日、ガリンシャのための感謝試合がエスタジオ・ド・マラカナンで行われた。この試合は生活に窮するガリンシャの当面の生活資金を捻出するために企画された物で、39歳になっていたガリンシャはブラジル選抜の選手としてペレを筆頭とした1970 FIFAワールドカップ優勝メンバーと共にプレーし、ブラジルでプレーをする選手で構成された外国人選抜と対戦。ガリンシャは前半で退いたが、試合は2-1でブラジル選抜が勝利した。なお、この試合の際の入場料収入から100万クルゼイロが贈られた。これを基にレストランを開業したが、友人達がただで飲み食いをしたことで、瞬く間に経営状態が悪化し倒産した。選手時代から飲酒の習慣があったガリンシャだったが、引退後はますます酒癖が酷くなり、エルザはガリンシャを立ち直せるために共にヨーロッパへと移住した。しかしエルザは歌手としての仕事を得たものの、ガリンシャは相変わらず酒に溺れる日々を送った。ようやくブラジル・コーヒー協会の親善大使という職を得たが、長くは続かなかった。二人はブラジルに帰国し1976年7月9日に息子が生まれた。しかしガリンシャの酒癖は改善せず、エルザに暴力を振るうようになったため、息子に危害が及ぶことを恐れたエルザは息子を連れてガリンシャの下を去った。その後、ガリンシャは三度目の結婚をしたが、アルコールに溺れ入退院を繰り返す日々を続けていた。晩年は孤児にサッカーを教える仕事に就いていたという。1983年1月19日、朝から酒を飲んでいたガリンシャは午後になると突然体調を崩し病院に搬送され、翌1月20日6時頃、肝硬変により息を引き取った。49歳没。なお、若き日の面影の無い変わり果てた姿を見て担当した医師は最後までガリンシャ本人だと気がつかなかったという。遺体は故郷のパウ・グランデまで消防車で運ばれたが、これは1958 FIFAワールドカップ優勝の祝勝パレードに倣ったものだった。ガリンシャの葬儀にはかつてのボタフォゴのチームメイトだったニウトン・サントスをはじめ、8000人近いファンが参列した。ガリンシャの遺体は完成したばかりのプロサッカー選手専用の墓地へ埋葬する意見が多数を占めたが、サントスは故人の意思を尊重するべきだと主張し故郷のパウ・グランデの墓地へ埋葬された。

サッカーの神様ペレを知っている日本人は多くても、ガリンシャを知っている人は結構少ないかもしれません。ガリンシャは天才的なサッカー選手でしたが、身体障害者でした。彼は小児麻痺により背骨はSの字状に歪曲し両足が同じ方向にねじ曲がっており、また右足が左足より6cm長く、軽度の知的障害も残りました。ガリンシャは1958年のワールドカップスウェーデン大会で代表に招集された時に、心理学者により行われた心理テストにおいて攻撃性の欠如、知能テストから「13歳の知能しか有していない」という結果報告がなされています。「ペレはアスリートであり、ガリンシャはアーティストだった」という評価がありますが、これは言い得て妙でしょう。ブラジル代表の試合前のミーティングでの出来事で、監督が試合に向けた戦術を説明している横で、ガリンシャは漫画に夢中になって話を全く聞いていなかったので、監督は諦めて「君の好きなようにしなさい」と告げたそうです。結果ガリンシャは好きなようにプレーしてブラジルを勝利に導いたという話が残されています。しかし、サッカー選手として彼は天才以外の何者でもありませんでした。ボールにまったく触れず、体を動かすだけで相手の体勢を崩し、対戦相手の2重、3重のマークを巧みなドリブルで嘲笑うことを楽しんでいるかのようでした。「ガリンシャがいなければ、私はワールドカップで3度優勝することは出来なかっただろう。」とは、神様ペレの言葉です。事実、ブラジル代表でガリンシャとペレの両者が揃って出場した試合は、決して敗れたことがありませんでした。世界中ではペレの方が史上最高のサッカー選手として認識されていますが、ブラジル国内では「どちらが史上最高のサッカー選手か?」について議論の対象になっています。両者は「ペレはサッカーの王様として尊敬の対象であるのに対して、ガリンシャは民衆の愛情の対象だった」「ペレは模範的な選手であり真のプロフェッショナルだったのに対して、ガリンシャは純粋に自分の楽しみのためにプレーした」という具合に相反する側面を持つのですが、国民はガリンシャに心情的に共感し、世代を超えたブラジル最高の選手としてガリンシャの名前を挙げることが多いようです。特に引退後のガリンシャはその女好きで子供っぽい性格から、数々のトラブルを起こし、また極端な酒好きから入退院を繰り返すようになりました。ガリンシャの最期は、1983年1月19日、朝から酒を飲んでいたガリンシャは午後になると突然体調を崩し病院に搬送され、翌1月20日6時頃、肝硬変により亡くなりました。49歳という若さでのことでした。

伝説のドリブラー、ガリンシャ legend of football
https://www.youtube.com/watch?v=wwD2_zX0ajo
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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